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	<title>Lügenlernen &#187; Kodography</title>
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	<description>人間万事塞翁が馬</description>
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		<title>ベルリン-ドネツク-エクスプレス: 2012年4月4日午後10時（東ヨーロッパ時間）。リビウ到着。</title>
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		<pubDate>Mon, 21 May 2012 16:34:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[Kodography]]></category>
		<category><![CDATA[ウクライナ]]></category>
		<category><![CDATA[ポーランド]]></category>
		<category><![CDATA[ユーロ2012／ウクライナーポーランド]]></category>
		<category><![CDATA[国境越え]]></category>

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		<description><![CDATA[<img width="188" height="125" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0395-188x125.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_0395" title="IMG_0395" />ポーランドからウクライナへの国境越えは意外にもはやく過ぎた。 といっても2時間はバスの中で待機する必要はあったけれど。それでも、一度もトイレ以外の用事で外にでることも呼び出されることもなく。 なによりもウクライナ側が手荷物検査がなくなった。 バスが国境についたころには日は西の空深くに傾きはじめていて、あれとあれよというまに西の地平線の向こうへ消えていった。時間がたつとともに国境検問状の蛍光灯だけが、しかし、薄暗く検問所の屋根の下を照らし出すのみ。それが空の色の青さと奇妙なコントラストをなしていた。検問所の向こうのただの暗闇。 ポーランド側のパスポートに出国のスタンプを押すだけの形式的な検問の後、バスは黄色と青色につつまれたウクライナ側の検問ブースにはいていく。妙にすべてが新しく映える。急ごしらえの印象は拭えなかったが、表面的には建物や設備はEU側となんらかわらない。 これから久々に、毎日ロシア語をしゃべらなくてはないらいのか、と少々身を固くする。 だが、小生の予想に反してウクライナ側のコントロールも妙にあっさりしたものだった。若い警察官が英語を話したのも驚きだった。片言ではあったが。それで、いままで面倒さを極めたウクライナの入国審査は完了であるならばなんの文句もない。 前回の2010年夏の入国の時には、何度もパスポートの写真（しかしこのパスの写真も10年以上前のものなのだ）と実際の小生を比べて、これは本当におまえか、などといわれ、満員のバスから一人だけ、一度ならずも二度も検問所の建物に呼び出されたりした。 今回の若い女性警官もその時と同じ警察官のようにみえた。 小生を検問所に招き入れた彼女は小生の顔をじっとみる。パスポートにかかれた小生の下の名前を読み上げる。小生は苦笑しながらも、じっと彼女の顔と目を覗き込んだ。お互いがじっと互いの目を見つめ合う奇妙な状態が３秒ぐらいは続いた。すると、向こうの顔の表情がふいに崩れて、ふふふ、といいながら、となりにいたまた別の同僚の女性警官に、これ本当に彼よね、と尋ねる。すると、パス持ってるのは彼だからね、とパスの写真と小生を見比べて、小生の顔を一瞬じっとみたのち、表情を崩して、小生に笑いかけながら、彼でしょう、もういいじゃない、といってパスポートを閉じて、小生の方に押し戻した。そして、バスに戻っていいわよ、どうもありがとう、といいながら停まっているバスの方を指差した。小声で、スパシーバ、とだけ答えて、建物を出ようと扉を閉めようとする時にもう一度彼女と目があった。それはとても国境の警察官のしているような目ではなかった。 その時の彼女かどうか確信はなかったが。その彼女は英語をしゃべろうともしなかった。ロシア語はしゃべれる？Po russky?とだけ短く小生にいいはなち、どこまでいく？、いつまでウクライナに？、という最大最小限のセンテンスのみの質問をなげかけた。 もちろんこれにいらだっては旧ソ連圏の旅は始まらない。 こちらもそのときは聞かれたことだけ答えればよい。余計なことはいわなくてもよい。それでおしまいなのなら。 だが、あのときの彼女は妙に小生のパスポートの写真とその当時の小生にこだわろうとした。 単に彼女が職務に忠実であった、ということだけならば、それはそれでよいことだったのだが。 10人ほどのバスの乗客にパスポートが帰ってくる間もなく、バスは目の前の暗闇へ向けて走り出した。 小生の腕時計はすでに午後８時をまわっていた。つまり、ウクライナの位置する東ヨーロッパ時間では標準時＋3時間、そして夏時間−1時間であるから、現地の時刻ではもう午後９時だった。 M君は少々焦りだしてた。というのは、リビウではとある現地在住の日本語教師のある人と会う約束をしていて、時間通りならば、もうすでにリビウについていても良い時間だったからだ。約束の時間は午後９時ということになっていたのだが、すでにポーランド側の国境にいるうちに、もはやその時間につくのは無理だというのはあきらかだった。それでも、先方の家と小生たちが泊まることになっている場所はそうは遠くない場所にあることがわかったので、向こうは多少遅くとも待ってくださる、ということだった。 バスはようやくウクライナに入国したばかり。リビウまで100キロとないのは分かっていたが、まだ交通状況によりまだ二時間はみておかなければならないのは分かりきっていた。 しばらくするとまたバスはとある明かりのほとんどない薄暗がりの空き地に停まった。 ドライバーが、両替とか買い物休憩、みんな用事がすんだら出発、はやくおわらせて、という。 時間が時間だったので、到着後の時間のリビウでは確実にできないはずの両替をすませておく。両替所の前にできた列にたちながら、前回の休憩のときに話をした青年と話す。 やれやれ、いつまでかかるんだろう・・・、今日でこのバスに乗るのも２回目だが、前回より確実に長くかかっている。 そういう小生に対して、彼も、今回は工事が多いのさ、ポーランドもウクライナも同じ穴の狢よ、と。 で、ウクライナもユーロの準備はどうなんだ、と聞く小生に対して、酷いもんさ、もっともサッカーはあまり興味がないがね、という。 そう言い残して、両替を済ませた彼はバスと駐車場の薄暗がりのほうへ戻って行った。 20ユーロ札がまだ財布の中にあったので、今日の宿代とタクシー代、夜飯代、朝ご飯代ぐらいにはなるだろう、とふと考えたが、今晩のうちにキエフ行きの列車のチケットも駅で買っておいたほうがよいな、と考える。レートをみると、1€あたりのレートは10.5フリヴナだった。あとから考えると、これはかなり良いレートだったいうことになるのだが。正当なレートかあまり確信がなかったものの、とりあえず多少の誤差は損でもなかろうと考えて、50ユーロを両替しておく。 その両替所は小さなベットとテレビだけがおいてあるだけの手狭な場所だった。おじさんともおじいさんともいえない年齢の男性がこんな時間までこんなところに籠って両替の仕事をしている。ベットがあるということはそこで夜をあかすということもあるということなのか、それとも交代の人のベットなのか、判断はつかない。けれど、その男性の疲れようがつたわってくるような、ベットのシーツの薄汚れぶりと乱れ具合、そしてその小屋自体の薄暗さ。ぶら下がっている電球はもちろん裸。 これがウクライナだ。 バスに戻り座席にもどると、バスはまた動きだした。だがおかしい。小生の左前にすわっていたはずのあの青年の姿がない。 バスをみまわしても彼の姿がどこにもない。斜め前方すぐにすわっていたまた別の青年に、おい、あの前の席にすわってたやつおらんぞ、と話しかけるが、英語が通じないで、手短かにチェコ語でいうと、彼もすぐ前に乗り出して、うわ、おいておかれおったんか、と一緒にドライバーに、ひとり乗せ忘れとんぞ、とすぐさま引き返させる。 すると、件の「Litr」の横のガソリンスタンドの横に所在なさげそうにたつ、その青年が見える。バスはすぐさま、またUターンして彼の横にとまり、そして、また動きだす。 再び姿をあらわしたバスの乗客のささやかな「出迎え」をうけた彼は、少々恥ずかしげに小生の席の前に座って，ローストしたひまわりの種を満載にしたビニール袋を差し出す。おいおい、どうしちゃたんだい、と聞く小生に、まあ、こういうこともあるさ、という彼もなかなか、ひょうひょうとしていて憎めない。 そういう小生も一度こんな形でバスに置いて行かれたことが一度ある。 2008年9月にトルコからグルジアの首都トビリシにむかっている最中だ。あの時は南オセチア戦争の停戦直後で、グルジアに向う人間なんぞよっぽどの物好きにほかならなかった。 バスも今回のリヴィウ行きのバス以上に空席がめだっていた。もちろん小生とトルコ人のドライバーのおっさん二人組以外は全員グルジア人だった。にもかかわらずおいてけぼりをくってしまった。いまでも、トイレからでてきて、バスが目の前にもうなかった時の光景に心臓がとまりそうなぐらいの驚いたことを今でも忘れない。小生はそのときどんな背中をしていたのか、よっぽど間抜けなだったのだろう、背後でそこにいた人たちが本当に腹を抱えて笑っていたのを覚えている。 それでも、なんとかバスに追いつくことははできたのだけれど。それはまた別の機会に。 バスはあとはリビウまで暗闇の中を往くのみ。どんぶらこ、どんぶらこと闇の中を漕いでゆく。 ウクライナに入って不思議なことに道路の状態はよくなった。バスはスピードをかなりあげているようだった。 時折、小さな村を通り過ぎる。そして、また暗闇の中をバスは漕いでゆく。静かに前へと。 夜汽車のような光景。急激に眠気が小生をおそってくる。ほんのわずかだが浅い眠りに落ちてしまう。 小一時間もしてめざめれば、左前方遠くから段々と街の光がみえてくる。それは数を増すこともなく、まばらな光のまま近づいて来る。 高いところにみえる光はおそらく団地の光。まばらな光の間を、街の中に入ったバスは漕ぐ。 リビウは時間のせいもあるのか、すでに街自体が眠りに入ってるかのようだった。石畳の通りを駆け抜け、旧市街近くの道をバスが角から角へ曲がっていっても、それがこれまできたことがある街、という確信もない。  &#8230;]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<img width="188" height="125" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0395-188x125.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_0395" title="IMG_0395" /><p></p><br /><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>ポーランドからウクライナへの国境越えは意外にもはやく過ぎた。</p>
<p>といっても2時間はバスの中で待機する必要はあったけれど。それでも、一度もトイレ以外の用事で外にでることも呼び出されることもなく。</p>
<p>なによりもウクライナ側が手荷物検査がなくなった。</p>
<p>バスが国境についたころには日は西の空深くに傾きはじめていて、あれとあれよというまに西の地平線の向こうへ消えていった。時間がたつとともに国境検問状の蛍光灯だけが、しかし、薄暗く検問所の屋根の下を照らし出すのみ。それが空の色の青さと奇妙なコントラストをなしていた。検問所の向こうのただの暗闇。<span id="more-802"></span></p>
<p>ポーランド側のパスポートに出国のスタンプを押すだけの形式的な検問の後、バスは黄色と青色につつまれたウクライナ側の検問ブースにはいていく。妙にすべてが新しく映える。急ごしらえの印象は拭えなかったが、表面的には建物や設備はEU側となんらかわらない。</p>
<p>これから久々に、毎日ロシア語をしゃべらなくてはないらいのか、と少々身を固くする。</p>
<p>だが、小生の予想に反してウクライナ側のコントロールも妙にあっさりしたものだった。若い警察官が英語を話したのも驚きだった。片言ではあったが。それで、いままで面倒さを極めたウクライナの入国審査は完了であるならばなんの文句もない。</p>
<p>前回の2010年夏の入国の時には、何度もパスポートの写真（しかしこのパスの写真も10年以上前のものなのだ）と実際の小生を比べて、これは本当におまえか、などといわれ、満員のバスから一人だけ、一度ならずも二度も検問所の建物に呼び出されたりした。</p>
<p>今回の若い女性警官もその時と同じ警察官のようにみえた。</p>
<p>小生を検問所に招き入れた彼女は小生の顔をじっとみる。パスポートにかかれた小生の下の名前を読み上げる。小生は苦笑しながらも、じっと彼女の顔と目を覗き込んだ。お互いがじっと互いの目を見つめ合う奇妙な状態が３秒ぐらいは続いた。すると、向こうの顔の表情がふいに崩れて、ふふふ、といいながら、となりにいたまた別の同僚の女性警官に、これ本当に彼よね、と尋ねる。すると、パス持ってるのは彼だからね、とパスの写真と小生を見比べて、小生の顔を一瞬じっとみたのち、表情を崩して、小生に笑いかけながら、彼でしょう、もういいじゃない、といってパスポートを閉じて、小生の方に押し戻した。そして、バスに戻っていいわよ、どうもありがとう、といいながら停まっているバスの方を指差した。小声で、スパシーバ、とだけ答えて、建物を出ようと扉を閉めようとする時にもう一度彼女と目があった。それはとても国境の警察官のしているような目ではなかった。</p>
<p>その時の彼女かどうか確信はなかったが。その彼女は英語をしゃべろうともしなかった。ロシア語はしゃべれる？Po russky?とだけ短く小生にいいはなち、どこまでいく？、いつまでウクライナに？、という最大最小限のセンテンスのみの質問をなげかけた。</p>
<p>もちろんこれにいらだっては旧ソ連圏の旅は始まらない。</p>
<p>こちらもそのときは聞かれたことだけ答えればよい。余計なことはいわなくてもよい。それでおしまいなのなら。</p>
<p>だが、あのときの彼女は妙に小生のパスポートの写真とその当時の小生にこだわろうとした。</p>
<p>単に彼女が職務に忠実であった、ということだけならば、それはそれでよいことだったのだが。</p>
<p>10人ほどのバスの乗客にパスポートが帰ってくる間もなく、バスは目の前の暗闇へ向けて走り出した。</p>
<p>小生の腕時計はすでに午後８時をまわっていた。つまり、ウクライナの位置する東ヨーロッパ時間では標準時＋3時間、そして夏時間−1時間であるから、現地の時刻ではもう午後９時だった。</p>
<p>M君は少々焦りだしてた。というのは、リビウではとある現地在住の日本語教師のある人と会う約束をしていて、時間通りならば、もうすでにリビウについていても良い時間だったからだ。約束の時間は午後９時ということになっていたのだが、すでにポーランド側の国境にいるうちに、もはやその時間につくのは無理だというのはあきらかだった。それでも、先方の家と小生たちが泊まることになっている場所はそうは遠くない場所にあることがわかったので、向こうは多少遅くとも待ってくださる、ということだった。</p>
<p>バスはようやくウクライナに入国したばかり。リビウまで100キロとないのは分かっていたが、まだ交通状況によりまだ二時間はみておかなければならないのは分かりきっていた。</p>
<p>しばらくするとまたバスはとある明かりのほとんどない薄暗がりの空き地に停まった。</p>
<p>ドライバーが、両替とか買い物休憩、みんな用事がすんだら出発、はやくおわらせて、という。</p>
<p>時間が時間だったので、到着後の時間のリビウでは確実にできないはずの両替をすませておく。両替所の前にできた列にたちながら、前回の休憩のときに話をした青年と話す。</p>
<p>やれやれ、いつまでかかるんだろう・・・、今日でこのバスに乗るのも２回目だが、前回より確実に長くかかっている。</p>
<p>そういう小生に対して、彼も、今回は工事が多いのさ、ポーランドもウクライナも同じ穴の狢よ、と。</p>
<p>で、ウクライナもユーロの準備はどうなんだ、と聞く小生に対して、酷いもんさ、もっともサッカーはあまり興味がないがね、という。</p>
<p>そう言い残して、両替を済ませた彼はバスと駐車場の薄暗がりのほうへ戻って行った。</p>
<p>20ユーロ札がまだ財布の中にあったので、今日の宿代とタクシー代、夜飯代、朝ご飯代ぐらいにはなるだろう、とふと考えたが、今晩のうちにキエフ行きの列車のチケットも駅で買っておいたほうがよいな、と考える。レートをみると、1€あたりのレートは10.5フリヴナだった。あとから考えると、これはかなり良いレートだったいうことになるのだが。正当なレートかあまり確信がなかったものの、とりあえず多少の誤差は損でもなかろうと考えて、50ユーロを両替しておく。</p>
<p>その両替所は小さなベットとテレビだけがおいてあるだけの手狭な場所だった。おじさんともおじいさんともいえない年齢の男性がこんな時間までこんなところに籠って両替の仕事をしている。ベットがあるということはそこで夜をあかすということもあるということなのか、それとも交代の人のベットなのか、判断はつかない。けれど、その男性の疲れようがつたわってくるような、ベットのシーツの薄汚れぶりと乱れ具合、そしてその小屋自体の薄暗さ。ぶら下がっている電球はもちろん裸。</p>
<p>これがウクライナだ。</p>
<p>バスに戻り座席にもどると、バスはまた動きだした。だがおかしい。小生の左前にすわっていたはずのあの青年の姿がない。</p>
<p>バスをみまわしても彼の姿がどこにもない。斜め前方すぐにすわっていたまた別の青年に、おい、あの前の席にすわってたやつおらんぞ、と話しかけるが、英語が通じないで、手短かにチェコ語でいうと、彼もすぐ前に乗り出して、うわ、おいておかれおったんか、と一緒にドライバーに、ひとり乗せ忘れとんぞ、とすぐさま引き返させる。</p>
<p>すると、件の「Litr」の横のガソリンスタンドの横に所在なさげそうにたつ、その青年が見える。バスはすぐさま、またUターンして彼の横にとまり、そして、また動きだす。</p>
<p>再び姿をあらわしたバスの乗客のささやかな「出迎え」をうけた彼は、少々恥ずかしげに小生の席の前に座って，ローストしたひまわりの種を満載にしたビニール袋を差し出す。おいおい、どうしちゃたんだい、と聞く小生に、まあ、こういうこともあるさ、という彼もなかなか、ひょうひょうとしていて憎めない。</p>
