シェア、という言葉にまといつく意味を再考しよう。と思いついたのは、
10月1日。プラハ・新市街、Cafe Neustadt
と、メモの日付を見る限りは、もう8ヶ月程も前、プラハを離れるついこの間のことであるようだ。
以下、真っ昼間からビールを飲みながら書きはしったことと記憶。
その前に、私の今日に至る迄数々ことを、様々な人に負っていることをまず感謝。
以下本文。
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昨今いわれているような、シェア、とはなにか?
オフィス、住居、車、様々な物、私的所有物の共有、しかも、ここ5年程度で顕在化することになったような、新たな所有形態。
なにがそれを可能にしたか?
新しいネットワーク、及びテクノロジー。
例えば、共同住宅(例えば、1920年代から30年代によく見かけられたような、バウハウス的な思想による家の形態、から、「団地」という二十世紀の半ば頃から末期にかけて、大量に建てられた住宅様式)の様式の編纂にみられるような?
いや、それは、生の形態を司るような、統治様式の変遷によるものが大きいのでは?
というのは、テクノロジーの進化が、マスという形態で「労働者」および家族(そして、その生をも)を管理する形態として、「団地」なるものを必要としなくなったから。それは郊外という20世紀世紀転換期前後に出現した都市の衰退を意味するのだろうか。いや、郊外は、にもかかわらず、拡張しつづけている。個々数年日本においても顕著な都市中心部への人口の回帰などにも関わらず。
(ネグリ・ハートのいうような)コモン、もしくはコモンウェルス?
あるいは(柄谷行人一派が20世紀から21世紀の世紀転換期に主張していたような)アソシエーションというコミュニティーあるいは所有・生産の形態。(注・恐らくNAMのこといっているのだろうと推測。)
生産手段の共有という「共産主義」とは一線を画す。
とはいえ、「シェア」というある種の理念、それはその上記の「共産主義」というものが掲げたような理念に限りなく近いのかもしれない。生産手段だけでなく、所有物を共有するだけでない。
それどころ、思想そのものを「シェア」する、共有、あるいは分かち合う。
その意味では、「住居」をシェアする、というのは、限りなく生活のスタイルをシェアするという風にいえる。最近、こちら、ヨーロッパでよく見られるようになった、カーシェアリングなども、その意味では、交通機関、特に乗用車などが排出するような、二酸化炭素排出を削減する、その意味ではある種のエコロジー的なライフスタイルの構築ともいえる。
が、それは、環境破壊のスピードを緩める、資源の消費を抑制するということに貢献することができたとしても、現行ある環境問題の解決の手段とはならないし、また別の問題を生みうる。
例えば、インフラ弱者(スマートフォンを持ち得ない操作できないなど)は到底その「シェア」に参加することはできない。むしろ、そうできないものが「不適応者」として、あるいは「コミュニティ不適格者」として排除する傾向にある。昨今の若者をみていればわかるが、そのコミュニケーションにその技術を用いてアクセスできないものは、そのコミュニケーションの場へ参加できない、ということにも繋がる。
もっとも、常時接続というのも問題があるので、接続をときどきオフにする、というぐらいの工夫はないと日々の創造行為や作業に差障る。
また、一方で、この「シェア」全盛のご時世、いままで個人で所有できた様々なコミュニケーションとそれに関与する手段とその社会的ステータスおよび消費材を、現在の僕らは自ら所有並びに維持することができない、という問題点を覆い隠している、とも言えなくはないか。
それは一体何に基因するのか、そして、何を意味するかということだ。
一方で、かつてのように、一人一人が、車のようなお環境負荷の高い消費材を所有できないということ、あるいはしない、ということ。ただ経済的な理由、地理的な理由(車を駐車する場所が少ない)だけでなく。それ故、自転車すらもシェアする、という発想が珍しくなくなったのは、ある意味当然のことだ。
昔、東京でレンタサイクルを借りたとき、自分の乗っている自転車が、実はもともと放置自転車で、期限をすぎても受け取られなかったがゆえに、ある種の公共財となったものだったということがある。なので1日500円という破格の金額で借りることができたのはある種僥倖といえる体験であったが、もう2006年のことである。
他方、ここで小生が語りたいのは、寧ろ、「シェア」という言葉に関わる倫理的な問題でもある。これは、与えるそして受ける、という行為が全くの道徳的倫理的な価値観の「共有」に基づいてしか可能でない、ということは容易に思い当たるからである。つまり、カント曰く「他者を手段としてでなく、目的として取り扱うべし」という倫理的言及のことである。
要点を整理すると、現在もてはやされている「シェア」なるものの問題点は以下にあるのではないかと思われる。
他者もとい他者の所有するものをも尊重リスペクト?あるいは、他者の生き様や、経済的ステータスをも?あるいは、自然、つまり自らのみならず自分以外の他者こそが生きればこそなる環境、をリスペクトする?それは、自ら与えることのみでしか規定できないのか?
