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	<title>Lügenlernen &#187; ポーランド</title>
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	<description>人間万事塞翁が馬</description>
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		<title>ポーランドへはまた。</title>
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		<pubDate>Tue, 26 Jul 2011 21:56:35 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[チェコ]]></category>
		<category><![CDATA[ポーランド]]></category>

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		<description><![CDATA[プラハ中央駅、2010年12月26日夕方。 13年前にはじめてプラハからポーランドへ向かった列車の中はとてつもなく暑かった、と記憶している。 プラハからヴロツワフへ向かう列車の中。ハンガリーからスロヴァキアを経て、プラハにやってきた小生は当時、夜のプラハを夢遊病者のようにさすらう。あの夏の夜のプラハは日本の夏の夜を思い起こさせるぐらい湿っていたと記憶している。すでに９０年代の末だったか。 ここ二年程、ベルリンとプラハの間を行き来するような生活になり、プラハもかつて10年以上前に訪れた時のような目眩がしたような小道の連続する旧市街やマラーストラナーに滅多に足が向かなくなってからもう久しい。それでも、あの時のプラハの小道にまとわりつくような湿気と夜の温みはまだ小生の体が記憶している。 4週間前にプラハにいたおりの天気は不安定で、雨が降ってはやみ、夏の太陽が照りつけるという、気温の上がり下がりはともかく、時折降り募る雨のせいでとにかく湿気だけはもの凄い一週間だった。日が暮れた午後１０時でもプラハ中心部は汗ばむような湿った空気で、家の中は蒸し風呂状態とはいわないまでも、気温の割には過ごしづらい夜が続いた。 そんなときには城に登る。小生がいつも滞在する友人宅はスミーホフとマラーストラナーの境目付近。プラハ城の上へ向かうマラーストラーナーの城へ向かう小道では10時を過ぎれば殆ど誰とも出会わない。城の上に上がって初めて誰かに出会う。城に上がったころにはまた小雨がぱらつき出し、また家へと向かって階段を下っていく。 これがプラハにいる時の、誰もが知っているプラハとの、小生なりの付き合い方だ。しかし、それでも、初めて夜のプラハの小道を夢遊病者のように歩いた時に覚えたあの湿ったまとわりつくような空気の重みは、この時は思い出すにはいたらなかった。 さて。 ３週間前の金曜日の朝は曇り空だったか。次の週の月曜にベルリンでの用事に会わせて早々にプラハ滞在を切り上げて家路につくことにしたのは、今が観光客であふれ帰ったプラハの喧噪が面倒になったからか。それでも、なんとなしにベルリンに直接帰る気にもならず。中央駅へ向かうトラムの中でも決心はつかず、結局中央駅まで結論は持ち越されることに。 ヴロツワフ経由、ベルリン。 これは90年代末小生がポーランドをはじめて訪れた時、かつベルリンを初めて訪れた時のルートでもある。 結局、出発まで15分に迫っていたベルリン行きのユーロシティに乗るのはやめ、プラハから東に向かう列車に文字通り飛び乗った。列車は小生が飛び乗り扉を手動でしめるとゆっくりと動き出した。その時点ではじめて、昨今のチェコにしてはやけに古風な車両であることに気がついた。 一時間程してパルドゥビチェでモラヴィア方面に行く列車を降り、クウォズコ行きの列車に乗り換える。 かつてはヴロツワフ行きの直通列車があったはず、プラハ中央駅の、いまやドイツの駅のように明るく見通しのよいオープンカウンターになったインフォメーションで、小生はそう尋ねた。それに答えるインフォメーションのおばさんは、昔はと、答えた。けれど、行くのは面倒ではないから、と時刻表と接続をプリントアウトして、プリントアウトした時刻表を見ながら説明してくれるサービスぶり。時代は変わったもの。 そもそも、そのヴロツワフに向かう列車だって、誰に聞いても、しらない、そんな列車はない、と窓口をたらい回しにされ、当時チェコ語はいうにおよばずドイツ語もままならなかった小生は、やっとの思いで駅の中にある筒状の時刻表と小一時間格闘して、ようやくヴロツワフ行きの直通列車の時間を突き止めたのだった。確か、朝７時前出発だった、と記憶している。 ところが今回探そうとして見つからなかった筒状の時刻表。筒状の時刻表があったであろうところには、タッチパネル式の端末がおいてあるという変貌ぶり。アナログさが懐かしいのは小生だけだろうか。 パルドゥビチェから乗ったクウォズコ行きの列車は込み合っていた。バックパックを廊下において、全開になった窓の外へ向きながらビール瓶を傾け談笑する若者たちの一群もあり。雨が時折ぱらつきつつも、晴れ間も見える奇妙な天気であったが、天下のチェコビールを飲むのに天気など関係ない。チェコをしばらく、といっても一ヶ月程度だろうけれど、ご無沙汰になるというのに、プラハを出る前日にビールを一杯も飲んでいないのに気がついた。 その一群も、国境が近づき、山間を走るようになると、一つまた一つと降りてゆき、結局国境のリヒコフにたどり着くころには車内には空いているコンパートメントが目につくようになってきた。