<p>そういう小生も一度こんな形でバスに置いて行かれたことが一度ある。</p>
<p>2008年9月にトルコからグルジアの首都トビリシにむかっている最中だ。あの時は南オセチア戦争の停戦直後で、グルジアに向う人間なんぞよっぽどの物好きにほかならなかった。</p>
<p>バスも今回のリヴィウ行きのバス以上に空席がめだっていた。もちろん小生とトルコ人のドライバーのおっさん二人組以外は全員グルジア人だった。にもかかわらずおいてけぼりをくってしまった。いまでも、トイレからでてきて、バスが目の前にもうなかった時の光景に心臓がとまりそうなぐらいの驚いたことを今でも忘れない。小生はそのときどんな背中をしていたのか、よっぽど間抜けなだったのだろう、背後でそこにいた人たちが本当に腹を抱えて笑っていたのを覚えている。</p>
<p>それでも、なんとかバスに追いつくことははできたのだけれど。それはまた別の機会に。</p>
<p>バスはあとはリビウまで暗闇の中を往くのみ。どんぶらこ、どんぶらこと闇の中を漕いでゆく。</p>
<p>ウクライナに入って不思議なことに道路の状態はよくなった。バスはスピードをかなりあげているようだった。</p>
<p>時折、小さな村を通り過ぎる。そして、また暗闇の中をバスは漕いでゆく。静かに前へと。</p>
<p>夜汽車のような光景。急激に眠気が小生をおそってくる。ほんのわずかだが浅い眠りに落ちてしまう。</p>
<p>小一時間もしてめざめれば、左前方遠くから段々と街の光がみえてくる。それは数を増すこともなく、まばらな光のまま近づいて来る。</p>
<p>高いところにみえる光はおそらく団地の光。まばらな光の間を、街の中に入ったバスは漕ぐ。</p>
<p>リビウは時間のせいもあるのか、すでに街自体が眠りに入ってるかのようだった。石畳の通りを駆け抜け、旧市街近くの道をバスが角から角へ曲がっていっても、それがこれまできたことがある街、という確信もない。</p>
<p>バスは知っている道、中央駅に入る道ではなく、また横へそれていく。なぜ？</p>
<p>もうままよ、と流れる暗い窓の外をながめながら、わずかな光の街灯の中に見える通りの角を追いかける。そのうちバスはしった市場の横を通り過ぎているのかと思えば、中央駅へと続く石畳を滑走している。</p>
<p>そして突如、さんざんみなれたリビウ中央駅が突如目の前に飛び込んできた。しかし、今回は豪壮にライトアップされている。</p>
<p>やっとついたリビウ。時間は午後10時をとうにまわっていた。ワルシャワをでてすでに10時間が経過。</p>
<p>でもウクライナに戻ってきたか。ドネツクまでの旅はまだ半ばも来ていない。明日も長い一日になる。</p>
<p>ではまた自戒。</p>
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		<title>ベルリン-ドネツク-エクスプレス: 2012年4月4日午後６時。「最終ゲート」。Hrebenneにて。</title>
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		<pubDate>Sun, 20 May 2012 13:30:58 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[Kodography]]></category>
		<category><![CDATA[ウクライナ]]></category>
		<category><![CDATA[ベルリン]]></category>
		<category><![CDATA[ポーランド]]></category>
		<category><![CDATA[ユーロ2012／ウクライナーポーランド]]></category>
		<category><![CDATA[ワルシャワ]]></category>
		<category><![CDATA[国境越え]]></category>

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		<description><![CDATA[<img width="188" height="141" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0391-188x141.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_0391" title="IMG_0391" />小生たちを乗せたバスは、ワルシャワ市街を半周して、ウクライナはリヴィウへ向けてと走る。ワルシャワの郊外から市街へでるあたりはモダンな自動車専用道路だったが、とたんに整備のされていないアスファルトの波打つ道へとさしかかる。 小生たち乗客は、ホップ、ホップ、車とともに飛びはねる、またはねる。窓はその度にびびびと震える。 そして、なんと道半ばでの工事の多いこと。ウクライナの旅の後、ポーランドの開催４都市をまわった時にもさんざん目の当たりにすることになるのだが、ポーランドの幹線道路は工事ラッシュ。それにともなう渋滞で車での移動は、高速道路が整備されているような区間以外は、非常にストレスがたまる。 ここのところポーランドはようやく、自国民にとっても非常に悪名高いPKPことポーランド鉄道もふくめた、交通インフラの更新時期にあるようだ。こうした工事は、ユーロ開催に関係があるのかどうか断言はできないが、もし関係があるのあらば、こうした工事は、急ピッチですすめたとしても、おそらくユーロ開催中に間に合うどころの話ではない（もちろん2012年４月現在）。 もっともポーランド側の幹線道路の工事の遅れ程度のことは、ウクライナにいけば、まったく取るにたらない話だということを認識させられるのだが、それはまた後の話。 バスはこうして遅々として進まぬ。どんぶらこ、どんぶらこ、どんぶらこ、と進む。 そして工事の区間をぬけて状態のよい道をスムーズに走り出したかと思えば休憩。2時間程も走っても、まだ道半ばも来ていず、そこはまだルブリンの手前。停まった場所はワルシャワーリヴィウを行き来する時に何度も休憩したドライブイン。なんのヘンテツもない。ただ店内におかれたスロットマシーンと宝くじの看板だけがわびしいだけの場所。こんなものは世界中どこにいってもあると思うが、ポーランドらしいと思わせるものはやはりある。 例えば、外にでたM君が漫☆画太郎かくやの銅像を発見。 こんなものがあるポーランドなかなか奥ゆかしと騒ぐ日本人二人組。周囲の注目を集めていたのはいうまでもない。 するとバスの乗客の一人で、小生達の前のほうの座席に座っていた青年が、君たちどこにいくんだい、と話かけてくる。そういう彼もウクライナはキエフの実家にイースター休暇も兼ねて帰るのだという。もうワルシャワに長いことすんでいるらしく、パートナーはポーランド人だということ。彼はリヴィウに着いて、すぐ夜行列車でキエフに向うということで、小生達はリヴィウで人と会うがあいがてら一泊するため、旅程を同じくすることはできないが、小生達の旅の目的を話すと、キエフについたら是非連絡してくれ、といってくれる。そこで携帯番号でも交換しようという話になったところで、バスはようやく出発。 ところが、その彼は国境越え後、とんでもない目に会ってしまうのだが。それはまた次回の話。 そんな感じで動きだしたバスはルブリンにようやくさしかかり、この街は交通インフラの更新をすでに終えていたためか、あっという間に通過。それでも、ルブリンを通過し、国境との中間点ぐらいに位置する街全体がルネッサンス建築で著名なザモシチまでの区間も相変わらず工事が多く、遅々としてバスは進まない。 あまりにも時間の流れかたが違いすぎる。 ポーランドやウクライナでの旅では、そこで流れる時間の流れにまずは身をまかせねばならない。さもなくばその鈍重さに押しつぶされてしまうことだろう。 こうして、国境の通過ポイントHrebenneにたどり着いたのは日もかなり西に傾いたころ、午後６時きっかりであった。 ではまた国境越えの後でお会いしましょう。また自戒。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<img width="188" height="141" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0391-188x141.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_0391" title="IMG_0391" /><p></p><br /><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>小生たちを乗せたバスは、ワルシャワ市街を半周して、ウクライナはリヴィウへ向けてと走る。ワルシャワの郊外から市街へでるあたりはモダンな自動車専用道路だったが、とたんに整備のされていないアスファルトの波打つ道へとさしかかる。</p>
<p>小生たち乗客は、ホップ、ホップ、車とともに飛びはねる、またはねる。窓はその度にびびびと震える。<span id="more-798"></span></p>
<p>そして、なんと道半ばでの工事の多いこと。ウクライナの旅の後、ポーランドの開催４都市をまわった時にもさんざん目の当たりにすることになるのだが、ポーランドの幹線道路は工事ラッシュ。それにともなう渋滞で車での移動は、高速道路が整備されているような区間以外は、非常にストレスがたまる。</p>
<p>ここのところポーランドはようやく、自国民にとっても非常に悪名高いPKPことポーランド鉄道もふくめた、交通インフラの更新時期にあるようだ。こうした工事は、ユーロ開催に関係があるのかどうか断言はできないが、もし関係があるのあらば、こうした工事は、急ピッチですすめたとしても、おそらくユーロ開催中に間に合うどころの話ではない（もちろん2012年４月現在）。</p>
<p>もっともポーランド側の幹線道路の工事の遅れ程度のことは、ウクライナにいけば、まったく取るにたらない話だということを認識させられるのだが、それはまた後の話。</p>
<p>バスはこうして遅々として進まぬ。どんぶらこ、どんぶらこ、どんぶらこ、と進む。</p>
<p>そして工事の区間をぬけて状態のよい道をスムーズに走り出したかと思えば休憩。2時間程も走っても、まだ道半ばも来ていず、そこはまだルブリンの手前。停まった場所はワルシャワーリヴィウを行き来する時に何度も休憩したドライブイン。なんのヘンテツもない。ただ店内におかれたスロットマシーンと宝くじの看板だけがわびしいだけの場所。こんなものは世界中どこにいってもあると思うが、ポーランドらしいと思わせるものはやはりある。</p>
<p>例えば、外にでたM君が漫☆画太郎かくやの銅像を発見。</p>
<div id="attachment_890" class="wp-caption alignnone" style="width: 504px"><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_2527.jpg"><img class="size-large wp-image-890" title="IMG_2527" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_2527-494x370.jpg" alt="" width="494" height="370" /></a><p class="wp-caption-text">これは復路に撮影。4月17日。ワルシャワへ戻る途上にて。</p></div>
<div id="attachment_891" class="wp-caption alignnone" style="width: 380px"><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0364.jpg"><img class="size-large wp-image-891" title="IMG_0364" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0364-370x494.jpg" alt="" width="370" height="494" /></a><p class="wp-caption-text">「ばばあ」もどき？食われる小生。</p></div>
<p>こんなものがあるポーランドなかなか奥ゆかしと騒ぐ日本人二人組。周囲の注目を集めていたのはいうまでもない。</p>
<p>するとバスの乗客の一人で、小生達の前のほうの座席に座っていた青年が、君たちどこにいくんだい、と話かけてくる。そういう彼もウクライナはキエフの実家にイースター休暇も兼ねて帰るのだという。もうワルシャワに長いことすんでいるらしく、パートナーはポーランド人だということ。彼はリヴィウに着いて、すぐ夜行列車でキエフに向うということで、小生達はリヴィウで人と会うがあいがてら一泊するため、旅程を同じくすることはできないが、小生達の旅の目的を話すと、キエフについたら是非連絡してくれ、といってくれる。そこで携帯番号でも交換しようという話になったところで、バスはようやく出発。</p>
<p>ところが、その彼は国境越え後、とんでもない目に会ってしまうのだが。それはまた次回の話。</p>
<p>そんな感じで動きだしたバスはルブリンにようやくさしかかり、この街は交通インフラの更新をすでに終えていたためか、あっという間に通過。それでも、ルブリンを通過し、国境との中間点ぐらいに位置する街全体がルネッサンス建築で著名なザモシチまでの区間も相変わらず工事が多く、遅々としてバスは進まない。</p>
<p>あまりにも時間の流れかたが違いすぎる。</p>
<p>ポーランドやウクライナでの旅では、そこで流れる時間の流れにまずは身をまかせねばならない。さもなくばその鈍重さに押しつぶされてしまうことだろう。</p>
<p>こうして、<a href="http://g.co/maps/ex587" target="_blank">国境の通過ポイントHrebenne</a>にたどり着いたのは日もかなり西に傾いたころ、午後６時きっかりであった。</p>
<p>ではまた国境越えの後でお会いしましょう。また自戒。</p>
<div class="shr-publisher-798"></div><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetBottom Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetBottom Automatic -->]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>ベルリン-ドネツク-エクスプレス: 2012年4月4日午前10時半。ワルシャワ西駅前バスターミナル。</title>
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		<pubDate>Sat, 19 May 2012 16:42:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[Kodography]]></category>
		<category><![CDATA[ポーランド]]></category>
		<category><![CDATA[ユーロ2012／ウクライナーポーランド]]></category>
		<category><![CDATA[ワルシャワ]]></category>

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		<description><![CDATA[<img width="188" height="141" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0309-188x141.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_0309" title="IMG_0309" />今回の旅の伴侶であるM君は非常に早起きだ。小生が目覚めたころにはもうすでに彼は朝のワルシャワ市中へと繰り出していた。これからの二週間、彼の早起きぶりには感嘆させられることしきりなのだが、やはり旅先での時間は貴重だ。彼の時間の使い方には歴然とした分がある。早寝早起きこそ今回の小生たちのような旅での時間の使い方の黄金律だ。 朝９時。天気はそれほどよくはみえない。曇りがちの空で、窓の下の地面は少しぬれているのがわかった。ポーランドの二日目は雨。リビウもウクライナもまた雨なのか。 小生が朝のシャワーをあびてでてくるころにはM君も帰還。彼はそういえば、今回がはじめてのワルシャワ、だったのだ。朝７時過ぎにでて旧市街方面へと向かいそして今戻って来るという早業ぶり。こうしてあわただしく出発の運びとなった。 小生達は中央駅の前まで徒歩で戻って、そこから市バスでワルシャワ西駅のバスターミナルを目指した。 バスターミナルは相も変わらず雑多な雰囲気がワルシャワ中央駅以上にのこっている。けれど、フリーのWiFiも通じるし、見かけ以上にモダンなところもある。 ポーランドもそうだが、ウクライナも基本的にフリーのワイアレスLANのインターネットにいたるところでアクセスできることは特筆に値する。もちろん、これからウクライナ／ポーランドに赴かれる読者諸賢に置かれては、ラップトップやスマートフォンのセキュリティなどには万全を期していただきたいが。 さて。リビウ行きのバスの時間をみると次は11時発と、小生がネットでしらべた通りであった（それ以外は夜行便が２２時過ぎにもう一本と朝９時半にもう一本）。しかし、切符売り場には長蛇の列。ひょっとすると、バスで運転手から直接かえるかもしれない、と思い、M君には窓口の列に立っていてもらい小生だけバス停へと向う。 するとバスはすでに国際線、と書かれたホームに止まっている。車内にのりこむと、前方の席に座っている女性が、チケットは？と尋ねてくる。やはり、窓口で買ってこないとだめなのか、と聞くと、そうだと。 ちなみにここで小生は最初英語で尋ねたのだけれど、反応がなかったので、チェコ語でポーランド語の単語をミックスさせて話したのだが、ポーランドでそれで問題になることはほとんどない。それほどチェコ語とポーランド語は似ている。けれど、それは切符を買ったり、レストランで注文するときぐらいの簡単なやりとり、そして、英語やドイツ語も通じないようなシチュエーションに限ったほうがよい。無論、経験上、チェコ語の方が、ポーランドでロシア語をしゃべるよりも、よっぽどいいことだけはわかっている。ポーランド人に、あれ、あんたポーランド語しゃべれんの？、ときかれても、いやチェコ語、チェコ語、と答えると、ああ、似てるからね、といつもかえってくる。 それでも、もうちょっとポーランド語もできたらいいな、と個人的にはいつもおもっている。 例えば、微妙な基礎語彙の違い、特に数字の読み方なんかは西スラブ系言語、チェコ語、スロヴァキア語と東スラブ系のウクライナ語とロシア語と多少の違いはあっても、経験上お互い通じないことはほぼないと断言してもいいのだが、ポーランド語だけ非常に奇妙な発音の違いがあって、チェコ語やロシア語の数字の発音がポーランドではほとんど通じない。