今日こんなことを書いたのも、小生のまわりにもある実際の「シェア」中の出来事について思い当たることが様々にあったからである。
例えば、小生は本をベルリン、あるいは京都問わずに所有しているが、本棚に並んでいる本自体を鑑賞して自ら嬉々とする程ような変態ではない。書籍をインテリアの一部としてしか活用しないような人たちも実は多い。ある意味それは倒錯していると思うが、これもまた現実なり。いうまでもなく、本は読まれるべき、と心得ている。それゆえ、ベルリンに自らの書籍を個人図書館として一般に開放することも数年前に考えた。
言うまでもなく、本を共有することは、そこにあるものの知識のみならず、その「本」という「物」を所有しつつ、そこで得た読書体験並びに知識を、他者と共有する体験と機会を願うからだ。だから、読後、その読書体験を他の人たちと共有したい本は、積極的に他の人たちに読むようすすめるし、それが手元にあれば、喜んで貸すし、この本が面白かったといって、会う人たちに無理やり押し付けるように貸すようなこともある。
そうした小生の読書経験とその読書によられる知識の「共有」を望むのは、それぞれの読書体験を語りあう、まあ、ぶっちゃけていえば、コーヒーあるいはビールのみながら、その「共有」の内実あるいは過程について、お互いに語り合いたい思うからにほかならない。つまり、そのような、ある種の「お返し」を期待しているわけでもある。いうまでもなく、私はその「お返し」というものに「借り」をつくる。そして、それに対して、「何か」の形で返礼しなければならなくなる。
逆にいうと、私たちの人間関係の中にはそういった相互の「借り」というものが内在している、ということなのだ。そこから、私たちは、逃れられそうで逃れられないし、人生の多くの局面で、そうした「借り」というものに依存している。
もちろん、そこにはある種の社会的な共同体的な「しがらみ」なるものがうまれる。それは近代までは、そうした社会や共同体を束ねる規則のようなものではあったが、個人というもののを頭ごなしに押さえつける、というようなこともあったことはいうまでもない。
マルセル・モースがいうような「贈与」というのも、結局のところ、そういうことらしい。つまり「贈与」には「お返し」が含まれていると。ところが、「贈与」が大きくなればなるほど、「お返し」はその「贈与」に見合ったものにならねばならないという「義務感」が生じるがゆえだ。それゆえ、「お返し」をできないものは、ある種の「負債」を関係の中にと生じさせてしまう。だから、こそそうした「贈与」の関係というのは家族や個々人の間に生じる関係中で、それぞれの自由を互いに縛り付けてしまう、という逆説もずっと存在し続けている、ということなのだ。
ところで、なにかを共有する、ということが理想とすることは、そうした「負債」をできるだけつくらせない、つまり、お互いの関係にある種のヒエラルキーをもちこませない、ということにつきる。
そうした「借り」の関係において、ある種の負債をつくらせないためには「貨幣」で負担を担うこともできる。
けれど、根本的な解決には全く繋がらないことは誰もが知っている。もちろん、「貨幣」を通じた間接的な責任を通してしか「共有するもの」に関わることしかできないという、近代以降資本主義の勃興とともに顕在化した問題は、そうした貨幣とそれから生じる「借り」は際限なく繰り延べられる、ということだ。
私たちが住まうこの世界の環境問題にとって決定的に関わる問題とは、自らの生を営む環境もといその前の世代が残した生の条件に「無条件に」依存せざるを得ない次の世代にその「借り」を丸投げすることを厭わない、その「責任」の所在のなさ、にこそある。
ところが、昨今あるような表面的な、そして、時と起こりうる相互的でない、要するに、他者を手段としてしか扱わない、ような一方的な言葉の上面だけの「シェア」、つまり「共有」するという体験を通して得られるはずの「対価」あるいは「成果」なるものが殆ど期待できない。実際、「シェア」とはとても言い難い、いわば踏み倒しも、実際に体験した。
そうした連中の最たるものとして昨今ヒップスターだとかを、小生が声高に槍玉にあげていた最たる理由は、結局のところ、そうした連中の中に、「フリーライダー」、つまり「機会主義者」(オポチュニスト)、ようするに昨今のはやりの「シェア」と呼ばれる言葉のまわりに群がる寄生虫の連中があまりにも多すぎる、ということに、今からするとあったといえる。