しばらく国境の駅に停車しているうちに、車内はあっという間に暗闇を覆れはじめた。なにごとか、と廊下の窓から顔を出すと、あっという間の雷雨。駅員が小生の顔を出すその下を雨にうたれながら走り行く。そして雨の中を列車はゆっくり歩みだす。 またしても雨だ。 ポーランドに行くとすると必ずに雨になる、記憶にある限り。 いや、13年前にたどったはずのこのルートではうだる程の暑さだった。けれど、うだるような暑さであったことはいつもなかった、小生の記憶の中でのこの国の風景は。 ともあれ、まだポーランドにはたどりついていない、その中途だった。列車は雨にぬれた野原の只中を右へ左へと揺れながら走る。 小生のいるコンパートメントの中にはポーランド語の本をめくる初老の男性とロシア語の本をめくるリュックザックを傍らに置いた青年がいる。雨はいつのまにか上がっていた。しかし、国境地帯を走る列車の車窓からは雨雲たれ込める黒い空のみ見える。この車窓と湿った大地と森の間を走る列車には黙々と本のページを繰る乗客が似合っている。 忙しないのは13年ぶりにこの路を行く小生だけか。それ以外はなにもかもがそのままなのだろう。 いつのまにか列車は駅に止まっっていた。ホームにはただMiędzylesieとあった。森の只中という名の駅。ということは、そこはもうポーランドだった。 ホームに降りる。雨上がりの後の肌寒さ。13年ぶり戻ってきたこの駅のホームにたってもなんの感傷もなかった。その場にたっても、13年前のことなど結局何も思い出せはしなかった。 今思い出せるのは４週間前にホームに降り立った時のその湿った肌寒さ、只其れだけ。 これが意外にも今年はじめてのポーランド帰還であった。何度もいうが、ベルリンからポーランドまではただの100キロも離れていない。 それに引き比べプラハは遠い。ポーランドへは行こうと思えばベルリンから毎日でもいける距離であるのに。 ではまた自戒。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p><strong>プラハ中央駅、2010年12月26日夕方。</strong></p>
<p><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/07/IMG_0018.jpg"><img class="alignnone size-medium wp-image-189" title="Prague Central Station, 25. December 2010" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/07/IMG_0018-300x203.jpg" alt="" width="300" height="203" /></a></p>
<p>13年前にはじめてプラハからポーランドへ向かった列車の中はとてつもなく暑かった、と記憶している。</p>
<p>プラハからヴロツワフへ向かう列車の中。ハンガリーからスロヴァキアを経て、プラハにやってきた小生は当時、夜のプラハを夢遊病者のようにさすらう。あの夏の夜のプラハは日本の夏の夜を思い起こさせるぐらい湿っていたと記憶している。すでに９０年代の末だったか。</p>
<p>ここ二年程、ベルリンとプラハの間を行き来するような生活になり、プラハもかつて10年以上前に訪れた時のような目眩がしたような小道の連続する旧市街やマラーストラナーに滅多に足が向かなくなってからもう久しい。それでも、あの時のプラハの小道にまとわりつくような湿気と夜の温みはまだ小生の体が記憶している。<span id="more-182"></span></p>
<p>4週間前にプラハにいたおりの天気は不安定で、雨が降ってはやみ、夏の太陽が照りつけるという、気温の上がり下がりはともかく、時折降り募る雨のせいでとにかく湿気だけはもの凄い一週間だった。日が暮れた午後１０時でもプラハ中心部は汗ばむような湿った空気で、家の中は蒸し風呂状態とはいわないまでも、気温の割には過ごしづらい夜が続いた。</p>
<p>そんなときには城に登る。小生がいつも滞在する友人宅はスミーホフとマラーストラナーの境目付近。プラハ城の上へ向かうマラーストラーナーの城へ向かう小道では10時を過ぎれば殆ど誰とも出会わない。城の上に上がって初めて誰かに出会う。城に上がったころにはまた小雨がぱらつき出し、また家へと向かって階段を下っていく。</p>
<p>これがプラハにいる時の、誰もが知っているプラハとの、小生なりの付き合い方だ。しかし、それでも、初めて夜のプラハの小道を夢遊病者のように歩いた時に覚えたあの湿ったまとわりつくような空気の重みは、この時は思い出すにはいたらなかった。</p>
<p>さて。 ３週間前の金曜日の朝は曇り空だったか。次の週の月曜にベルリンでの用事に会わせて早々にプラハ滞在を切り上げて家路につくことにしたのは、今が観光客であふれ帰ったプラハの喧噪が面倒になったからか。それでも、なんとなしにベルリンに直接帰る気にもならず。中央駅へ向かうトラムの中でも決心はつかず、結局中央駅まで結論は持ち越されることに。</p>
<p>ヴロツワフ経由、ベルリン。</p>
<p>これは90年代末小生がポーランドをはじめて訪れた時、かつベルリンを初めて訪れた時のルートでもある。</p>
<p>結局、出発まで15分に迫っていたベルリン行きのユーロシティに乗るのはやめ、プラハから東に向かう列車に文字通り飛び乗った。列車は小生が飛び乗り扉を手動でしめるとゆっくりと動き出した。その時点ではじめて、昨今のチェコにしてはやけに古風な車両であることに気がついた。</p>