特に基礎語彙の綴り方はにていても、ポーランドの人はポーランド語独特の母音の籠る音のせいか、それをなかなか了解してくれないことも多い。 そんなことをしなくても、ポーランドでは若い人ならば、かなり高い確率で英語でかえしてくれる。もちろん、大きな街とか観光地に限られるけれど。だから、田舎やある一定年齢以上の人には英語はほとんど通用しないとおもった方がいい。それに駅やバスターミナルの切符売り場で英語を喋れる人にはなかなか出会わないことのほうがおおい。 やむえず、ターミナルの切符売り場に送り返された小生たちは、やっぱり案の定というべきか、窓口の長蛇の列に並ぶはめになったのだけれど、はじめにならんだ窓口もいやな予感通り、国際バスのチケットの窓口ではなく、また違う窓口にまた並び直すはめになった。すると、その国際バスの窓口は今度はカードが使えない窓口だったのだけれど、それでも、カードの読み取りのターミナルをうまいこと、窓口間でやりとりしてくれて支払いを済ますことができ、切符はこうして問題なく買うことができた。けれど、色々うまく整備できていない印象が拭えない。 ここでもやはり英語は通じなかったので、チェコ語プラスポーランド語の語彙で話して、無事にリヴィウ（ポーランドではリヴィウのことをかルヴフLwówという）までのチケットを手にいれることができた。 けれど、これで6月以降、ポーランド語どころかチェコ語もロシア語もできないサッカーツーリストに対してどれだけ迅速な対応ができるのだろう、と思う。ユーロ期間中、切符売り場の前には、いつもよりもさらなる長蛇の列ができることは必至だろう。 提言。ポーランド／ウクライナでは移動当日に切符を買うことはできるだけ避けられることをおすすめする。 まあ、切符買うぐらい現地の言葉をしゃべれなくても買えるだろうよ、とは小生は思うのだけれど、ポーランドはともかくとして、ウクライナではやはりなかなかそうでもないようである（もちろん、ウクライナのほうが切符を買うにしてもめんどくさいことがとにかく多い）。実際、小生も、10年以上前に中国にいったとき、小生の全く様になっていない普通話の発音では行き先を相手に了解してもらうことすらできずに切符を売ってもらえず、「はい、次！次！」と言い放たれたとほほな現実にも直面しているので、大口だけはたたかないでおく。 というわけでワルシャワ出発。時間は午前11時を過ぎたところであった。 では又自戒。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<img width="188" height="141" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0309-188x141.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_0309" title="IMG_0309" /><p></p><br /><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>今回の旅の伴侶であるM君は非常に早起きだ。小生が目覚めたころにはもうすでに彼は朝のワルシャワ市中へと繰り出していた。これからの二週間、彼の早起きぶりには感嘆させられることしきりなのだが、やはり旅先での時間は貴重だ。彼の時間の使い方には歴然とした分がある。早寝早起きこそ今回の小生たちのような旅での時間の使い方の黄金律だ。</p>
<p>朝９時。天気はそれほどよくはみえない。曇りがちの空で、窓の下の地面は少しぬれているのがわかった。ポーランドの二日目は雨。リビウもウクライナもまた雨なのか。<span id="more-791"></span></p>
<p>小生が朝のシャワーをあびてでてくるころにはM君も帰還。彼はそういえば、今回がはじめてのワルシャワ、だったのだ。朝７時過ぎにでて旧市街方面へと向かいそして今戻って来るという早業ぶり。こうしてあわただしく出発の運びとなった。</p>
<p>小生達は中央駅の前まで徒歩で戻って、そこから市バスでワルシャワ西駅のバスターミナルを目指した。</p>
<p>バスターミナルは相も変わらず雑多な雰囲気がワルシャワ中央駅以上にのこっている。けれど、フリーのWiFiも通じるし、見かけ以上にモダンなところもある。</p>
<p>ポーランドもそうだが、ウクライナも基本的にフリーのワイアレスLANのインターネットにいたるところでアクセスできることは特筆に値する。もちろん、これからウクライナ／ポーランドに赴かれる読者諸賢に置かれては、ラップトップやスマートフォンのセキュリティなどには万全を期していただきたいが。</p>
<p>さて。リビウ行きのバスの時間をみると次は11時発と、小生がネットでしらべた通りであった（それ以外は夜行便が２２時過ぎにもう一本と朝９時半にもう一本）。しかし、切符売り場には長蛇の列。ひょっとすると、バスで運転手から直接かえるかもしれない、と思い、M君には窓口の列に立っていてもらい小生だけバス停へと向う。</p>
<p><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0300.jpg"><img src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0300-494x370.jpg" alt="" title="IMG_0300" width="494" height="370" class="alignnone size-large wp-image-851" /></a></p>
<p>するとバスはすでに国際線、と書かれたホームに止まっている。車内にのりこむと、前方の席に座っている女性が、チケットは？と尋ねてくる。やはり、窓口で買ってこないとだめなのか、と聞くと、そうだと。</p>
<p>ちなみにここで小生は最初英語で尋ねたのだけれど、反応がなかったので、チェコ語でポーランド語の単語をミックスさせて話したのだが、ポーランドでそれで問題になることはほとんどない。それほどチェコ語とポーランド語は似ている。けれど、それは切符を買ったり、レストランで注文するときぐらいの簡単なやりとり、そして、英語やドイツ語も通じないようなシチュエーションに限ったほうがよい。無論、経験上、チェコ語の方が、ポーランドでロシア語をしゃべるよりも、よっぽどいいことだけはわかっている。ポーランド人に、あれ、あんたポーランド語しゃべれんの？、ときかれても、いやチェコ語、チェコ語、と答えると、ああ、似てるからね、といつもかえってくる。</p>
<p>それでも、もうちょっとポーランド語もできたらいいな、と個人的にはいつもおもっている。</p>
<p>例えば、微妙な基礎語彙の違い、特に数字の読み方なんかは西スラブ系言語、チェコ語、スロヴァキア語と東スラブ系のウクライナ語とロシア語と多少の違いはあっても、経験上お互い通じないことはほぼないと断言してもいいのだが、ポーランド語だけ非常に奇妙な発音の違いがあって、チェコ語やロシア語の数字の発音がポーランドではほとんど通じない。特に基礎語彙の綴り方はにていても、ポーランドの人はポーランド語独特の母音の籠る音のせいか、それをなかなか了解してくれないことも多い。</p>
<p>そんなことをしなくても、ポーランドでは若い人ならば、かなり高い確率で英語でかえしてくれる。もちろん、大きな街とか観光地に限られるけれど。だから、田舎やある一定年齢以上の人には英語はほとんど通用しないとおもった方がいい。それに駅やバスターミナルの切符売り場で英語を喋れる人にはなかなか出会わないことのほうがおおい。</p>
<p>やむえず、ターミナルの切符売り場に送り返された小生たちは、やっぱり案の定というべきか、窓口の長蛇の列に並ぶはめになったのだけれど、はじめにならんだ窓口もいやな予感通り、国際バスのチケットの窓口ではなく、また違う窓口にまた並び直すはめになった。すると、その国際バスの窓口は今度はカードが使えない窓口だったのだけれど、それでも、カードの読み取りのターミナルをうまいこと、窓口間でやりとりしてくれて支払いを済ますことができ、切符はこうして問題なく買うことができた。けれど、色々うまく整備できていない印象が拭えない。</p>
<p>ここでもやはり英語は通じなかったので、チェコ語プラスポーランド語の語彙で話して、無事にリヴィウ（ポーランドではリヴィウのことをかルヴフLwówという）までのチケットを手にいれることができた。</p>
<p>けれど、これで6月以降、ポーランド語どころかチェコ語もロシア語もできないサッカーツーリストに対してどれだけ迅速な対応ができるのだろう、と思う。ユーロ期間中、切符売り場の前には、いつもよりもさらなる長蛇の列ができることは必至だろう。</p>
<p>提言。<strong>ポーランド／ウクライナでは移動当日に切符を買うことはできるだけ避けられることをおすすめする。</strong></p>
<p>まあ、切符買うぐらい現地の言葉をしゃべれなくても買えるだろうよ、とは小生は思うのだけれど、ポーランドはともかくとして、ウクライナではやはりなかなかそうでもないようである（もちろん、ウクライナのほうが切符を買うにしてもめんどくさいことがとにかく多い）。実際、小生も、10年以上前に中国にいったとき、小生の全く様になっていない普通話の発音では行き先を相手に了解してもらうことすらできずに切符を売ってもらえず、「はい、次！次！」と言い放たれたとほほな現実にも直面しているので、大口だけはたたかないでおく。</p>
<p><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0303.jpg"><img src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0303-494x370.jpg" alt="" title="IMG_0303" width="494" height="370" class="alignnone size-large wp-image-850" /></a></p>
<p>というわけでワルシャワ出発。時間は午前11時を過ぎたところであった。</p>
<p>では又自戒。</p>
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		<title>鳥居が団地の下。Britzer Damm, Berlin-Neukölln, 17.5.2012</title>
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		<pubDate>Sat, 19 May 2012 15:15:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[Berlin-Neukölln]]></category>
		<category><![CDATA[Kodography]]></category>
		<category><![CDATA[ピロティ]]></category>
		<category><![CDATA[ベルリン]]></category>
		<category><![CDATA[団地]]></category>

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		<description><![CDATA[<img width="188" height="112" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMAG1296-188x112.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMAG1296" title="IMAG1296" />ここのところあまりにも家にひきこもりすぎで、たいした遠出もしていないな、ということに気がついたとある夕方のことだった。 久々に団地逍遥でもしたかったのだけれど、小生宅から一番最寄りのベルリン四大団地の一つであるグロピウスシュタットまでは歩いていくのは面倒な距離なので、もう一度先日言及したRollbergの側を通って、テンペルホーファーフェルドの横を通り過ぎたあと、南に方角を転じ、ベルリンの環状線の線路を跨いで後、テルトウ運河まで歩いて、あとは、運河沿いをとことこ散歩していた。 Größere Kartenansicht 運河沿いにBritzer Dammの手前まであるいてきたところで、これまで入ったことのない団地があることに気がついたので、そこを通り抜けながら、家の方角へ向うことにした。 すると冒頭の写真にある通り、なんと、目の前に鳥居が団地の建物の下に組み込まれているという前代未聞の光景に出くわしたのである。かような香ばしき団地の風景。 グロピウスシュタットとノイケルンの間には、見本市のごとく様々なスタイルの団地が乱立している。 ノイケルンの南に境を接するBritzにはかの世界遺産にも登録されたブルーノ・タウト設計によるHufeisensiedlungという戦間期を代表する名作団地（？）があるし、そこからグロピウスシュタットへ歩をすすめていくうちに通り過ぎていくことになる、戦後ベルリンの市街が拡大していくのにしたがい誕生していった多種多様の団地群は見る者をたのしませてくれる。 しかし、団地とはかようなものではすまない問題を抱えていることが、団地の間を逍遥しているうちにきっとみえてくることだろう。 ドイツもといヨーロッパでの「団地」とはネガティヴな意味合いで語られることのほうがおおい。例えば、「団地」＝ゲットーであるという。それでも、そのイメージも団地逍遥を繰り返しているうちに極めて一面的な見方であるとも悟らされた。 そこにはどんな形でも生というものがある。ただそれがどんな営みの方をされていたか、あるいはいるかが問題なのである。 団地とは２０世紀以降の生のあり方を語る上でのキータームなのだ。一切は住むということにかかわるコンセプトでありそして住むということに関わる生一般を司るアートでもあったのだ。全ては全体主義芸術Gesamtkunstwerkの一環として生み出された。団地の神髄とは、ナチズムやスターリニズムを生み出したものと根を同じくする、ということを付きつとめることができるような場所へと到達することでなければならない。 だから、小生の想像力のはいつのまにか時と場所を越えて、はるかかなた東の国の小生の団地での幼年時代の記憶と結ばれることになったのだ。 だから、いつの日か、僕たちの「20世紀末ごろの団地での幼年時代」について語ることができれば、と思う。 ではまた自戒。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<img width="188" height="112" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMAG1296-188x112.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMAG1296" title="IMAG1296" /><p></p><br /><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>ここのところあまりにも家にひきこもりすぎで、たいした遠出もしていないな、ということに気がついたとある夕方のことだった。</p>
<p>久々に団地逍遥でもしたかったのだけれど、小生宅から一番最寄りのベルリン四大団地の一つであるグロピウスシュタットまでは歩いていくのは面倒な距離なので、もう一度先日言及したRollbergの側を通って、テンペルホーファーフェルドの横を通り過ぎたあと、南に方角を転じ、ベルリンの環状線の線路を跨いで後、テルトウ運河まで歩いて、あとは、運河沿いをとことこ散歩していた。<span id="more-782"></span></p>
<p><iframe width="450" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.de/maps?hl=de&amp;ie=UTF8&amp;hq=&amp;hnear=Neuk%C3%B6lln&amp;t=h&amp;ll=52.459742,13.437792&amp;spn=0.002288,0.004828&amp;z=17&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.de/maps?hl=de&amp;ie=UTF8&amp;hq=&amp;hnear=Neuk%C3%B6lln&amp;t=h&amp;ll=52.459742,13.437792&amp;spn=0.002288,0.004828&amp;z=17&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">Größere Kartenansicht</a></small></p>
<p>運河沿いにBritzer Dammの手前まであるいてきたところで、これまで入ったことのない団地があることに気がついたので、そこを通り抜けながら、家の方角へ向うことにした。</p>
<p>すると冒頭の写真にある通り、なんと、目の前に鳥居が団地の建物の下に組み込まれているという前代未聞の光景に出くわしたのである。かような香ばしき団地の風景。</p>
<p>グロピウスシュタットとノイケルンの間には、見本市のごとく様々なスタイルの団地が乱立している。</p>
<p>ノイケルンの南に境を接するBritzにはかの世界遺産にも登録されたブルーノ・タウト設計による<a href="http://de.wikipedia.org/wiki/Hufeisensiedlung">Hufeisensiedlung</a>という戦間期を代表する名作団地（？）があるし、そこからグロピウスシュタットへ歩をすすめていくうちに通り過ぎていくことになる、戦後ベルリンの市街が拡大していくのにしたがい誕生していった多種多様の団地群は見る者をたのしませてくれる。</p>
<p>しかし、団地とはかようなものではすまない問題を抱えていることが、団地の間を逍遥しているうちにきっとみえてくることだろう。</p>
<p>ドイツもといヨーロッパでの「団地」とはネガティヴな意味合いで語られることのほうがおおい。例えば、「団地」＝ゲットーであるという。それでも、そのイメージも団地逍遥を繰り返しているうちに極めて一面的な見方であるとも悟らされた。</p>
<p>そこにはどんな形でも生というものがある。ただそれがどんな営みの方をされていたか、あるいはいるかが問題なのである。</p>
<p>団地とは２０世紀以降の生のあり方を語る上でのキータームなのだ。一切は住むということにかかわるコンセプトでありそして住むということに関わる生一般を司るアートでもあったのだ。全ては全体主義芸術Gesamtkunstwerkの一環として生み出された。団地の神髄とは、ナチズムやスターリニズムを生み出したものと根を同じくする、ということを付きつとめることができるような場所へと到達することでなければならない。</p>
