記憶という往生際の悪さについて・・・Teplice v Čechách, Czech Republic, December 2011

記憶という往生際の悪さについて・・・Teplice v Čechách, Czech Republic, December 2011

人間の記憶などたかが知れている。知れているがゆえに、それを往生際悪くその消え去りかたをあらゆる算段を用いて引き止めようとする。時間の経過とともにあせていく、自分の脳裏から消え失せていくその様こそが、記憶そのものの絶対条件なのだから。僕らは、そうしたいかにしても揺るぎ難い前提に抗しながら、なんとか上から下から左から右から、なんとか引き止めようとする。

ビールを飲みに駅にいこう。プラハ・デイヴィツェ駅、2015年5月14日。

ビールを飲みに駅にいこう。プラハ・デイヴィツェ駅、2015年5月14日。

チェコの駅ナカ飲み屋は小生のチェコにおける最大のツボの一つである。 駅とは、内田百閒がかつてのたまったように、「なんにも用事はないけれど、列車に乗つてどつかへいつてこよおとおふ」というように、用事があるにしろないにしろ、列車に乗ってどこかへ旅立つ場所でもあり、かつて小生が幼きころそうであったように、列車を見にいくような場所であり、カメラとヘビーな三脚を抱え方々を飛び回る鉄男にとっては聖地も同然の場所である。 ところが、この国には、駅に「飲み」にいく、という、極東の我が祖国にはまず存在しない言い回しが存在する。そのような言い回しが存在するぐらい、この国の駅という駅には、飲み屋が、鉄道の駅のあるところ必ずといってほど存在する。

Praha-Dejvice, Czech Republic, 14.5.2015

Praha-Dejvice, Czech Republic, 14.5.2015

 

京都・東山今熊野、2012年11月、並びにベルリン、2013年2月。

京都・東山今熊野、2012年11月、並びにベルリン、2013年2月。

この地にはらまれしもの、 この地に生をうけるもの、 この地で地の祝福をうけ、 この地の灰となりし塵となれる、 汝と我のこと。 この地にありしものが、 そこに在る過程へと、 やがては地に朽ち果て、 再び塵と化し灰となり、 滅び行く姿を捉える、 容赦ない観察者。 その姿を捉えるはその一瞬一瞬である齣にすぎない。

Bio-Oko, プラハ・ホレショビチェ、2014年2月23日

Bio-Oko, プラハ・ホレショビチェ、2014年2月23日

ベルリン映画祭などで滞在が思いのほか長引いて3週間の長きにおよび, プラハ帰還はついこの日曜日の正午ごろにずれ込んででしまった。 家に帰れば、マヌケチェック同居人が3週間の間まるで家の掃除をした形跡もなく、 小生の部屋のベットではあの雌犬が昼寝をしていたらしく、ベットは犬の毛まみれという大惨事。 帰宅の午後中を家の掃除に費やすはめに。

プラハの飲み屋の一人で佇む親父列伝Ⅱ。プラハ・ホレショヴィッツェ。2013年11月8日。

プラハの飲み屋の一人で佇む親父列伝Ⅱ。プラハ・ホレショヴィッツェ。2013年11月8日。

プラハの北の下町はホレショヴィッツェにある小生が昨今最も愛するチェコ飲み屋でのことだ。 前回紹介した半ズボン親父の隣には必ずといっていいほどいる親父の一人である。 タバコを燻らせ数独をひとりで繰り広げる親父のそばには手書きの伝票が。 そこにはすでに6つほどの縦線がひいてあるのみ。 これは大ジョッキ6杯飲んだという意味である。ジョッキが親父のそばに置かれるごとに、バーの親父がサクッと一本縦線をひいてゆく。 そして、勘定のときに、バーの親父がこれをみて清算する仕組みなのだ。   と思っていたらば、親父のそばに誰かが座ったのである。友人なのか、飲み屋仲間か。ただの相席か。 それにしても、一人で待つ間に6杯は飲むのだろうか。 なんで今度こそは親父と対決、そしてまた自戒。

プラハの飲み屋の一人で佇む親父列伝。プラハ・ホレショヴィッツェ。2013年11月1日。

プラハの飲み屋の一人で佇む親父列伝。プラハ・ホレショヴィッツェ。2013年11月1日。

プラハの飲み屋にいけば必ずいる親父。 彼らは例外なく一人で佇む。一杯のビールを一時間かけて飲む。そして、何時間もそこにいる。 けれど、誰もなにもいわない。バーマンにとっても彼の存在があまりにも日常すぎるのだろう。 そんな親父はそこに座る間、身じろぎもしない。

郊外へ。ベルリン・ブリッツ。2010年6月。

郊外へ。ベルリン・ブリッツ。2010年6月。

小生がいつも逍遥するような、郊外の風景というのは、一見、人工的で無味乾燥としているかもしれない。 その郊外という言葉が生まれたのはいつのころなのだろうか。都市が飽和状態になり、街が外へ外へ拡大していった時代だろう。日本では、20世紀になってからだろうか。文学者でいえば、佐藤春夫であったり、国木田独歩といったり、太宰治などが、いわゆる最初の東京の郊外の文学者たちであったといえるし、彼らの作品からは東京の西の郊外は、武蔵野の乾燥した砂埃の舞う光景が容易に思い起こされる。太宰治の小説は時々、宅地化が進み始めた東京の西の郊外などが舞台である。といっても、いまとは比較の仕様がないほど、森や田畑に満ちた風景だったのだろうけれど。 21世紀初頭の我々にとっては、もはや、郊外、そして、その郊外にあるような団地とは、20世紀を代表する文化的トポスとして、様々な文学や芸術作品のインスピレーションの源となっている。郊外をテーマにした漫画も多い。とはいえ、そんな漫画と小生にとっての対象aである郊外の風景とはまた同じようで異なるのかもしれない。自分自身、いまだ、よくわからない。

大阪市此花区西九条近辺、2013年1月。

大阪市此花区西九条近辺、2013年1月。

やれやれ。秋も深まって参り夜長となるこの頃。 プラハも、恐らくベルリンも、秋の色濃く、街路樹は段々とその葉の色をかえて、それはやがて自らを落ち葉に埋もれさせていく、そんな季節になってきた。 街の空気も段々肌を冷たくさするようなこんなとき思い出すのは、かつて日本にいた頃、どこかの河川敷あたりで見た光景。 小生も東京に4年間おりしおり、一年半を東京の北は赤羽、二年半を武蔵野は府中で過ごした。 その赤羽にいたころ、年中を通して、よく夕暮れ頃、散歩がてら赴いたのがすぐそばを流れる荒川だった。秋も深まる季節、日がとっぷりくれた時間、河川敷を歩いて目の当たりにするのは、鉄橋に、それを通り過ぎる京浜東北線。その横をまたぐ自動車橋の上を家路へと急ぐる自転車の影。そこへ橋の鉄筋が夕闇へと解けてゆく。