<p>一時間程してパルドゥビチェでモラヴィア方面に行く列車を降り、クウォズコ行きの列車に乗り換える。</p>
<p>かつてはヴロツワフ行きの直通列車があったはず、プラハ中央駅の、いまやドイツの駅のように明るく見通しのよいオープンカウンターになったインフォメーションで、小生はそう尋ねた。それに答えるインフォメーションのおばさんは、昔はと、答えた。けれど、行くのは面倒ではないから、と時刻表と接続をプリントアウトして、プリントアウトした時刻表を見ながら説明してくれるサービスぶり。時代は変わったもの。</p>
<p>そもそも、そのヴロツワフに向かう列車だって、誰に聞いても、しらない、そんな列車はない、と窓口をたらい回しにされ、当時チェコ語はいうにおよばずドイツ語もままならなかった小生は、やっとの思いで駅の中にある筒状の時刻表と小一時間格闘して、ようやくヴロツワフ行きの直通列車の時間を突き止めたのだった。確か、朝７時前出発だった、と記憶している。</p>
<p>ところが今回探そうとして見つからなかった筒状の時刻表。筒状の時刻表があったであろうところには、タッチパネル式の端末がおいてあるという変貌ぶり。アナログさが懐かしいのは小生だけだろうか。</p>
<p>パルドゥビチェから乗ったクウォズコ行きの列車は込み合っていた。バックパックを廊下において、全開になった窓の外へ向きながらビール瓶を傾け談笑する若者たちの一群もあり。雨が時折ぱらつきつつも、晴れ間も見える奇妙な天気であったが、天下のチェコビールを飲むのに天気など関係ない。チェコをしばらく、といっても一ヶ月程度だろうけれど、ご無沙汰になるというのに、プラハを出る前日にビールを一杯も飲んでいないのに気がついた。</p>
<p>その一群も、国境が近づき、山間を走るようになると、一つまた一つと降りてゆき、結局国境のリヒコフにたどり着くころには車内には空いているコンパートメントが目につくようになってきた。しばらく国境の駅に停車しているうちに、車内はあっという間に暗闇を覆れはじめた。なにごとか、と廊下の窓から顔を出すと、あっという間の雷雨。駅員が小生の顔を出すその下を雨にうたれながら走り行く。そして雨の中を列車はゆっくり歩みだす。</p>
<p>またしても雨だ。</p>
<p>ポーランドに行くとすると必ずに雨になる、記憶にある限り。</p>
<p>いや、13年前にたどったはずのこのルートではうだる程の暑さだった。けれど、うだるような暑さであったことはいつもなかった、小生の記憶の中でのこの国の風景は。</p>
<p>ともあれ、まだポーランドにはたどりついていない、その中途だった。列車は雨にぬれた野原の只中を右へ左へと揺れながら走る。</p>
<p>小生のいるコンパートメントの中にはポーランド語の本をめくる初老の男性とロシア語の本をめくるリュックザックを傍らに置いた青年がいる。雨はいつのまにか上がっていた。しかし、国境地帯を走る列車の車窓からは雨雲たれ込める黒い空のみ見える。この車窓と湿った大地と森の間を走る列車には黙々と本のページを繰る乗客が似合っている。</p>
<p>忙しないのは13年ぶりにこの路を行く小生だけか。それ以外はなにもかもがそのままなのだろう。</p>
<p>いつのまにか列車は駅に止まっっていた。ホームにはただ<strong>Międzylesie</strong>とあった。森の只中という名の駅。ということは、そこはもうポーランドだった。</p>
<p>ホームに降りる。雨上がりの後の肌寒さ。13年ぶり戻ってきたこの駅のホームにたってもなんの感傷もなかった。その場にたっても、13年前のことなど結局何も思い出せはしなかった。</p>
<p>今思い出せるのは４週間前にホームに降り立った時のその湿った肌寒さ、只其れだけ。</p>
<p>これが意外にも今年はじめてのポーランド帰還であった。何度もいうが、ベルリンからポーランドまではただの100キロも離れていない。</p>
<p>それに引き比べプラハは遠い。ポーランドへは行こうと思えばベルリンから毎日でもいける距離であるのに。</p>
<p>ではまた自戒。</p>
<div class="shr-publisher-182"></div><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetBottom Automatic --><div style="clear: both; min-height: 1px; height: 3px; width: 100%;"></div><div class='shareaholic-like-buttonset' style='float:none;height:30px;'><a class='shareaholic-fblike' data-shr_layout='button_count' data-shr_showfaces='false' data-shr_href='http%3A%2F%2Fluegenlernen.de%2F2011%2F07%2F26%2F%25e3%2583%259d%25e3%2583%25bc%25e3%2583%25a9%25e3%2583%25b3%25e3%2583%2589%25e3%2581%25b8%25e3%2581%25af%25e3%2581%25be%25e3%2581%259f%25e3%2580%2582%2F' data-shr_title='%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%B8%E3%81%AF%E3%81%BE%E3%81%9F%E3%80%82'></a><a