<p>だから、小生の想像力のはいつのまにか時と場所を越えて、はるかかなた東の国の小生の団地での幼年時代の記憶と結ばれることになったのだ。</p>
<p>だから、いつの日か、僕たちの「20世紀末ごろの団地での幼年時代」について語ることができれば、と思う。</p>
<p>ではまた自戒。</p>
<div class="shr-publisher-782"></div><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetBottom Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetBottom Automatic -->]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>ベルリン-ドネツク-エクスプレス: 2012年4月3日午後8時半ごろ。ワルシャワ・セントラルナ帰還。</title>
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		<pubDate>Sat, 19 May 2012 11:22:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[Kodography]]></category>
		<category><![CDATA[ポーランド]]></category>
		<category><![CDATA[ユーロ2012／ウクライナーポーランド]]></category>
		<category><![CDATA[ワルシャワ]]></category>

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		<description><![CDATA[<img width="188" height="141" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0284-188x141.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_0284" title="IMG_0284" />小生たちのベルリン・ワルシャワ・エクスプレスはほぼ定刻通り午後8時半ごろワルシャワ中央駅ことWarszawa Centralnaに到着した。この中央駅は地下に位置しており、訪れるたびに駅構内が明るくなっていく印象があった。かつてはとにかく暗い印象だけが残る駅だっただけに。 聞いてはいたけれど、2010年夏以来ぶりのワルシャワ中央駅は前回よりも、そしていうまでもなく、小生がはじめてこの駅に到着した90年代末とくらべても信じられないぐらい駅構内が明るくなっていた。 そして、その明るさに驚く間もなく、構内通路に続くエスカレーターを上がった先に驚愕は続く。 なんと、通路の明るさもさることながら、両脇にひしめいていた店舗群（ポーランド語でSklep)がすべて姿を消しているではないか。 これはもはや小生のしっているワルシャワ中央駅にあらず。 なによりもポーランドの駅といえば、このコンコースと通路の両側にしめるSklepのカオスなくしてはありえないし、ポーランドに鉄路で到着した諸賢を迎えてくれる風景のはずなのだ。もはやそれも過去のもとか、と一瞬おもったほどだった。 が、中央駅横のトラムの停留所下の地下道は、やっぱり両サイド今まで通りぎっしりのSklepだらけで、やっぱり元の木阿弥なのであった。それでも、このワルシャワ中央駅の構内に限っての変貌ぶりはかつてをしるものにとって特筆ものといえるだろう。 そして駅の上を走っているワルシャワを代表する目抜き通りであるイェルサレム大通りAleje Jerozolimskieに上がって向い側にそびえるスターリン様式の文化科学宮殿を見上げると、やはりかつてより美しくライトアップされているように思える。 見た目にはワルシャワはユーロ開催にそなえてか街の趣きを洗練されたものに変化させつつある、というのが第一印象だった。 さて、そんなワルシャワに今回は長居することは能わない。そんなワルシャワの中央駅とワルシャワの詳細はまたポーランド編にゆずるとしよう。小生たちは、次の日にはまたウクライナはリヴィウに向けて経たねばならず、それも一日中バスの中で過ごさねばならない。 その後、小生たちは旅の初日は名物のピエロギで腹をしっかりと満たし、ささやかに無事のワルシャワ到着を祝い、早々に床につくのでありました。そもそも小生の体調は相も変わらず芳しくなかった。 ではまた自戒。次回はいよいよウクライナ入り。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<img width="188" height="141" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0284-188x141.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_0284" title="IMG_0284" /><p></p><br /><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>小生たちのベルリン・ワルシャワ・エクスプレスはほぼ定刻通り午後8時半ごろワルシャワ中央駅ことWarszawa Centralnaに到着した。この中央駅は地下に位置しており、訪れるたびに駅構内が明るくなっていく印象があった。かつてはとにかく暗い印象だけが残る駅だっただけに。</p>
<p>聞いてはいたけれど、2010年夏以来ぶりのワルシャワ中央駅は前回よりも、そしていうまでもなく、小生がはじめてこの駅に到着した90年代末とくらべても信じられないぐらい駅構内が明るくなっていた。<span id="more-767"></span></p>
<p><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0282.jpg"><img class="alignnone size-large wp-image-834" title="IMG_0282" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0282-494x370.jpg" alt="" width="494" height="370" /></a></p>
<p>そして、その明るさに驚く間もなく、構内通路に続くエスカレーターを上がった先に驚愕は続く。</p>
<div id="attachment_838" class="wp-caption alignnone" style="width: 504px"><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_4021.jpg"><img class="size-large wp-image-838" title="IMG_4021" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_4021-494x370.jpg" alt="" width="494" height="370" /></a><p class="wp-caption-text">5月4日にあらためて訪れた時の写真。夕方と休日だということもあってガラガラだったが、それだけに改装後の通路が広くそして長く見える・・・。</p></div>
<p>なんと、通路の明るさもさることながら、両脇にひしめいていた店舗群（ポーランド語でSklep)がすべて姿を消しているではないか。</p>
<div id="attachment_833" class="wp-caption alignnone" style="width: 504px"><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0011a.jpg"><img class="size-large wp-image-833" title="IMG_0011a" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0011a-494x327.jpg" alt="" width="494" height="327" /></a><p class="wp-caption-text">2010年７月末、ワルシャワ中央駅構内地下通路。ほぼ同じ場所だが、上の写真を撮ったポイント方を向いて。改装前は人が多い時は人いきれで空気はこもり、人ごみで前に進むのも難渋するほどだった。それが上の写真にある通り、左右の店舗はすべてきれいに整理されてなくなっていた。</p></div>
<p>これはもはや小生のしっているワルシャワ中央駅にあらず。</p>
<p>なによりもポーランドの駅といえば、このコンコースと通路の両側にしめるSklepのカオスなくしてはありえないし、ポーランドに鉄路で到着した諸賢を迎えてくれる風景のはずなのだ。もはやそれも過去のもとか、と一瞬おもったほどだった。</p>
<p>が、中央駅横のトラムの停留所下の地下道は、やっぱり両サイド今まで通りぎっしりのSklepだらけで、やっぱり元の木阿弥なのであった。それでも、このワルシャワ中央駅の構内に限っての変貌ぶりはかつてをしるものにとって特筆ものといえるだろう。</p>
<p>そして駅の上を走っているワルシャワを代表する目抜き通りであるイェルサレム大通りAleje Jerozolimskieに上がって向い側にそびえるスターリン様式の文化科学宮殿を見上げると、やはりかつてより美しくライトアップされているように思える。</p>
<p>見た目にはワルシャワはユーロ開催にそなえてか街の趣きを洗練されたものに変化させつつある、というのが第一印象だった。</p>
<p>さて、そんなワルシャワに今回は長居することは能わない。そんなワルシャワの中央駅とワルシャワの詳細はまたポーランド編にゆずるとしよう。小生たちは、次の日にはまたウクライナはリヴィウに向けて経たねばならず、それも一日中バスの中で過ごさねばならない。</p>
<div id="attachment_836" class="wp-caption alignnone" style="width: 504px"><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0286.jpg"><img class="size-large wp-image-836" title="IMG_0286" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0286-494x370.jpg" alt="" width="494" height="370" /></a><p class="wp-caption-text">余りにもお腹が減っていたので、食べ始めの皿で失敬・・・。オーブンで焼いたピエロギを久々に食して満腹。この次の日からウクライナ／ポーランドではほぼ毎日バレーニキ／ピエロギを食することに。店の場所は中央駅方面からMarszalkowskaを南にPlac Konstytucijの一番南東角の横にある。注文をうけてから作ってくれるのでやはりうまいが値段もそこそこ。飲み物込みで10€程はしたから、ワルシャワ中心部のこういった場所での外食の値段はベルリン、特にクロイツベルクやノイケルンよりも若干高めか。</p></div>
<p>その後、小生たちは旅の初日は名物のピエロギで腹をしっかりと満たし、ささやかに無事のワルシャワ到着を祝い、早々に床につくのでありました。そもそも小生の体調は相も変わらず芳しくなかった。</p>
<p>ではまた自戒。次回はいよいよウクライナ入り。</p>
<div class="shr-publisher-767"></div><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetBottom Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetBottom Automatic -->]]></content:encoded>
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		<title>ベルリン-ドネツク-エクスプレス: 2012年4月3日午後4時。オーデル川越え。</title>
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		<pubDate>Thu, 17 May 2012 18:36:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[Kodography]]></category>
		<category><![CDATA[チェコ]]></category>
		<category><![CDATA[フットボール]]></category>
		<category><![CDATA[ベルリン]]></category>
		<category><![CDATA[ポーランド]]></category>
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		<category><![CDATA[ワルシャワ]]></category>
		<category><![CDATA[国境越え]]></category>

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		<description><![CDATA[<img width="188" height="141" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0232-188x141.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_0232" title="IMG_0232" />オーデル川越えは小生にとってはいつも特別な瞬間である。 ドイツ側のフランクフルト・アン・デア・オーデルからポーランド側のスウヴィッチェへ、またその逆へ。これまで何度となくこの川を越えてきた。それはポーランドという国の旅の始まりであり、同時にそこでの旅の終わりでもあった。 初めてこの川を越えたのは、もう10年以上も前になるから、20世紀末のことだ。 90年代の末、小生は、多くの日本人が最初のヨーロッパを旅する際に向うであろう、ロンドンやパリではなく、中欧という場所へなにかにせかされるようにして向った。チューリヒを出て、ウィーンへ向かい、そしてブダペスト、ブラチスラヴァ、プラハ、そしてワルシャワと。 そのワルシャワからベルリン行のEuroCityで小生はこのオーデル川を越えてドイツに「帰ってきた」のだ。 ここ数年はポーランドよりもチェコへ向うことが多かった。ベルリンとプラハをいったり来たりすることが続いたりした。 いつもベルリンからプラハへ向う時は、ブダペストかウィーン行きのEuroCityにのっていく。列車はドレスデンを過ぎるとピルナのあたりから列車はエルベ川沿いに走る。そして、いつのまにか国境を越えていて、いつのまにか自分がチェコにいることに気がつく。 でも、そこにはベルリンからポーランドへ向うときのような興奮がない。 バードシャンダウを過ぎ、国境前の最後の駅であるシェーナを過ぎると、いつのまにか列車は、延々とエルベ川沿いを走るうちにチェコ領内へと入って行く。どこで国境を越えたのか、という実感がそこにはない。 自分が今チェコにいるのだ、という実感が湧くのは、いつもシェーナを過ぎてしばらくして、小生の携帯にショートメッセージSMSが入るときだ。小生の携帯がチェコでローミングを始めたという知らせ。極めて機械的な実感。国境検査がなくなり、移動の自由が格段に広がったのはもちろん喜ばしい。けれど、ヨーロッパの中、少なくとも欧州連合内を旅することはとても乾いた体験でしかなくなったのかもしれない。 かつては車窓からみていて、チェコとドイツの家屋の状態の差などでどちらの側にいるのか、という確信はもてたが、最近はそうは簡単に見分けがつかなくなった。もちろん、何度も行き来をしていているので、このあたりからチェコ、ということは容易にみてとれはするのだけれど。 かつてはドイツ／チェコ国境の両側でパスポートコントロールがあったので、自分のパスポートにチェコの警官がスタンプを押すのをみて、違う国へと来た、という実感があった。ところが、チェコのシェンゲン条約加盟以降、最近はあったりなかったりとまちまちだ。それもだいたいドレスデン中央駅停車中かドレスデンをでてバードシャンダウへ向う車上で行われる。まだドイツ国内だというのに。 結局、今回も、また初めてウクライナへ向った2005年の時とやはり同じルートで同じ橋を越えた。 オーデル川を越えてしばらくするとジェーピンRzepinという駅にしばらくとまる。そこで乗務員の交代などがある。 その間、ドイツからの乗客はおもいおもいにホームへ立って、ポーランドでの最初に空気を吸う。もしく一服タバコを吸う。この風景はいつもこの駅に列車が止まるとき、全く毎回同じだ。これを目の当たりにして、自分が今ポーランドに来たのだという実感が濃くなる。彼ら彼女たちそれぞれのオーデル川越え後の光景。 こののんびりさ加減がポーランドという国の一面なのかもしれない、とふと思う。時間の流れ方が、ベルリンからやってきて川をひとつ越えただけで全く異なる、という。 ベルリンからプラハへ向う途上にこういう光景は全くない。ドイツ側のバードシャンダウでもチェコ側のジェチーンDěcínでも列車は止まったと思えば、すぐ動き出す。そして小一時間も経つと、列車の窓からはプラハ城の遠景を拝することができる。 極めてモダンに改装され、ユーゲントスティル旧駅舎もかつての輝きをとりもどそうとするプラハ中央駅に降り立っても、ベルリンとさして時間の流れ方はかわらないことに気付く。それどころ、駅構内から地下鉄の駅へと続く人の列に従っていけば、それも若干早いのではないか、と思ったりもする。 そういえば、前回訪問から今回にかけての一年半以上の間に、ワルシャワの中央駅が大掛かりに改装されたと小耳にはさんだ。まずはその変化ぶりを収めることから今回の小生たちの旅は本格的に始まるといってもよいだろう。 列車はまたポーランドの平原を走る走る、ワルシャワへ。日は段々と西に傾き始める。 ではまた自戒。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<img width="188" height="141" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0232-188x141.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_0232" title="IMG_0232" /><p></p><br /><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>オーデル川越えは小生にとってはいつも特別な瞬間である。</p>