それは昨今「シェア」と、形容される仕組みの欠陥でもある。つまり、「シェア」するということが「ネットワーク」に乗っかる、というようなある種の無責任の「転倒」を、無意識のうちにか、多くは、意図的に、彼らが行なっているからだ。
そうした「機会主義者」は自らが「借り」の関係の中にいることを思い当たらないか、意図的にそれを回避しようとし続ける。そして、自らはそうした「借り」の中にあることをそもそものはじまりから拒否する。
ナタリー・サルトゥー= ラジュは「借りの哲学」の中で、そうした「機会主義者」を新自由主義的、と断じている。一方で、そうしたオポチュニストは種々のネットワークを渡り歩くような存在、つまり、ネットワークに「寄生」しなければ、昨今ならば、インターネット上にあるようなSNSなどの仮想空間、そうしたヴァーチャルなネットワークなしには、生きていけない。
彼らは自分が様々なものに既存の物がなす関係性にべっとり、であることに嬉々として気がつかない。つまり、自らがそのような「借り」の関係性から全く「自由」である幻想を抱いているが、それどころか、様々な関係から様々な人々に「借り」があることを疎む。
相変わらずまだ流行っているらしいけれど、Couch surfing(カウチ・サーフィング)というサイトがある。これは、自分の家の空いているソファーやベットを、旅行者に提供するというプロジェクトで、 小生もこのサイトが始まった当初(確か2007年とか2008年ごろの話だ)から参加している。
実際、旅先で、このサイトのお陰で様々な人々に出会えたし お世話にもなった。自身もベルリンに居る際は、ベルリンにやってくる旅人に自らの空いているソファーを提供したりしていたのだが、2012年ごろからリクエストをおくってくる連中の「質」の問題で、残念ながら、小生宅ではベットの提供を見送っている。ベルリンに昨今やってくる連中の中にはこうした「機会主義者」が多いようだ。小生的には、一方的な物の見方であることを願っているのだが、案外そうでもないようである。
「シェア」という行為の目指すような理念は、繰り返すが、それこそ、カントのいうような倫理的行為、「他者を手段としてではなく、目的として扱う」ことによって生じるはず相互の利益というものもあるだろう。ここで重要なのは、「共有する物」だけでなく、その「物」を共有する「相手」に対しても、ある種の義務が発生するということだ。つまり、それは「借り」と「貸す」ということに関する公平な関係、それこそが「債務」ということが一般的に持ち出すことになる従属的な関係に抗する術であるのでは・・・。
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ところで、小生に本を借りているという方には、一度御一報いただけますことをお願い申し上げます。ていうか、どなたにどの本をかしたか、ということはすらもはや把握してないので・・・。
今すぐ、返せ、おらー、などと怖い人を送りつけて取り立てようなんて意図は毛頭ないのでご安心を・・・。まだお貸しした本を読んでいなければ、読んだら連絡あれ。で、それから、そして、お互いの知識であり体験の「共有」ということを肴にコーヒーでもビールでもワインでも飲めればうれしい。読んでなくてこれからも読むことがないので返すというのであっても、まあ、返してもらいがてら会えるのであれば、ビールあるいはコーヒー一杯でもおごるんで、そんときにでもお互いの近況伺いがてら会えたら嬉しいですわ。
小生も何冊かどなたかからか、本を借りていたりなどなどの過去の借りがあるので、お返しすべきかと思いますので、そのうち連絡が行くと思います。小生の過去の不届きぶり、お許し在れ。
私の今日に至迄の数々、様々な人におっていること、まず再度感謝すべきでありました。
小生は15ヶ月間のベルリン・プラハ・京都の右往左往のあげく、ようやくベルリンに帰還できたの皆様のお陰。
ではまた、なんで以上、また自戒。
現在、8ヶ月ぶりのプラハより、愛を込めて、2015年5月14日、Lügenlernen再起動予告。
[…] 昨年2015年の頭ベルリンに帰還して暫く経った後、また別のログを起こしたことがあった。ちょうどほぼ1年前ぐらいのことなのだが。非常に不評だった記憶がある。まとまりのないログだったかもしれないが、プラハを離れる間際の頃の、2014年10月上旬のある日、その朝に起きた出来事に憤懣やるかたなく、午前中すでにビールを朝食代わりに飲むチェコ兄貴たちに混じりながら、とある中心部のカフェでコーヒーではなくビールを痛飲しながら起こしたログだった。 […]