class='shareaholic-fbsend' data-shr_href='http%3A%2F%2Fluegenlernen.de%2F2011%2F07%2F26%2F%25e3%2583%259d%25e3%2583%25bc%25e3%2583%25a9%25e3%2583%25b3%25e3%2583%2589%25e3%2581%25b8%25e3%2581%25af%25e3%2581%25be%25e3%2581%259f%25e3%2580%2582%2F'></a><a class='shareaholic-googleplusone' data-shr_size='medium' data-shr_count='false' data-shr_href='http%3A%2F%2Fluegenlernen.de%2F2011%2F07%2F26%2F%25e3%2583%259d%25e3%2583%25bc%25e3%2583%25a9%25e3%2583%25b3%25e3%2583%2589%25e3%2581%25b8%25e3%2581%25af%25e3%2581%25be%25e3%2581%259f%25e3%2580%2582%2F' data-shr_title='%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%B8%E3%81%AF%E3%81%BE%E3%81%9F%E3%80%82'></a></div><div style="clear: both; min-height: 1px; height: 3px; width: 100%;"></div><!-- End Shareaholic LikeButtonSetBottom Automatic -->]]></content:encoded>
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		<title>ター、ター。</title>
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		<pubDate>Sun, 03 Jul 2011 19:47:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
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		<category><![CDATA[ポーランド]]></category>

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		<description><![CDATA[さて。夏はいったいどこへいってしまったか、という天気だけれど、突如雨のガリチアから初夏のガリチアへ、記憶は飛ぶ飛ぶ。ベルリンは現在午後９時半で、小雨、17度か。肌寒い。今年の夏はめためたに暑いところにいってもいいのでは、と思ったりもしている。というとどこだ、アラビア半島か、それともアフリカか、中央アジアか。さて。（以下昨年８月アップのログ） ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ ダー，ダー。 ベルリンでもこのダー、ダーを良く耳にはしないだろうか。ダー、ダー、と大きな声が聞こえてきた先にいるのは、たいてい、大声で携帯電話にむかって喋りかけるロシア人。 ターク、ターク。 ベルリンでは、このターク、ターク、もよく耳にする。その先にいるのは、ポーランド人。ロシア人に負けず劣らず、声も図体もでかいし、同国人と集団 行動することが大好きなゆえ、彼らもよく目立つ。その上通称ポラーケ（独逸人のポーランド人に対する蔑称、チェコ語やポーランド語ではポラークという）にカテゴライズされる人々は独特の威風をほこる。 彼らはトルコ人やヴェトナム人とならんでベルリンの4大マイノリティーを形成している。この彼らのダー、ダーとターク、タークを耳にしない日はないぐらいだ。 このダー、ダーとターク、タークの二カ国にはさまれてあるウクライナでは、特に西ウクライナ、ガリチアとよばれている地方では少し異なる。 ター、ター。 先日ショークヴァを訪ねた日のことを書いたけれど、今回はその次の週の話。 暗く雨にぬれた春が始まりかけたガリチアから初夏のクリミアへ。そして、そのクリミアからまたしてもガリチアへ帰還。ショークヴァでの曇り空から一転、一週間後のガリチアの空には雲一つなかった。照りつけるような日差し。ガリチアの夏はかくもきびしいのかと思わせるような初夏の雰囲気ただよう一日。古くはサッハー・マソッホ、そして20世紀にはいってはヨーゼフ・ロートやブルーノ・シュルツ。彼らの描くガリチアは、曇り空の下の湿った隙間だらけの穴ぼこだらけの石畳の路地よりも、ぎらぎらと照りつける太陽とその下でひからびた埃まみれた大地を真っ先に思い起こさせる。 そのロートの生まれ故郷であるブロディへ小生は向かっていた。リヴィウから北東に約80㌔程の道程。 リヴィウからブロディへ向かう中型のマルシュルートゥカは毎度のことながら満員で、車内はあっという間にうだるような暑さになった。4月でこれほど暑さならば、夏はどれほど暑くなるのだ、と思わせるほどだった。クーラーなど、もちろん、ある場所は限られている。 ブロディは、ロートが1920年代にフランクフルター・ツァイトゥングに寄稿した「ガリチアを旅して Reise durch Galizien」に記した通りの憂鬱な軒の低い建物が連なる街並み、ユダヤ人が人口の多数を占めるかつてシュテーテルとよばれていたような典型的な田舎街だった。