<p>ドイツ側のフランクフルト・アン・デア・オーデルからポーランド側のスウヴィッチェへ、またその逆へ。これまで何度となくこの川を越えてきた。それはポーランドという国の旅の始まりであり、同時にそこでの旅の終わりでもあった。</p>
<p>初めてこの川を越えたのは、もう10年以上も前になるから、20世紀末のことだ。<span id="more-750"></span></p>
<p>90年代の末、小生は、多くの日本人が最初のヨーロッパを旅する際に向うであろう、ロンドンやパリではなく、中欧という場所へなにかにせかされるようにして向った。チューリヒを出て、ウィーンへ向かい、そしてブダペスト、ブラチスラヴァ、プラハ、そしてワルシャワと。</p>
<p>そのワルシャワからベルリン行のEuroCityで小生はこのオーデル川を越えてドイツに「帰ってきた」のだ。</p>
<p>ここ数年はポーランドよりもチェコへ向うことが多かった。ベルリンとプラハをいったり来たりすることが続いたりした。</p>
<p>いつもベルリンからプラハへ向う時は、ブダペストかウィーン行きのEuroCityにのっていく。列車はドレスデンを過ぎるとピルナのあたりから列車はエルベ川沿いに走る。そして、いつのまにか国境を越えていて、いつのまにか自分がチェコにいることに気がつく。</p>
<p>でも、そこにはベルリンからポーランドへ向うときのような興奮がない。</p>
<p>バードシャンダウを過ぎ、国境前の最後の駅であるシェーナを過ぎると、いつのまにか列車は、延々とエルベ川沿いを走るうちにチェコ領内へと入って行く。どこで国境を越えたのか、という実感がそこにはない。</p>
<p>自分が今チェコにいるのだ、という実感が湧くのは、いつもシェーナを過ぎてしばらくして、小生の携帯にショートメッセージSMSが入るときだ。小生の携帯がチェコでローミングを始めたという知らせ。極めて機械的な実感。国境検査がなくなり、移動の自由が格段に広がったのはもちろん喜ばしい。けれど、ヨーロッパの中、少なくとも欧州連合内を旅することはとても乾いた体験でしかなくなったのかもしれない。</p>
<p>かつては車窓からみていて、チェコとドイツの家屋の状態の差などでどちらの側にいるのか、という確信はもてたが、最近はそうは簡単に見分けがつかなくなった。もちろん、何度も行き来をしていているので、このあたりからチェコ、ということは容易にみてとれはするのだけれど。</p>
<p>かつてはドイツ／チェコ国境の両側でパスポートコントロールがあったので、自分のパスポートにチェコの警官がスタンプを押すのをみて、違う国へと来た、という実感があった。ところが、チェコのシェンゲン条約加盟以降、最近はあったりなかったりとまちまちだ。それもだいたいドレスデン中央駅停車中かドレスデンをでてバードシャンダウへ向う車上で行われる。まだドイツ国内だというのに。</p>
<p>結局、今回も、また初めてウクライナへ向った2005年の時とやはり同じルートで同じ橋を越えた。</p>
<div class="wp-caption alignnone" style="width: 504px"><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0008a.jpg"><img class="alignnone size-large wp-image-761" title="IMG_0008a" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0008a-494x326.jpg" alt="" width="494" height="326" /></a><p class="wp-caption-text">Rzepinにて。前回のウクライナ行き途上。2010年7月末。</p></div>
<p>オーデル川を越えてしばらくするとジェーピンRzepinという駅にしばらくとまる。そこで乗務員の交代などがある。</p>
<p>その間、ドイツからの乗客はおもいおもいにホームへ立って、ポーランドでの最初に空気を吸う。もしく一服タバコを吸う。この風景はいつもこの駅に列車が止まるとき、全く毎回同じだ。これを目の当たりにして、自分が今ポーランドに来たのだという実感が濃くなる。彼ら彼女たちそれぞれのオーデル川越え後の光景。</p>
<p>こののんびりさ加減がポーランドという国の一面なのかもしれない、とふと思う。時間の流れ方が、ベルリンからやってきて川をひとつ越えただけで全く異なる、という。</p>
<p>ベルリンからプラハへ向う途上にこういう光景は全くない。ドイツ側のバードシャンダウでもチェコ側のジェチーンDěcínでも列車は止まったと思えば、すぐ動き出す。そして小一時間も経つと、列車の窓からはプラハ城の遠景を拝することができる。</p>
<p>極めてモダンに改装され、ユーゲントスティル旧駅舎もかつての輝きをとりもどそうとするプラハ中央駅に降り立っても、ベルリンとさして時間の流れ方はかわらないことに気付く。それどころ、駅構内から地下鉄の駅へと続く人の列に従っていけば、それも若干早いのではないか、と思ったりもする。</p>
<div id="attachment_189" class="wp-caption alignnone" style="width: 490px"><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/07/IMG_0018-e1336744373125.jpg"><img class=" wp-image-189" title="Prague Central Station, 25. December 2010" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/07/IMG_0018-e1336744373125.jpg" alt="" width="480" height="326" /></a><p class="wp-caption-text">ベルリン行きのEuroCityを待ちながら。この列車は結局プラハを一時間半以上遅れて出発した。とにかく雪のふる寒いプラハはクリスマスということもあり人気があまりなかった。プラハ中央駅、2010年12月25日。</p></div>
<p>そういえば、前回訪問から今回にかけての一年半以上の間に、ワルシャワの中央駅が大掛かりに改装されたと小耳にはさんだ。まずはその変化ぶりを収めることから今回の小生たちの旅は本格的に始まるといってもよいだろう。</p>
<p>列車はまたポーランドの平原を走る走る、ワルシャワへ。日は段々と西に傾き始める。</p>
<p>ではまた自戒。</p>
<div class="shr-publisher-750"></div><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetBottom Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetBottom Automatic -->]]></content:encoded>
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		<title>ベルリン-ドネツク-エクスプレス: 2012年4月3日午後2時50分。ベルリン東駅。</title>
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		<pubDate>Thu, 17 May 2012 12:44:17 +0000</pubDate>
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		<category><![CDATA[ユーロ2012]]></category>

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		<description><![CDATA[<img width="188" height="140" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0246a-188x140.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_0246a" title="IMG_0246a" />これから長旅に出る直前だというのに、しかも、最初の数日はかなり強行軍であるが分かっていたというのに、とにかく体調がすぐれないままベルリンは東駅Ostbahnhofのホームに小生はいた。 これからいくのはヨーロッパのメキシコあるいは中国ともいわれるポーランドのさらにその向こうのウクライナなのである。となるとウクライナはヨーロッパの・・・、何なのだろう。 ウクライナといえばコサック、コサックといえば大草原、大草原といえば遊牧民、遊牧民は酒を飲む、酒と言えばウォッカ、ウォッカといえばロシア、だめだ。もう一度。 大草原だ、大草原といえば、小さな家だ、そして馬だ、馬といえば、遊牧民、遊牧民といえばやはりモンゴルだ。 かつてウクライナにはモンゴル人がやってきて、例えば、ウクライナの南の先っぽにはモンゴル人の末裔でもあるクリミア・タタールというマイノリティも住んでいる。一度クリミアにいってときに、ベルリンでよくしっている日本人のなんとかさんとものすごく似ている人がのった乗り合いタクシー（通称マルシュルートゥカ）を運転していて、おもわず、どうもこんにちわ、御日柄もよく、なんて本当に日本語で挨拶してしまいそうになったこともある。ウクライナはじゃあヨーロッパのモンゴルか。 という冗談はほどほどにしておいて、これからいくのはウクライナなのだ。何をしに？サッカーを見に。サッカーである。 実はウクライナには一度サッカーを見にいってきたことがある。日本代表対ウクライナ代表の試合である。2005年の10月のことだ（もちろん中田ヒデもいた、生で彼の出ているのを見る最初で最後に機会だったが・・・）。 その当時の代表戦の試合会場だったのが、今回のユーロの決勝が行われたキエフのオリンピアスタジアムなのだ。当時ウクライナまで同行させていただいたベルリン在住のジャーナリストの中村真人さんのブログ／ベルリン中央駅にその旅の詳細を記されたエントリーがあるので、詳細はそちらを御覧いただきたい。中村さんのブログにある写真にもあるキエフのオリンピアスタジアムは今回のユーロの決勝の会場になるのだが、そのために当時とは大分趣きを新たにすることになった。 もっともそれも７年前の話になる。今から思えば感慨深い話なのだ。一度日本でロシアへの情熱を失い、一方でベルリンという街にひきつけられた小生を、再びヨーロッパの東へと再度向わせるきっかけになったのだから。人生とは分からないものである。 それが必然であったのか、いまでもよくわからないところがある。けれど、それが小生にとって、その2005年10月のウクライナ行きが一大転機になったことは間違いのないところだ。小生にとってはその７年間分の変化も加味したウクライナでのヨーロッパ選手権の直前の様を目の当たりにできれば、というのが当座の趣旨でもあった。 ところで、今回のウクライナ行き、事の発端は、小生はTwitter上で１月の終わりごろの呟きにさかのぼる。 どういう文脈でそのような発言するのに至ったのかは全く記憶にないのだが、ともあれ「この手のお祭り」が小生のような貧乏人には用がないのは当然であるとしても、東ヨーロッパとか中央ヨーロッパを研究とかほざいている小生のような輩にとっては、たとえユーロが金持ちのお祭りであったとしても、門外漢として見ていてもとおもしろくわけがないはずはないのである。とはいえ、大会前にどれほどこの国際的なお祭りのかの両国が変化をとげたか、それとも相も変わらずかをじっくりみるには絶好の機会であるのには間違いあるまい、ということで、大会前と大会後という祭りの前とその後を見にいくのことこそおもしろおかしき、と考えてのTweetだったのには違いあるまい。 ところがその小生の小言を読んでいた友人のフォトグラファーのM君が数日後やや興奮して、是非同行したいと連絡してきたころから、小生の冗談発言が冗談ではなくなるような様相を呈してきたのである。それ以降M君がしぶる小生のケツを盛んにたたくので、しょうがない、やっぱりいくしかねえか、という感じで（すっかり）その気になってしまったのが、3月の頭ごろだった。 ワルシャワ行きのユーロシティ、通称ベルリン・ワルシャワエクスプレスはほぼ定刻通りやってきた。乗車し予約してあったコンパートメントにいくと、中央駅から乗車していたM君がすでに車中の人であった。列車はゆっくりと動きだし、最近とんとご無沙汰しているワルシャワ通り駅を通りすぎるのを眺めながら、つかの間のベルリンに別れをつげた小生は、一年半以上ぶりのベルリン・ワルシャワエクスプレスの車上で、久々のオーデル川の向こう岸への旅に心をときめかすのであった。それでも、その高揚感に体がおいつかないという不具合も抱え、どうにもこうにもこの先のハードな行程に不安を覚えるのであった。 この旅行の計画の段階での小生たちの目的はおおざっぱにいって次の通りだった。 ユーロの会場となるスタジアム、もとい、そのスタジアムが位置するウクライナとポーランドの開催都市をすべての視察。 開催会場でおこなわれる地元リーグの試合も可能な限り観戦。 そして、開催都市でのスタジアムとリーグ戦以外のサッカーに関わる日常をつぶさに観察。 そこで地元リーグの開催日程をつぶさに検討しているうちに、四月七日にウクライナでの開催会場のひとつであるドネツクで、ナショナルダービーといわれるシャフタール・ドネツク対ディナモ・キエフの試合がおこなわるということが判明した。 このウクライナ／ポーランドツアーの計画が浮上したころ、今年二月のベルリン映画祭で&#8221;The  other Chelsea&#8221;「もうひとつのチェルシー」というドキュメンタリー映画をみたのだが (この作品についてはまた別のポストにあるのでそちらを参照あれ）、この作品はドンバスという東ウクライナのかつてのソ連を代表する重工業地帯にあるドネツクと言う街に本拠地をおくシャフタール・ドネツクというサッカーチームとそのドネツクという街に住まう人々と地域をユーモアとサッカーにもつわる高揚感、そこで逆説的にうかぶウクライナ社会の矛盾と欺瞞を見事に描きだしていた。この作品をみたことが、一度はドネツクという街にいっておくべきだな、という小生の気持ちの背中を押したのである。 こうして小生たちの今回のウクライナ／ポーランドユーロ2012直前ツアーの最大の目標は4月7日のシャフタール・ドネツク対ディナモ・キエフの一大カードの観戦ということに決まった。 ところが、小生は来客や野暮用などで4月3日にならないとベルリンを出発できなくなってしまった。遅くとも7日の朝にはドネツク到着していなくてはならないから、こうして小生たちはベルリンから４泊５日でドネツク到達を目指すこととなった。 そもそも小生のような貧乏人がドネツクまで飛行機でいくほどの余裕はないし、もともと飛行機での移動は小生は苦手としているので、その気は全くなかったのだけれど。なので、やはりポーランド経由で陸路でウクライナへ向うということになった。 が、四泊五日ならば余裕じゃないかということなかれ。ここでもう一度ルート確認をしておこう。 Going in Poland and Ukraine, shortly before EURO 2012 Poland &#38; Ukraine, April-May 2012 当初の計画では、3日午後にベルリンを出発し、ワルシャワ到着は夕方遅くの９時。そこからワルシャワからリビウまで夜行バスで向い、リビウ早朝到着後とりあえず四日一日を過ごした後、次の日五日の朝リビウをたち、五日夕方にキエフ着、そして、六日夕方の夜行列車でキエフをたち、ドネツクには七日日朝に到着の夜行列車で到着の予定であった。 ところが小生の体調不良により、若干の予定変更を強いられることに。 出発前夜の時点で、当初の予定を3日夜のワルシャワーリビウを夜行バス泊をワルシャワの友人宅に一晩の宿を乞うことにし、昼前のバスでリビウへ出発することにしたのだ。 そもそも、ワルシャワーリビウの夜行便では国境通過が深夜な上、数時間は待たされることもあり、その間、パスポートコントロールもとい荷物検査で国境では寝ることはほぼ不可能であるのはわかっていたので、もともと気が進まなかった。その上、体調不良もあり、おそらく寝るのは難しい夜行バス移動では、後々の日程に響きかねないという判断であった。その後もリビウーキエフはほぼ10時間列車移動、キエフードネツクも12時間以上の列車移動そして夜行泊と強行軍を控えていた。  &#8230;]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<img width="188" height="140" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0246a-188x140.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_0246a" title="IMG_0246a" /><p></p><br /><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>これから長旅に出る直前だというのに、しかも、最初の数日はかなり強行軍であるが分かっていたというのに、とにかく体調がすぐれないままベルリンは東駅Ostbahnhofのホームに小生はいた。</p>
<p>これからいくのはヨーロッパのメキシコあるいは中国ともいわれるポーランドのさらにその向こうのウクライナなのである。となるとウクライナはヨーロッパの・・・、何なのだろう。<span id="more-406"></span></p>
<p>ウクライナといえばコサック、コサックといえば大草原、大草原といえば遊牧民、遊牧民は酒を飲む、酒と言えばウォッカ、ウォッカといえばロシア、だめだ。もう一度。</p>
<p>大草原だ、大草原といえば、小さな家だ、そして馬だ、馬といえば、遊牧民、遊牧民といえばやはりモンゴルだ。 かつてウクライナにはモンゴル人がやってきて、例えば、ウクライナの南の先っぽにはモンゴル人の末裔でもあるクリミア・タタールというマイノリティも住んでいる。一度クリミアにいってときに、ベルリンでよくしっている日本人のなんとかさんとものすごく似ている人がのった乗り合いタクシー（通称マルシュルートゥカ）を運転していて、おもわず、どうもこんにちわ、御日柄もよく、なんて本当に日本語で挨拶してしまいそうになったこともある。ウクライナはじゃあヨーロッパのモンゴルか。</p>
<p>という冗談はほどほどにしておいて、これからいくのはウクライナなのだ。何をしに？サッカーを見に。サッカーである。</p>
<p>実はウクライナには一度サッカーを見にいってきたことがある。日本代表対ウクライナ代表の試合である。2005年の10月のことだ（もちろん中田ヒデもいた、生で彼の出ているのを見る最初で最後に機会だったが・・・）。 その当時の代表戦の試合会場だったのが、今回のユーロの決勝が行われたキエフのオリンピアスタジアムなのだ。当時ウクライナまで同行させていただいたベルリン在住のジャーナリストの中村真人さんのブログ／<a href="http://berlinhbf.exblog.jp/1605755/" target="_blank">ベルリン中央駅</a>にその旅の詳細を記されたエントリーがあるので、詳細はそちらを御覧いただきたい。中村さんのブログにある写真にもあるキエフのオリンピアスタジアムは今回のユーロの決勝の会場になるのだが、そのために当時とは大分趣きを新たにすることになった。</p>