町並みは正直いって美しくもないし、そして、ロートが何度も強調していたように、なんの特徴もない。これで雲が低くたれ込め雨が降りしきれば 憂鬱この上なかろう。ロートにまつわる痕跡をこの街に期待していた小生は良くも悪くも予期していた通りの軒の低い建物が並ぶ、やはり埃にまみれた通りをくぐり抜けながら、過去100年にこの街でどれほどの変化があったのだろう、と想像した。 よくも悪くも期待していていたようなガリチアのシュテーテルの憂鬱を充分に感じることができたが。 この旅ではガリチア出身の作家、特にロートやシュルツの生まれ故郷訪問がテーマの一つだったのだけれど、よくも悪くも観光という言葉とはまるで縁がない中欧の東の果て、あるいはヨーロッパが果ててアジアがはじまるともいえるような地域を旅しながら、これから先、十年先、どれほどの変化がもたらされるのだろうと思う。 変化はあったのかもしれない。 けれど。ベルリンからやってきた日本人にとってはそこは地の果てでもあった。もちろんガリチアから広大なユーラシア大陸がはじまるといってもよいのだけれど。インゲボルク・バッハマンだったか、ドナウ川の向こう側からサルマチアが、そしてアジアが始まるといったのは。その伝説の国サルマチアがあったのは、そもそも現在でいうガリチアのあたりといわれている。 ブローディではその街の規模と比して、かなり大きなシナゴーグの廃墟に出くわした。シュルツの故郷であり、彼がナチによって突如路上でその命を奪われるまでの50年にも満たない一生の殆どを過ごしたドロホヴィツィにも巨大なシナゴーグの廃墟があった。どちらも街の只中にあるにもかかわらず、誰にも顧みられることもなく、静かに自然に帰ろうとしていた。 ロートとシュルツの故郷を尋ねた日は折しも４月にしては夏を思わせる日差しが照りつけていた。雨が降りしきるより遥かにまし。もちろん、ガリチアとメランコリー、そういった小生のステレオタイプとはまるで違った日差し。 そんな初夏のブローディを後にして、小生は再びリヴィウへと向かうマルシュルートゥカの車上にあった。リヴィウから10分ほど車をはしらせて左手の丘に大きな城を思わせる建物が目にはいった。すでにブロディへの途上その城を目にしていた。 ピドヒルツィ、とバスの停留所にあった。その停留所に止まったバスから迷わず飛び降りた。停留場のある道の左右両側は満開になった菜の花に包まれていた。その城のある丘のある方にむかって畑の間の小道を歩き出した。 あいもかわらず初夏の日差しは厳しかった。それでも、雲一つなく晴れ渡ったガリチアの初夏の大地を歩む足は軽く、その美しい風景を楽しみながら、いつしか城がある丘の下の小さな村にたどり着いた。 ふと小生は直観から道を左にとったが、いつのまにかコルホーズらしき農場の中に入ってしまった。ふと横をみると、コルホーズの従業員と思しき兄貴が小生をみている。とっさに、城へは、と訪ねる。すると、兄貴は反対側の出口をでて左だ。まっすぐだ。簡単だ。まちがえんな。という。 しかし、コルホーズをでて東側へ向かう道は確かに丘の上に向かうようではあったけれど、実際は穴ぼこでだらけですぐ先からは薮の中でとても道とよべ るようなものではない。しばし、左右を見渡すと、側にある家の庭には大勢人が見える。庭でパーティーでもやっているようだった。道を尋ねるべくそちらのほうに足をむけようとすると、すると、背後から車が一台やってきて小生の背後でとまる。そのドライバーの若い兄貴に道を訪ねるが要領をえない。城はたしかにもう真上に見えるのだが。 ここで女の子達をまってるんだがね、城のほうからくるはずだから、この道で間違いないはずなんだけどさ、とかいう。その兄貴が喋っていたのはウクライナ語ではなくてロシア語だった。 そうこうするうちに庭にいた一人が小生たちに気がついてこちらへ向かってきて、あんちゃんたち、城へいきたいのか。だったら、もどって、コルホーズの向こうにある道が城の正面へ通じとるぎゃ、と。 しかし、そんな遠回りをするのか、といぶかしんだ小生は、いやいや、城に上がるのは僕だけで、この道歩いて城にいけますんかいな、と尋ねると、ほんだらこの道ずっとあがっていくだけだぎゃ、という。prjama（ロシア語でまっすぐ）でんなと、いう小生に対して、おっさんは、そうだぎゃ、 prosto(ウクライナ語とポーランド語でまっすぐ？）だぎゃ、という。 ロシア語とウクライナ語の短いやりとりを経て、小生は城に向かう坂道へととりかかる。穴ぼこだらけで道の勾配は険しい。 すると目の前から背の高いブロンドの女性が鶏のようにひょこひょこと小刻みに足を前に運びながら道をくだってくるのが見えた。ものすごい高いハイヒールをはいているのが遠目にもわかった。 ウクライナ美女とハイヒール。クリシェともいえる組み合わせ。 とはいえ、正面から歩いてくるのはものすごい美女だった。ウクライナでもこのガリチア近辺でしかみかけない。正直なところ西ヨーロッパではほぼお目にかかることはないスタイルと美貌が完璧な形でそろった女性が高い割合でこのガリチアにはいるような気がする。独逸人などとは比べ物にならぬ。 ガリチアはヨーロッパでも指折りの美男美女の地なのかもしれないと思う時がある。 マゾヒズムの語源となった独逸語作家のレオポルド・サッハー・マソッホもガリチアの首都リヴィウの生まれだ。その彼もカルパチアの山の麓のガリチアは絶世の美女を産する地とあちこちで書いている。そんな彼が「毛皮を着たヴィーナス」をはじめとした、ガリチアの美女をテーマにした哲学的（！）妄想小説 の数々を書いたのもさもあらん、と納得するぐらいの美女が時々やはりこの地にはいるのかもしれない。 すれ違い際、城へいくにはこの道で間違いないね、と小生は尋ねる。するとすれ違い際の美女は顔をあげて小生を見て微笑みながらこう言う。 ター、ター。 あの「ター、ター」を今頭の中で反芻しながら、あれは天使が小生の際を通り過ぎた一瞬のささやきではないか、と今でも思うことがある。 ではまた自戒。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/07/IMG_0016.jpg"><img class="alignnone size-medium wp-image-167" title="Pidhirtskij Zamek, Ukraine" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/07/IMG_0016-300x193.jpg" alt="" width="300" height="193" /></a></p>