<p>もっともそれも７年前の話になる。今から思えば感慨深い話なのだ。一度日本でロシアへの情熱を失い、一方でベルリンという街にひきつけられた小生を、再びヨーロッパの東へと再度向わせるきっかけになったのだから。人生とは分からないものである。</p>
<p>それが必然であったのか、いまでもよくわからないところがある。けれど、それが小生にとって、その2005年10月のウクライナ行きが一大転機になったことは間違いのないところだ。小生にとってはその７年間分の変化も加味したウクライナでのヨーロッパ選手権の直前の様を目の当たりにできれば、というのが当座の趣旨でもあった。</p>
<p>ところで、今回のウクライナ行き、事の発端は、小生はTwitter上で１月の終わりごろの呟きにさかのぼる。<br />
<a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/スクリーンショット（2012-05-14-14.18.38）.png"><img class="alignnone size-full wp-image-416" title="スクリーンショット（2012-05-14 14.18.38）" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/スクリーンショット（2012-05-14-14.18.38）.png" alt="" width="442" height="195" /></a></p>
<p>どういう文脈でそのような発言するのに至ったのかは全く記憶にないのだが、ともあれ「この手のお祭り」が小生のような貧乏人には用がないのは当然であるとしても、東ヨーロッパとか中央ヨーロッパを研究とかほざいている小生のような輩にとっては、たとえユーロが金持ちのお祭りであったとしても、門外漢として見ていてもとおもしろくわけがないはずはないのである。とはいえ、大会前にどれほどこの国際的なお祭りのかの両国が変化をとげたか、それとも相も変わらずかをじっくりみるには絶好の機会であるのには間違いあるまい、ということで、大会前と大会後という祭りの前とその後を見にいくのことこそおもしろおかしき、と考えてのTweetだったのには違いあるまい。</p>
<p>ところがその小生の小言を読んでいた友人のフォトグラファーのM君が数日後やや興奮して、是非同行したいと連絡してきたころから、小生の冗談発言が冗談ではなくなるような様相を呈してきたのである。それ以降M君がしぶる小生のケツを盛んにたたくので、しょうがない、やっぱりいくしかねえか、という感じで（すっかり）その気になってしまったのが、3月の頭ごろだった。</p>
<p>ワルシャワ行きのユーロシティ、通称ベルリン・ワルシャワエクスプレスはほぼ定刻通りやってきた。乗車し予約してあったコンパートメントにいくと、中央駅から乗車していたM君がすでに車中の人であった。列車はゆっくりと動きだし、最近とんとご無沙汰しているワルシャワ通り駅を通りすぎるのを眺めながら、つかの間のベルリンに別れをつげた小生は、一年半以上ぶりのベルリン・ワルシャワエクスプレスの車上で、久々のオーデル川の向こう岸への旅に心をときめかすのであった。それでも、その高揚感に体がおいつかないという不具合も抱え、どうにもこうにもこの先のハードな行程に不安を覚えるのであった。</p>
<p>この旅行の計画の段階での小生たちの目的はおおざっぱにいって次の通りだった。</p>
<blockquote><p><strong>ユーロの会場となるスタジアム、もとい、そのスタジアムが位置するウクライナとポーランドの開催都市をすべての視察。</strong></p>
<p><strong>開催会場でおこなわれる地元リーグの試合も可能な限り観戦。</strong></p>
<p><strong>そして、開催都市でのスタジアムとリーグ戦以外のサッカーに関わる日常をつぶさに観察。</strong></p></blockquote>
<p>そこで地元リーグの開催日程をつぶさに検討しているうちに、四月七日にウクライナでの開催会場のひとつであるドネツクで、ナショナルダービーといわれるシャフタール・ドネツク対ディナモ・キエフの試合がおこなわるということが判明した。</p>
<p>このウクライナ／ポーランドツアーの計画が浮上したころ、今年二月のベルリン映画祭で&#8221;The  other Chelsea&#8221;「もうひとつのチェルシー」というドキュメンタリー映画をみたのだが (この作品については<a href="http://luegenlernen.de/2012/05/17/drugoi-chelsea/" target="_blank">また別のポストにあるのでそちらを参照あれ</a>）、この作品はドンバスという東ウクライナのかつてのソ連を代表する重工業地帯にあるドネツクと言う街に本拠地をおくシャフタール・ドネツクというサッカーチームとそのドネツクという街に住まう人々と地域をユーモアとサッカーにもつわる高揚感、そこで逆説的にうかぶウクライナ社会の矛盾と欺瞞を見事に描きだしていた。この作品をみたことが、一度はドネツクという街にいっておくべきだな、という小生の気持ちの背中を押したのである。</p>
<p><iframe src="http://www.youtube.com/embed/VZx_NulsQVU" frameborder="0" width="450" height="259"></iframe></p>
<p>こうして小生たちの今回のウクライナ／ポーランドユーロ2012直前ツアーの最大の目標は4月7日のシャフタール・ドネツク対ディナモ・キエフの一大カードの観戦ということに決まった。</p>
<p>ところが、小生は来客や野暮用などで4月3日にならないとベルリンを出発できなくなってしまった。遅くとも7日の朝にはドネツク到着していなくてはならないから、こうして小生たちはベルリンから４泊５日でドネツク到達を目指すこととなった。</p>
<p>そもそも小生のような貧乏人がドネツクまで飛行機でいくほどの余裕はないし、もともと飛行機での移動は小生は苦手としているので、その気は全くなかったのだけれど。なので、やはりポーランド経由で陸路でウクライナへ向うということになった。</p>
<p>が、四泊五日ならば余裕じゃないかということなかれ。ここでもう一度ルート確認をしておこう。</p>
<p><iframe src="http://maps.google.de/maps/ms?msa=0&amp;msid=200472668000339509701.0004bf973719abaed8feb&amp;hl=de&amp;ie=UTF8&amp;t=h&amp;ll=52.375599,27.333984&amp;spn=18.834405,33.398438&amp;z=4&amp;output=embed" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" width="455" height="350"></iframe><small><a style="color: #0000ff; text-align: left;" href="http://maps.google.de/maps/ms?msa=0&amp;msid=200472668000339509701.0004bf973719abaed8feb&amp;hl=de&amp;ie=UTF8&amp;t=h&amp;ll=52.375599,27.333984&amp;spn=18.834405,33.398438&amp;z=4&amp;source=embed">Going in Poland and Ukraine, shortly before EURO 2012 Poland &amp; Ukraine, April-May 2012 </a></small><small></small></p>
<p>当初の計画では、3日午後にベルリンを出発し、ワルシャワ到着は夕方遅くの９時。そこからワルシャワからリビウまで夜行バスで向い、リビウ早朝到着後とりあえず四日一日を過ごした後、次の日五日の朝リビウをたち、五日夕方にキエフ着、そして、六日夕方の夜行列車でキエフをたち、ドネツクには七日日朝に到着の夜行列車で到着の予定であった。</p>
<p>ところが小生の体調不良により、若干の予定変更を強いられることに。</p>
<p>出発前夜の時点で、当初の予定を3日夜のワルシャワーリビウを夜行バス泊をワルシャワの友人宅に一晩の宿を乞うことにし、昼前のバスでリビウへ出発することにしたのだ。</p>
<p>そもそも、ワルシャワーリビウの夜行便では国境通過が深夜な上、数時間は待たされることもあり、その間、パスポートコントロールもとい荷物検査で国境では寝ることはほぼ不可能であるのはわかっていたので、もともと気が進まなかった。その上、体調不良もあり、おそらく寝るのは難しい夜行バス移動では、後々の日程に響きかねないという判断であった。その後もリビウーキエフはほぼ10時間列車移動、キエフードネツクも12時間以上の列車移動そして夜行泊と強行軍を控えていた。</p>
<div id="attachment_737" class="wp-caption alignnone" style="width: 504px"><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0107a.jpg"><img class="size-large wp-image-737" title="IMG_0107a" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0107a-494x322.jpg" alt="" width="494" height="322" /></a><p class="wp-caption-text">ポーランド／ウクライナ国境、ポーランド側のHrebenneにて。この時も朝９時前のバスでワルシャワをたつが、国境にたどりついたのは午後もかなりまわったごろで、ウクライナ側のコントロールをぬけてリヴィウに着くころには日はかなり西に傾いていた。とにかく暑かった。国境通過待ちの状態で、もともとクーラーの入っていないバスが、サウナ状態になったことが忘れられない・・・。2010年7月。</p></div>
<p>そもそもベルリンーワルシャワ、そしてポーランドの各都市の移動はともかく、今回のウクライナでのユーロ開催都市の移動はほぼ一日がかりと思っておかねばならない。これからヨーロ観戦に赴かれる諸賢におかれましてはその点を留意の上で、体調との相談もウクライナ／ポーランド移動には極めて重要な要素であることを申し上げておく。</p>
<p>さて。4月3日の午後に戻ろう。列車はベルリンをとうの昔に離れ、シュプレー川上流の森の中をガタゴト行く。今回ウクライナはおろかワルシャワ行きもはじめてというM君は、すでに車内をあちこち歩き回ってネタ収集にいとまがない。</p>
<p>小生もときおりヴィデオをまわしたりするもどうにもこうにも体調がすぐれない。それでもポーランド国境直前の街であるフランクフルト・アン・デア・オーデルの駅に着いたあたりからやはりそれでもテンションが上がって来る。</p>
<p>長旅の初日はいつも長い。ではまた自戒。</p>
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		<title>久々のデモ。</title>
		<link>http://luegenlernen.de/2012/05/15/12mai-stern-marsch-berli/?utm_source=rss&#038;utm_medium=rss&#038;utm_campaign=12mai-stern-marsch-berli</link>
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		<pubDate>Tue, 15 May 2012 08:30:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[Kodography]]></category>
		<category><![CDATA[ジェントリフィケーション]]></category>
		<category><![CDATA[ベルリン]]></category>
		<category><![CDATA[社会運動]]></category>

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		<description><![CDATA[<img width="188" height="140" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_4499a-188x140.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_4499a" title="IMG_4499a" />先週の土曜日久々にデモにいってきた。3年前の大学占拠が失敗に終り、失意のどん底にあった小生は捲土重来を期して野に下ったのであるが、今回が久々のデモ復帰でもあった。多分2010年6月の学生デモ以来じゃないか。 といってもまあ天気がよかったのにポーランドから帰ってきてからというものの、色々と作業におわれて全く外にでれなかったので、たまには外にいくべ、まずはドネルでも食いにいくだ、と例のごとくベルリンに帰還して初めてのドネルケバブを食しにノイケルンの雑踏に身を乗り出した小生の前にこのデモのポスターがどーんと飛び込んできたのである。 でルートは以下の通りだった。 なので、こりゃいかない理由はないので、自宅から一番近いKotbusser Brückeから参加するということになった。結局一人でいったものの、行けばやはり当時の大学講堂占拠仲間は当然として、サッカーチームの同僚やらあまりデモにいかなさそうなヒップスター／ギャル系の知り合い（人は見かけによらないということでした、謹んでお詫びを）などもデモにいたりして結構びっくり仰天だったりする。 デモの日はちょうどDFBPolkalことサッカーの独逸杯の決勝で、街はサッカーファン、ドルトムントファンやバイエルンファンであふれかえっていた。冒頭のドルトムントの香川のユニフォームをきたデモ参加者の写真のように、サッカーユニフォームを着たデモ参加者もその他にも見かけた。ただの冷やかしの可能性も高いが、デモは人が沢山いてナンボだから。 とりあえず雑多なデモだった。反資本主義的シュプレヒコールをするアンチファAntifa（反ファシスト連合、いわゆる極左の代表格）から、左翼党によるEUとドイツ政府による経済政策の批判やら、ベルリン水道の民営化批判やら（これは非常に由々しきテーマ）、反原発を叫ぶ人たちやら・・・。まあ主義主張が多いデモで結局のところ一つとして主張が一つにまとまっていないデモだった。まあデモは通りに出ないと始まらないから其れで良いと言う事にしておこう。 デモの後、帰って色々リンクをあさっていれば、この日から丁度一年前にスペイン中の都市で中心部の大広場を占拠するというアクションが始まった日でもあり、その一周年記念行動という意味をあって、この先週土曜日は国際的なアクションデーということであった。 この地図には日本での街頭行動についての予告はなかったようにみえるが、実際のところはどうだったのだろう。ところでモスクワでも行動が予告されていたが、反プーチンの動きと加速してロシア中でかなりどえらいデモへと発展していったと言う話だ。もちろん、今回のデモの発端となった一年前の大行動がおこったスペインでもマドリッドの中心部を占拠する試みがあったという。 土曜日のベルリンでの行動はそれでも期待したよりも小規模に過ぎたような気がしなくもない。けれど、こういう試みを通じて繰り返し通りに出ることが重要なのだ。日本で経済産業省の前でテントを張る人たちや５月５日に高円寺で原発全停止をパレードにて盛大にお祝いされた方々（この祝い方はおおいにありと思います、かと思えばこのエポックメイキングな出来事に関するこういう記事もあったのでお読みあれ）の正当性とは一年目にしてはやくも「フクシマ」という言葉の意味のインパクトが失われていく様への警告であり「フクシマ」の犠牲になりつつある人々のことを常に人々の記憶にとどめおくということにある。 今年小生は5月1日をベルリンはコトブス門ことKotti周辺ではなく、ポーランド、しかも、第二次大戦の発端の地となったグダンスクはヴェステルプラッテWesterplatteで迎えたので、これはよい機会と当地で厳粛に反戦祈願をして参りました。が、労働者もとい貧乏人のお祭りという雰囲気はグダンスクにはなかったので、少々のストレスところではありませんでした。が、まもなく再来週末はベルリンはカーニバルなのでその分おおいに飲んで騒ぎたいといと思っております。さあ、皆で通りにでて気が済むまで歌い踊り騒ぎましょう。 ではまた自戒。次回はポーランド／ウクライナ話のあらためて第一回目と初日の話。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<img width="188" height="140" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_4499a-188x140.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_4499a" title="IMG_4499a" /><p></p><br /><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>先週の土曜日久々にデモにいってきた。3年前の大学占拠が失敗に終り、失意のどん底にあった小生は捲土重来を期して野に下ったのであるが、今回が久々のデモ復帰でもあった。多分2010年6月の学生デモ以来じゃないか。</p>
<p>といってもまあ天気がよかったのにポーランドから帰ってきてからというものの、色々と作業におわれて全く外にでれなかったので、たまには外にいくべ、まずはドネルでも食いにいくだ、と例のごとくベルリンに帰還して初めてのドネルケバブを食しにノイケルンの雑踏に身を乗り出した小生の前にこのデモのポスターがどーんと飛び込んできたのである。<span id="more-404"></span></p>
<p><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/poster12M_A2_2.jpeg"><img class="alignnone size-large wp-image-441" title="poster12M_A2_2" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/poster12M_A2_2-354x494.jpg" alt="" width="354" height="494" /></a></p>