<p>さて。夏はいったいどこへいってしまったか、という天気だけれど、突如雨のガリチアから初夏のガリチアへ、記憶は飛ぶ飛ぶ。ベルリンは現在午後９時半で、小雨、17度か。肌寒い。今年の夏はめためたに暑いところにいってもいいのでは、と思ったりもしている。というとどこだ、アラビア半島か、それともアフリカか、中央アジアか。さて。（以下昨年８月アップのログ）<span id="more-28"></span></p>
<p>＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊</p>
<p>ダー，ダー。</p>
<p>ベルリンでもこのダー、ダーを良く耳にはしないだろうか。ダー、ダー、と大きな声が聞こえてきた先にいるのは、たいてい、大声で携帯電話にむかって喋りかけるロシア人。</p>
<p>ターク、ターク。</p>
<p>ベルリンでは、このターク、ターク、もよく耳にする。その先にいるのは、ポーランド人。ロシア人に負けず劣らず、声も図体もでかいし、同国人と集団 行動することが大好きなゆえ、彼らもよく目立つ。その上通称ポラーケ（独逸人のポーランド人に対する蔑称、チェコ語やポーランド語ではポラークという）にカテゴライズされる人々は独特の威風をほこる。</p>
<p>彼らはトルコ人やヴェトナム人とならんでベルリンの4大マイノリティーを形成している。この彼らのダー、ダーとターク、タークを耳にしない日はないぐらいだ。</p>
<p>このダー、ダーとターク、タークの二カ国にはさまれてあるウクライナでは、特に西ウクライナ、ガリチアとよばれている地方では少し異なる。</p>
<p>ター、ター。</p>
<p>先日ショークヴァを訪ねた日のことを書いたけれど、今回はその次の週の話。</p>
<p>暗く雨にぬれた春が始まりかけたガリチアから初夏のクリミアへ。そして、そのクリミアからまたしてもガリチアへ帰還。ショークヴァでの曇り空から一転、一週間後のガリチアの空には雲一つなかった。照りつけるような日差し。ガリチアの夏はかくもきびしいのかと思わせるような初夏の雰囲気ただよう一日。古くはサッハー・マソッホ、そして20世紀にはいってはヨーゼフ・ロートやブルーノ・シュルツ。彼らの描くガリチアは、曇り空の下の湿った隙間だらけの穴ぼこだらけの石畳の路地よりも、ぎらぎらと照りつける太陽とその下でひからびた埃まみれた大地を真っ先に思い起こさせる。</p>
<p>そのロートの生まれ故郷であるブロディへ小生は向かっていた。リヴィウから北東に約80㌔程の道程。</p>
<p>リヴィウからブロディへ向かう中型のマルシュルートゥカは毎度のことながら満員で、車内はあっという間にうだるような暑さになった。4月でこれほど暑さならば、夏はどれほど暑くなるのだ、と思わせるほどだった。クーラーなど、もちろん、ある場所は限られている。</p>
<p>ブロディは、ロートが1920年代にフランクフルター・ツァイトゥングに寄稿した「ガリチアを旅して Reise durch Galizien」に記した通りの憂鬱な軒の低い建物が連なる街並み、ユダヤ人が人口の多数を占めるかつてシュテーテルとよばれていたような典型的な田舎街だった。町並みは正直いって美しくもないし、そして、ロートが何度も強調していたように、なんの特徴もない。これで雲が低くたれ込め雨が降りしきれば 憂鬱この上なかろう。ロートにまつわる痕跡をこの街に期待していた小生は良くも悪くも予期していた通りの軒の低い建物が並ぶ、やはり埃にまみれた通りをくぐり抜けながら、過去100年にこの街でどれほどの変化があったのだろう、と想像した。</p>
<p>よくも悪くも期待していていたようなガリチアのシュテーテルの憂鬱を充分に感じることができたが。</p>
<p>この旅ではガリチア出身の作家、特にロートやシュルツの生まれ故郷訪問がテーマの一つだったのだけれど、よくも悪くも観光という言葉とはまるで縁がない中欧の東の果て、あるいはヨーロッパが果ててアジアがはじまるともいえるような地域を旅しながら、これから先、十年先、どれほどの変化がもたらされるのだろうと思う。</p>
<p>変化はあったのかもしれない。</p>
<p>けれど。ベルリンからやってきた日本人にとってはそこは地の果てでもあった。もちろんガリチアから広大なユーラシア大陸がはじまるといってもよいのだけれど。インゲボルク・バッハマンだったか、ドナウ川の向こう側から<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%A4">サルマチア</a>が、そしてアジアが始まるといったのは。その伝説の国サルマチアがあったのは、そもそも現在でいうガリチアのあたりといわれている。</p>
<p><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/07/IMG_9829.jpg"><img class="alignnone size-medium wp-image-165" title="Synagogue, Brody, Ukraine" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/07/IMG_9829-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>ブローディではその街の規模と比して、かなり大きなシナゴーグの廃墟に出くわした。シュルツの故郷であり、彼がナチによって突如路上でその命を奪われるまでの50年にも満たない一生の殆どを過ごしたドロホヴィツィにも巨大なシナゴーグの廃墟があった。どちらも街の只中にあるにもかかわらず、誰にも顧みられることもなく、静かに自然に帰ろうとしていた。</p>
<p>ロートとシュルツの故郷を尋ねた日は折しも４月にしては夏を思わせる日差しが照りつけていた。雨が降りしきるより遥かにまし。もちろん、ガリチアとメランコリー、そういった小生のステレオタイプとはまるで違った日差し。</p>
<p>そんな初夏のブローディを後にして、小生は再びリヴィウへと向かうマルシュルートゥカの車上にあった。リヴィウから10分ほど車をはしらせて左手の丘に大きな城を思わせる建物が目にはいった。すでにブロディへの途上その城を目にしていた。</p>
<p>ピドヒルツィ、とバスの停留所にあった。その停留所に止まったバスから迷わず飛び降りた。停留場のある道の左右両側は満開になった菜の花に包まれていた。その城のある丘のある方にむかって畑の間の小道を歩き出した。</p>
<p><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/07/IMG_9858.jpg"><img class="alignnone size-medium wp-image-166" title="Pidhirsti, Ukraine" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/07/IMG_9858-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" /></a></p>
<p>あいもかわらず初夏の日差しは厳しかった。それでも、雲一つなく晴れ渡ったガリチアの初夏の大地を歩む足は軽く、その美しい風景を楽しみながら、いつしか城がある丘の下の小さな村にたどり着いた。</p>
<p>ふと小生は直観から道を左にとったが、いつのまにかコルホーズらしき農場の中に入ってしまった。ふと横をみると、コルホーズの従業員と思しき兄貴が小生をみている。とっさに、城へは、と訪ねる。すると、兄貴は反対側の出口をでて左だ。まっすぐだ。簡単だ。まちがえんな。という。</p>
<p>しかし、コルホーズをでて東側へ向かう道は確かに丘の上に向かうようではあったけれど、実際は穴ぼこでだらけですぐ先からは薮の中でとても道とよべ るようなものではない。しばし、左右を見渡すと、側にある家の庭には大勢人が見える。庭でパーティーでもやっているようだった。道を尋ねるべくそちらのほうに足をむけようとすると、すると、背後から車が一台やってきて小生の背後でとまる。そのドライバーの若い兄貴に道を訪ねるが要領をえない。城はたしかにもう真上に見えるのだが。</p>
<p>ここで女の子達をまってるんだがね、城のほうからくるはずだから、この道で間違いないはずなんだけどさ、とかいう。その兄貴が喋っていたのはウクライナ語ではなくてロシア語だった。</p>
<p>そうこうするうちに庭にいた一人が小生たちに気がついてこちらへ向かってきて、あんちゃんたち、城へいきたいのか。だったら、もどって、コルホーズの向こうにある道が城の正面へ通じとるぎゃ、と。</p>
<p>しかし、そんな遠回りをするのか、といぶかしんだ小生は、いやいや、城に上がるのは僕だけで、この道歩いて城にいけますんかいな、と尋ねると、ほんだらこの道ずっとあがっていくだけだぎゃ、という。prjama（ロシア語でまっすぐ）でんなと、いう小生に対して、おっさんは、そうだぎゃ、 prosto(ウクライナ語とポーランド語でまっすぐ？）だぎゃ、という。</p>
<p>ロシア語とウクライナ語の短いやりとりを経て、小生は城に向かう坂道へととりかかる。穴ぼこだらけで道の勾配は険しい。</p>
<p>すると目の前から背の高いブロンドの女性が鶏のようにひょこひょこと小刻みに足を前に運びながら道をくだってくるのが見えた。ものすごい高いハイヒールをはいているのが遠目にもわかった。</p>
<p>ウクライナ美女とハイヒール。クリシェともいえる組み合わせ。</p>
<p>とはいえ、正面から歩いてくるのはものすごい美女だった。ウクライナでもこのガリチア近辺でしかみかけない。正直なところ西ヨーロッパではほぼお目にかかることはないスタイルと美貌が完璧な形でそろった女性が高い割合でこのガリチアにはいるような気がする。独逸人などとは比べ物にならぬ。</p>
<p>ガリチアはヨーロッパでも指折りの美男美女の地なのかもしれないと思う時がある。</p>
<p>マゾヒズムの語源となった独逸語作家のレオポルド・サッハー・マソッホもガリチアの首都リヴィウの生まれだ。その彼もカルパチアの山の麓のガリチアは絶世の美女を産する地とあちこちで書いている。そんな彼が「毛皮を着たヴィーナス」をはじめとした、ガリチアの美女をテーマにした哲学的（！）妄想小説 の数々を書いたのもさもあらん、と納得するぐらいの美女が時々やはりこの地にはいるのかもしれない。</p>