<p>でルートは以下の通りだった。</p>
<p><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/routen12m-2-500px.png"><img class="alignnone size-large wp-image-439" title="routen12m-2-500px" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/routen12m-2-500px-494x421.png" alt="" width="494" height="421" /></a></p>
<p>なので、こりゃいかない理由はないので、自宅から一番近いKotbusser Brückeから参加するということになった。結局一人でいったものの、行けばやはり当時の大学講堂占拠仲間は当然として、サッカーチームの同僚やらあまりデモにいかなさそうな<a href="http://youtu.be/a830RCsxqY4" target="_blank">ヒップスター／ギャル系</a>の知り合い（人は見かけによらないということでした、謹んでお詫びを）などもデモにいたりして結構びっくり仰天だったりする。</p>
<p>デモの日はちょうどDFBPolkalことサッカーの独逸杯の決勝で、街はサッカーファン、ドルトムントファンやバイエルンファンであふれかえっていた。冒頭のドルトムントの香川のユニフォームをきたデモ参加者の写真のように、サッカーユニフォームを着たデモ参加者もその他にも見かけた。ただの冷やかしの可能性も高いが、デモは人が沢山いてナンボだから。</p>
<p>とりあえず雑多なデモだった。反資本主義的シュプレヒコールをするアンチファAntifa（反ファシスト連合、いわゆる極左の代表格）から、左翼党によるEUとドイツ政府による経済政策の批判やら、ベルリン水道の民営化批判やら（これは非常に由々しきテーマ）、反原発を叫ぶ人たちやら・・・。まあ主義主張が多いデモで結局のところ一つとして主張が一つにまとまっていないデモだった。まあデモは通りに出ないと始まらないから其れで良いと言う事にしておこう。</p>
<div id="attachment_500" class="wp-caption alignnone" style="width: 504px"><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_4492a.jpg"><img class="size-large wp-image-500" title="IMG_4492a" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_4492a-494x370.jpg" alt="" width="494" height="370" /></a><p class="wp-caption-text">ヤノヴィッツブリュッケを過ぎてアレクサンダー広場へ向う途上。いろんな旗が見える。特に反原発の旗の色が団地の色と・・・。</p></div>
<p>デモの後、帰って色々リンクをあさっていれば、この日から丁度一年前にスペイン中の都市で中心部の大広場を占拠するというアクションが始まった日でもあり、その一周年記念行動という意味をあって、この先週土曜日は国際的なアクションデーということであった。</p>
<p><iframe src="http://convocatorias.democraciarealya.es/?id_plan=5" width="100%" height="600"></iframe></p>
<p>この地図には日本での街頭行動についての予告はなかったようにみえるが、実際のところはどうだったのだろう。ところでモスクワでも行動が予告されていたが、反プーチンの動きと加速してロシア中でかなりどえらいデモへと発展していったと言う話だ。もちろん、今回のデモの発端となった一年前の大行動がおこったスペインでもマドリッドの中心部を占拠する試みがあったという。</p>
<p><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/536002_325588190845159_232639880139991_763020_1535879827_n.jpeg"><img class="alignnone  wp-image-496" title="536002_325588190845159_232639880139991_763020_1535879827_n" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/536002_325588190845159_232639880139991_763020_1535879827_n.jpeg" alt="" width="319" height="480" /></a></p>
<p>土曜日のベルリンでの行動はそれでも期待したよりも小規模に過ぎたような気がしなくもない。けれど、こういう試みを通じて繰り返し通りに出ることが重要なのだ。日本で経済産業省の前でテントを張る人たちや<a href="http://www.magazine9.jp/karin/120509/" target="_blank">５月５日に高円寺で原発全停止をパレードにて盛大にお祝いされた方々</a>（この祝い方はおおいにありと思います、かと思えばこのエポックメイキングな出来事に関する<a href="http://midori1kwh.de/2012/04/15/1706" target="_blank">こういう記事</a>もあったのでお読みあれ）の正当性とは一年目にしてはやくも「フクシマ」という言葉の意味のインパクトが失われていく様への警告であり「フクシマ」の犠牲になりつつある人々のことを常に人々の記憶にとどめおくということにある。</p>
<div id="attachment_444" class="wp-caption alignnone" style="width: 504px"><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0065.jpg"><img class="size-large wp-image-444 " title="IMG_0065" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0065-494x329.jpg" alt="" width="494" height="329" /></a><p class="wp-caption-text">Nigdy wiecej wojny (No more war)　グダンスクはヴェステルプラッテにて、５月１日。</p></div>
<p>今年小生は5月1日をベルリンはコトブス門ことKotti周辺ではなく、ポーランド、しかも、第二次大戦の発端の地となったグダンスクはヴェステルプラッテWesterplatteで迎えたので、これはよい機会と当地で厳粛に反戦祈願をして参りました。が、労働者もとい貧乏人のお祭りという雰囲気はグダンスクにはなかったので、少々のストレスところではありませんでした。が、まもなく再来週末はベルリンはカーニバルなのでその分おおいに飲んで騒ぎたいといと思っております。さあ、皆で通りにでて気が済むまで歌い踊り騒ぎましょう。</p>
<p>ではまた自戒。次回はポーランド／ウクライナ話のあらためて第一回目と初日の話。</p>
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		<title>山が転がる。Rollberg, Berlin-Neukölln</title>
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		<pubDate>Mon, 14 May 2012 14:27:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[Berlin-Neukölln]]></category>
		<category><![CDATA[Kodography]]></category>
		<category><![CDATA[スクワット／占拠]]></category>
		<category><![CDATA[ベルリン]]></category>
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		<category><![CDATA[社会運動]]></category>

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		<description><![CDATA[<img width="188" height="124" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMGa1-188x124.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMGa" title="IMGa" />小生の自宅の近く、ベルリンはノイケルンにRollbergという界隈がある。 ここにはかつてのベルリナーキンデルの醸造所があって、長い間、といっても、その跡の再利用をめぐっていろいろ試験的に文化的な催しが開かれたり、またはクラブとして使われていた時期があったりした。自前の醸造タンクをもったビアハウスもキンデルが北ベルリンのヴァイセンゼーに引っ越してからかつての醸造所の中にできたが、もう５、６年前になるだろうか。 Größere Kartenansicht ところが、最近そのかつてのキンデルの地下倉庫がCubeというクラブとしてオープンしたのだけれど、ノイケルンで（まさか毎晩そんな値段であるわけもないが）20€もする（らしい）入場料のせいで、ヒップスタークラブもしくはジェントリフィケーションの権化とか小生の周辺では皮肉られてもいた。実際小生もまだそのリニューアル後のキンデル地下倉庫にはまだ足を踏み入れていない（というかいっても仕方が無いと思っている）。 キンデルの醸造所の側にはこれまたカオスなバルカンや東ヨーロッパの香ばしき蚤の市がでていることもあったが、その場所にも結局大手スーパーマーケットがオープンすることとなった。まあ、どこでもある工場跡の商業地域のようなものにできあがったのだが、その界隈も結局なんとなく特徴のない界隈になりつつあるとしている。 そんなものが瞬く間にできてくるノイケルンもまぎれも無くべルリンの一部なのであって、おそらくゲットーという言葉がささやかれていた時代がもはや過去のものになりつつある証なのだろう。それどころが、ヨーロッパ中からノイケルンへとヒップスターどもや（ってか一回その定義やっときましょう、次の御題として）やツーリストが殺到する昨今なのである。ますます貧乏人には住みづらい世の中になったものである。 そんな浮世ばなれしたベルリンはノイケルンのRollbergにはまだ他の世界と隔絶したような場所がある。それが通称&#8221;Rollbergsiedlung&#8221;（「ロルベルク団地」）と呼ばれる集合住宅街、つまり「団地」である。&#8221;Rollberg&#8221;といえば通常この団地のことをさすのだが、ここはノイケルンでもとりわけ悪名高い地域とされている。 RollbergはかつてはMietskaserneというベルリンが産業革命とともに発展をとげて19世紀後半に大量の労働者の居住させるためのアパートが乱立していた場所であり、時の経過とともに衛生状態も悪い、犯罪も多発する場所となっていた一方で、労働運動も活発化し、20世紀初頭にはベルリンを代表する労働者もとい左翼の拠点となった。1920年代や30年代には労働争議のこじれと反ナチ運動によって、警察との衝突も多発し、バリケードを築いて労働者がたてこもるという自体も頻発したという。 そんなRollbergも戦後50年代から60年代にかけて住居状態はさらに悪化し、地域全体を一度更地にして、そこに新たな住居や施設をたているという通称&#8220;Flächensanierierung&#8221;という再開発の対象となり、現在そこにみられるような「団地」が出来るに至った。 もちろん、地域を解体してなおもそれよりそこに留まることになった人たちは少数派で、新しくできた「団地」へと入居したの人々の大半は大量のGastarbeiter、移民労働者とその家族だった。現在もそこの居住者の三割強は外国籍あるいは国外にルーツをもつ人たちで、そして、人口の四分の一は18歳以下だとか。 もちろん、これはこのRollbergだけのトレンドではないし、ノイケルン全体でも特に珍しいケースでもない。そもそもベルリンにおける「団地」とはそうした人々のために建てられたもの、あるいはうがった言い方をするならば、「収容」するために建設されたともいえる。こうした「団地」はベルリン、特に西ベルリンではベルリンの壁周辺の地域に大量に建造された。 ところで、この&#8221;Flächensanierung&#8221;は、しかし、1970年代以降のヨーロッパの大都市でおこった社会運動を語る上でもキータームともいえることを指摘しておきたい。この再開発の名のもとの&#8221;Flächensanierung&#8221;は同時の西ベルリンでも計画されて、その結末の一端はWeddingのBrunnenstr.沿い(もちろん当時は壁沿い、現在も移民系人々が集中して住む「団地」ともいえる住宅街がある）やクロイツベルクはコトブス門Kottbusser Tor近辺に見られる。 クロイツベルクに関していえば、Kottbusser Tor周辺、Skalitzer Str.沿いの界隈だけでなく、いわゆるSO36というクロイツベルクの東側、シュプレー川とSkalitzerstr.の間の区域の大半が&#8221;Flächensanierung&#8221;の対象となったという。当時のその界隈もトルコ系のガストアルバイターとその家族や低所得者などが集中して住む界隈で、空き家も多く、その地区の家屋の大半の荒廃ぶりも極限をきわめていたというが、そうした家屋に移ってきたのがいわゆるHausbesetzter、つまりスクワッターなのである。その中にはアナーキストや68年世代なども多く含まれていただろうが、そういった&#8221;Flächensanierung&#8221;の対象となった区域（ベルリン以外ならばハンブルクのアルトナやザンクト・パウリといった地域など）が70年代以降の社会運動や文化活動の拠点となっていった。Hausbesetzung、家屋占拠あるいはスクワットはそういった行政による都市空間の均質化の企みとしての&#8221;Flächensanierung&#8221;へのプロテストという意味もあったといってもいいのだろうか。そんなこともあり、警察とパンク、アナーキスト、Antifa(アンチファシスト連合という極左）などが、近年まで、特に壁の崩壊後は東ベルリン中心部に舞台をうつして、自主自営による居住空間と文化活動の空間を求めて、絶え間なく衝突を繰り広げることになっていったのである。その名残は毎年5月1日のメーデーの日に垣間みることができる。ここ数年来すっかりストリートフェストのようになってしまったけれど・・・。 ベルリンで「団地」（ドイツ語ではPlattenbausiedlung、あるいは&#8221;Die Platte&#8221;ともいうが）とは非常にネガティブな意味合いがつきまとうことが多いけれど、小生の目にはこの&#8221;Rollberg”も普通の団地だ。移民系の人たちも多く見える。 夕方時々、近くにあるかつてのテンペルホーフ空港の跡へと散歩に出かける時に側をよく通る。世間的にはProblemkiez、いわゆる犯罪や社会的な問題を多く抱える地域などといわれるが、この季節の夕方には広場で人々が談笑したりや建物と建物と間では子供たちがボールで遊び回っているのが見える。人の気配が全くしない時間帯も一方である。ただの通行人にはみえないものがあるだろう。それでも、無機質にも写るいわれるそんな団地の中にも普通の人々の普通の営みがあるのだけはわかる。 ここ二年程ベルリンのそういった団地といわれる界隈やその団地がある郊外をよく歩いて来たが、うわついたベルリン中心部を離れ、そうした場所に赴くと、なにがしらこの街の深い「襞」に触れられるような気がする。むしろ解消しきれない深い混乱か。いや、それはどこにでもある大都会の「襞」の深部なのではなかろうか。 そろそろそういった話もしたいと思う。それなりに普段見知ったものとは違ったベルリンの顔、あるいは他のヨーロッパあるいは世界中の大都会とそうはかわらないベルリンの顔が見えて来ることだろう。 というわけで又自戒。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<img width="188" height="124" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMGa1-188x124.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMGa" title="IMGa" /><p></p><br /><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>小生の自宅の近く、ベルリンはノイケルンにRollbergという界隈がある。 </p>
<p>ここにはかつてのベルリナーキンデルの醸造所があって、長い間、といっても、その跡の再利用をめぐっていろいろ試験的に文化的な催しが開かれたり、またはクラブとして使われていた時期があったりした。自前の醸造タンクをもったビアハウスもキンデルが北ベルリンのヴァイセンゼーに引っ越してからかつての醸造所の中にできたが、もう５、６年前になるだろうか。<span id="more-269"></span></p>
<p><iframe width="440" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.de/maps?f=q&amp;source=s_q&amp;hl=de&amp;geocode=&amp;q=Rollbergstra%C3%9Fe,+Berlin&amp;aq=0&amp;oq=Rollberg&amp;sll=52.477082,13.431001&amp;sspn=0.015134,0.037165&amp;t=h&amp;ie=UTF8&amp;hq=&amp;hnear=Rollbergstra%C3%9Fe,+Neuk%C3%B6lln+12053+Berlin&amp;ll=52.483669,13.433018&amp;spn=0.018294,0.037766&amp;z=14&amp;iwloc=A&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.de/maps?f=q&amp;source=embed&amp;hl=de&amp;geocode=&amp;q=Rollbergstra%C3%9Fe,+Berlin&amp;aq=0&amp;oq=Rollberg&amp;sll=52.477082,13.431001&amp;sspn=0.015134,0.037165&amp;t=h&amp;ie=UTF8&amp;hq=&amp;hnear=Rollbergstra%C3%9Fe,+Neuk%C3%B6lln+12053+Berlin&amp;ll=52.483669,13.433018&amp;spn=0.018294,0.037766&amp;z=14&amp;iwloc=A" style="color:#0000FF;text-align:left">Größere Kartenansicht</a></small></p>
<p>ところが、最近そのかつてのキンデルの地下倉庫がCubeというクラブとしてオープンしたのだけれど、ノイケルンで（まさか毎晩そんな値段であるわけもないが）20€もする（らしい）入場料のせいで、ヒップスタークラブもしくはジェントリフィケーションの権化とか小生の周辺では皮肉られてもいた。実際小生もまだそのリニューアル後のキンデル地下倉庫にはまだ足を踏み入れていない（というかいっても仕方が無いと思っている）。 </p>
<p>キンデルの醸造所の側にはこれまたカオスなバルカンや東ヨーロッパの香ばしき蚤の市がでていることもあったが、その場所にも結局大手スーパーマーケットがオープンすることとなった。まあ、どこでもある工場跡の商業地域のようなものにできあがったのだが、その界隈も結局なんとなく特徴のない界隈になりつつあるとしている。 </p>
<p>そんなものが瞬く間にできてくるノイケルンもまぎれも無くべルリンの一部なのであって、おそらくゲットーという言葉がささやかれていた時代がもはや過去のものになりつつある証なのだろう。それどころが、ヨーロッパ中からノイケルンへとヒップスターどもや（<strong>ってか一回その定義やっときましょう、次の御題として</strong>）やツーリストが殺到する昨今なのである。ますます貧乏人には住みづらい世の中になったものである。 </p>
<p>そんな浮世ばなれしたベルリンはノイケルンのRollbergにはまだ他の世界と隔絶したような場所がある。それが通称&#8221;Rollbergsiedlung&#8221;（「ロルベルク団地」）と呼ばれる集合住宅街、つまり「団地」である。&#8221;Rollberg&#8221;といえば通常この団地のことをさすのだが、ここはノイケルンでもとりわけ悪名高い地域とされている。</p>
<p>RollbergはかつてはMietskaserneというベルリンが産業革命とともに発展をとげて19世紀後半に大量の労働者の居住させるためのアパートが乱立していた場所であり、時の経過とともに衛生状態も悪い、犯罪も多発する場所となっていた一方で、労働運動も活発化し、20世紀初頭にはベルリンを代表する労働者もとい左翼の拠点となった。1920年代や30年代には労働争議のこじれと反ナチ運動によって、警察との衝突も多発し、<a href="http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5c/Bundesarchiv_B_145_Bild-P046278%2C_Berlin%2C_Blutmai%2C_Sta%C3%9Fenbarrikade.jpg" target="_blank">バリケードを築いて労働者がたてこもる</a>という自体も頻発したという。 そんなRollbergも戦後50年代から60年代にかけて住居状態はさらに悪化し、地域全体を一度更地にして、そこに新たな住居や施設をたているという通称<a href="http://de.wikipedia.org/wiki/Fl%C3%A4chensanierung" target="_blank">&#8220;Flächensanierierung&#8221;</a>という再開発の対象となり、現在そこにみられるような「団地」が出来るに至った。 もちろん、地域を解体してなおもそれよりそこに留まることになった人たちは少数派で、新しくできた「団地」へと入居したの人々の大半は大量のGastarbeiter、移民労働者とその家族だった。現在もそこの居住者の三割強は外国籍あるいは国外にルーツをもつ人たちで、そして、人口の四分の一は18歳以下だとか。</p>
<p>もちろん、これはこのRollbergだけのトレンドではないし、ノイケルン全体でも特に珍しいケースでもない。そもそもベルリンにおける「団地」とはそうした人々のために建てられたもの、あるいはうがった言い方をするならば、「収容」するために建設されたともいえる。こうした「団地」はベルリン、特に西ベルリンではベルリンの壁周辺の地域に大量に建造された。 </p>
<p>ところで、この&#8221;Flächensanierung&#8221;は、しかし、1970年代以降のヨーロッパの大都市でおこった社会運動を語る上でもキータームともいえることを指摘しておきたい。この再開発の名のもとの&#8221;Flächensanierung&#8221;は同時の西ベルリンでも計画されて、その結末の一端は<a href="http://g.co/maps/9ky7h" target="_blank">WeddingのBrunnenstr.沿い</a>(もちろん当時は壁沿い、現在も移民系人々が集中して住む「団地」ともいえる住宅街がある）や<a href="http://g.co/maps/ner9e" target="_blank">クロイツベルクはコトブス門Kottbusser Tor近辺</a>に見られる。</p>
<p>クロイツベルクに関していえば、Kottbusser Tor周辺、Skalitzer Str.沿いの界隈だけでなく、いわゆる<a href="http://de.wikipedia.org/wiki/Berlin_SO_36" target="_blank">SO36</a>というクロイツベルクの東側、シュプレー川とSkalitzerstr.の間の区域の大半が&#8221;Flächensanierung&#8221;の対象となったという。当時のその界隈もトルコ系のガストアルバイターとその家族や低所得者などが集中して住む界隈で、空き家も多く、その地区の家屋の大半の荒廃ぶりも極限をきわめていたというが、そうした家屋に移ってきたのがいわゆるHausbesetzter、つまりスクワッターなのである。その中にはアナーキストや68年世代なども多く含まれていただろうが、そういった&#8221;Flächensanierung&#8221;の対象となった区域（ベルリン以外ならばハンブルクのアルトナやザンクト・パウリといった地域など）が70年代以降の社会運動や文化活動の拠点となっていった。Hausbesetzung、家屋占拠あるいはスクワットはそういった行政による都市空間の均質化の企みとしての&#8221;Flächensanierung&#8221;へのプロテストという意味もあったといってもいいのだろうか。そんなこともあり、警察とパンク、アナーキスト、Antifa(アンチファシスト連合という極左）などが、近年まで、特に壁の崩壊後は東ベルリン中心部に舞台をうつして、自主自営による居住空間と文化活動の空間を求めて、絶え間なく衝突を繰り広げることになっていったのである。その名残は毎年5月1日のメーデーの日に垣間みることができる。ここ数年来すっかりストリートフェストのようになってしまったけれど・・・。</p>

<a href='http://luegenlernen.de/2012/05/14/rollberg-berlin-neukolln/imga-2/' title='IMGa'><img width="88" height="88" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMGa1-88x88.jpg" class="attachment-thumbnail" alt="IMGa" title="IMGa" /></a>
<a href='http://luegenlernen.de/2012/05/14/rollberg-berlin-neukolln/img_4605/' title='IMG_4605'><img width="88" height="88" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_4605-88x88.jpg" class="attachment-thumbnail" alt="IMG_4605" title="IMG_4605" /></a>
<a href='http://luegenlernen.de/2012/05/14/rollberg-berlin-neukolln/img_4628/' title='IMG_4628'><img width="88" height="88" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_4628-88x88.jpg" class="attachment-thumbnail" alt="IMG_4628" title="IMG_4628" /></a>

<p>ベルリンで「団地」（ドイツ語ではPlattenbausiedlung、あるいは&#8221;Die Platte&#8221;ともいうが）とは非常にネガティブな意味合いがつきまとうことが多いけれど、小生の目にはこの&#8221;Rollberg”も普通の団地だ。移民系の人たちも多く見える。</p>
<p>夕方時々、近くにあるかつてのテンペルホーフ空港の跡へと散歩に出かける時に側をよく通る。世間的にはProblemkiez、いわゆる犯罪や社会的な問題を多く抱える地域などといわれるが、この季節の夕方には広場で人々が談笑したりや建物と建物と間では子供たちがボールで遊び回っているのが見える。人の気配が全くしない時間帯も一方である。ただの通行人にはみえないものがあるだろう。それでも、無機質にも写るいわれるそんな団地の中にも普通の人々の普通の営みがあるのだけはわかる。</p>
<p>ここ二年程ベルリンのそういった団地といわれる界隈やその団地がある郊外をよく歩いて来たが、うわついたベルリン中心部を離れ、そうした場所に赴くと、なにがしらこの街の深い「襞」に触れられるような気がする。むしろ解消しきれない深い混乱か。いや、それはどこにでもある大都会の「襞」の深部なのではなかろうか。</p>
<p>そろそろそういった話もしたいと思う。それなりに普段見知ったものとは違ったベルリンの顔、あるいは他のヨーロッパあるいは世界中の大都会とそうはかわらないベルリンの顔が見えて来ることだろう。</p>
<p>というわけで又自戒。</p>
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		<title>ウクライナとポーランドへサッカーを見に行ってきたのだが。</title>
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		<pubDate>Mon, 14 May 2012 10:20:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
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		<category><![CDATA[ユーロ2012／ウクライナーポーランド]]></category>

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		<description><![CDATA[<img width="188" height="140" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0197a-188x140.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_0197a" title="IMG_0197a" />先週月曜ワルシャワより帰還。 Twitterなどでフォローしていただいている諸賢には御存知のことかもしれないが、4月の初頭からウクライナを約二週間、そして今回ポーランドを十日間旅していた。まもなく開催される「はず」のサッカーのヨーロッパ選手権、通称ユーロ2012、を控えた両国の直前を視察してきた。という聞こえ方はいいが、そもそも小生のような貧乏人にユーロなどという金持ちの為のお祭りを現地のスタジアムで堪能する余裕などはない。 チケットが高値の花なのは当然として(ウクライナでは聞いた所によると余りに余りまくっているらしいが、地元不在の大会運営のため、さもありなんというところ）、大会中高騰するのは確実とみられる当地の値段に見合わない宿泊施設に大金を投じる暇やひたすら同じ風景を眺めるだけの列車移動に費やす時間があったら、普段ならいくはずのないイタリアとかスペインでもいってうまい物を食べてビーチでゴロゴロしてもいいぐらいである。 それでも、中欧あるいは東ヨーロッパ研究に携わる身としては、ユーロを控えた、ここ十年ほどうんざりするほど訪ねてまわった両国が、どれぐらい変化をとげたか、それだけを目の当たりにするだけでも、両国に赴く価値ありというものでもある。それに、ユーロ本戦でなくとも、すでに完成している「はず」の大会が開催されるスタジアムで行われるリーグ戦ならば見ることもできる、その時期ならば、地元民であふれかえった（もしくはがらがらの）スタジアム、あるいはその周辺、サッカーにまつわる日常を粒さに観察することはできる、それもまた一興なれば、というのが当初の目論みであった。 けれどそれはいろんな意味で裏切られることにもなる。一方で様々なクリシェにも遭遇することにもなる。 これからしばらくその体験を思い起こす意味でも、それからこれからユーロを観戦に極東から遥々やってこられる諸賢への有益な情報を提供するという意味でも、しばらく小生の駄文におつきあいいただこうと思う。これをよんでいただいて、我も彼もとユーロ期間中に極東から異国への地へと諸賢が殺到されることになるのであれば、小生の目的は半ば達せられたともいえることになるだろう。 さて。今回の旅のルートをここでたどっておこう。 Going in Poland and Ukraine, shortly before EURO 2012 Poland &#38; Ukraine, April-May 2012 恐らくウクライナ二週間とポーランド十日間、合計での走破距離は6000㌔(グーグルマップのルートの単純な距離計算では約５５００㌔）を越えているのではなかろうか。地図をみていただければおわかりいただけると思うが、ひたすら移動に移動を強いられた旅だったともいえる（夜行バス一泊、夜行列車泊二泊）。だが、旅に移動はつきもの、それも醍醐味なのである。ウクライナでは、極東の我が祖国はいうまでもなく独逸とも比較のしようがないぐらいとは時の流れ方が違うのだ。 さて。時は4月3日、独逸はベルリン東駅、午後2時50分頃へと時計の針を戻すことにしよう。 そんなわけできりがいいところでまた自戒。ごーん。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<img width="188" height="140" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0197a-188x140.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_0197a" title="IMG_0197a" /><p></p><br /><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>先週月曜ワルシャワより帰還。</p>
<p>Twitterなどでフォローしていただいている諸賢には御存知のことかもしれないが、4月の初頭からウクライナを約二週間、そして今回ポーランドを十日間旅していた。まもなく開催される「はず」のサッカーのヨーロッパ選手権、通称ユーロ2012、を控えた両国の直前を視察してきた。という聞こえ方はいいが、そもそも小生のような貧乏人にユーロなどという金持ちの為のお祭りを現地のスタジアムで堪能する余裕などはない。<span id="more-253"></span></p>
<p>チケットが高値の花なのは当然として(ウクライナでは聞いた所によると余りに余りまくっているらしいが、地元不在の大会運営のため、さもありなんというところ）、大会中高騰するのは確実とみられる当地の値段に見合わない宿泊施設に大金を投じる暇やひたすら同じ風景を眺めるだけの列車移動に費やす時間があったら、普段ならいくはずのないイタリアとかスペインでもいってうまい物を食べてビーチでゴロゴロしてもいいぐらいである。</p>
<p>それでも、中欧あるいは東ヨーロッパ研究に携わる身としては、ユーロを控えた、ここ十年ほどうんざりするほど訪ねてまわった両国が、どれぐらい変化をとげたか、それだけを目の当たりにするだけでも、両国に赴く価値ありというものでもある。それに、ユーロ本戦でなくとも、すでに完成している「はず」の大会が開催されるスタジアムで行われるリーグ戦ならば見ることもできる、その時期ならば、地元民であふれかえった（もしくはがらがらの）スタジアム、あるいはその周辺、サッカーにまつわる日常を粒さに観察することはできる、それもまた一興なれば、というのが当初の目論みであった。</p>
<p>けれどそれはいろんな意味で裏切られることにもなる。一方で様々なクリシェにも遭遇することにもなる。</p>
<p>これからしばらくその体験を思い起こす意味でも、それからこれからユーロを観戦に極東から遥々やってこられる諸賢への有益な情報を提供するという意味でも、しばらく小生の駄文におつきあいいただこうと思う。これをよんでいただいて、我も彼もとユーロ期間中に極東から異国への地へと諸賢が殺到されることになるのであれば、小生の目的は半ば達せられたともいえることになるだろう。</p>
<p>さて。今回の旅のルートをここでたどっておこう。</p>
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<p>恐らくウクライナ二週間とポーランド十日間、合計での走破距離は6000㌔(グーグルマップのルートの単純な距離計算では約５５００㌔）を越えているのではなかろうか。地図をみていただければおわかりいただけると思うが、ひたすら移動に移動を強いられた旅だったともいえる（夜行バス一泊、夜行列車泊二泊）。だが、旅に移動はつきもの、それも醍醐味なのである。ウクライナでは、極東の我が祖国はいうまでもなく独逸とも比較のしようがないぐらいとは時の流れ方が違うのだ。</p>
<p>さて。時は4月3日、独逸はベルリン東駅、午後2時50分頃へと時計の針を戻すことにしよう。</p>
<p>そんなわけできりがいいところでまた自戒。ごーん。</p>
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