<p>すれ違い際、城へいくにはこの道で間違いないね、と小生は尋ねる。するとすれ違い際の美女は顔をあげて小生を見て微笑みながらこう言う。</p>
<p>ター、ター。</p>
<p>あの「ター、ター」を今頭の中で反芻しながら、あれは天使が小生の際を通り過ぎた一瞬のささやきではないか、と今でも思うことがある。</p>
<p>ではまた自戒。</p>
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		<title>ショークヴァへ向かいながら。</title>
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		<pubDate>Thu, 30 Jun 2011 12:25:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
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		<category><![CDATA[ポーランド]]></category>

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		<description><![CDATA[突如曇り空のベルリン。現在正午過ぎ、気温15度。曇り時々小雨。明日あたりから北海上の曇り空でも見に行くかな。ではでは、又自戒。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ （昨年７月末にアップのログ） ベルリンは突如として曇り空の下。ついこの間まで寝苦しい夜が続いていたというのに一昨日から一転して肌寒い日々。それでも、酷暑のせいか、街自体が熱をもっていたのか、建物の中でも地下鉄の駅の中でも異様に外気と比べての湿度も温度が高かったけれど。秋の気配濃厚な空模様。街路樹も風にゆられて、その葉を落としている。 こんな天気の時はいつも北ヨーロッパあるいは中欧を旅している時を思い出す。オランダはアムステルダムにはじめて降り立った時。もう十年以上前。アメリカ周りで着いたオランダは雨にぬれていた。雨がふりしきったアムステルダムの中央駅に立って、はやいとここんな街から出て行かねば、とおもったほど分厚い雲に覆われたアムステルダム。憂鬱な気分をかきたてられるも、その後むかったバルト三国では雨に降られ続き、４月頭の大雪にも見舞われ、日中でもエストニアのタリンではマイナス20度にもなった。 そんな中でもポーランドは特に曇り空が特に似合う。というよりも、小生が当地を旅する時、いつもそこは曇り空。雨はふりやまず。寒さに震えた夜行列車の中。ポーランドに太陽の日差しは似合わない。小生の記憶の中でのポーランドは特にそうだ。 ウクライナにはこれまで2度いったことがある。2005年の10月と2009年4月。どちらも旅の前半は天気にめぐまれるも後半は雨に降り続ける。 キエフ、チェルニーフィッツィ、リビウ、すべて曇り空の下。鶏が道ばたを飛び跳ねる道端。 ガリチアの曇り空の下。それともそれはブコヴィナだったか。ウクライナ側の北ブコヴィナにいた三日間。ルーマニア側の南ブコヴィナにいたのは2008年の春。その時もひたすら雨に降られた。北ブコヴィナの2005年10月は信じられないぐらい肌寒かった。それでも宿をとったチェルニーフィッチの宿はバスタブがあった。水はひたすらくさかったが、それでもバスタブに身を沈めて暖まった体でその日は熟睡した。 2009年4月。長い曇り空に覆われたベルリンの3月が過ぎ、4月になって突如夏模様のベルリンを後にし、小生はクリミアへ一路向かっていた。シレジアを貫く高速道路の上は青空。ヴロツワフから眠れぬ夜行列車で一夜をあかして着いたプシェミスルの中央駅は曇り空の下だった。国境の駅到着の前の夜行列車はウクライナからの労働者たちの群で満員だった。夜行列車を降り、駅の裏側へと急ぐのは他の誰もが同じ。向かう先はウクライナへの国境通過点。欧州連合の最東端にある場所の一つ。 国境の検問所の上の空は案の定曇り空。これから向かう先。ウクライナ。多少のメランコリーは必要なのだ。さもなくば、これから出くわすことになるガリチアの憂鬱な大地には到底堪えられない。 国境を越えた小生を出迎えたのは、3年半前と特に変わらないウクライナの国境の街の風景だった。シェンヒーニ。ロシア人はシェンギーニというはず。ウクライナ語とチェコ語、むしろスロヴァキア語に見いだせる類似点。その点にウクライナは中欧の一部だと感じさせられる。 リヴィウ到着後も雨が降りしきった。宿に荷物をおろしても、小生は夕方雨が降り止むまで宿を出なかった。その次の日も朝から雨が降りしきった。その次の日はクリミアに向かうことになっていた。空路で。帰り道、再度リヴィウを経由することは明らかだった。帰るころに天気が好転していればまた街歩きに繰り出せるだろう。そう思って、リヴィウから少し出てみようとおもった。 こうして小生はショークヴァというリヴィウから北西に２０㌔ほど離れた町へ向かうバスの車上の人となった。Zhovkva、 ウクライナ語の綴りで、Жовква、ポーランド語、Żółkiew、イディッシュ語ではZholkvaと綴る。ガリチアはヨーロッパでも一番ユダヤ人の 人口の割合が多い界隈だった。もちろん1940年代までの話だ。ガリチアはその上、1945年までは民族図はポーランド人とウクライナ人とユダヤ人で三分 割できるぐらいだった。ニューヨークタイムズのホームページにこの街を紹介する興味深い記事があるので興味のある方は一読あれ。 ショークヴァへと向かう道筋は雨にぬれていた。30分ほどのバスの旅の後、ついた街というよりも村、村というよりは多少大きい。かつてオスマン・トルコとの戦いで名前をなしたヤン・ソビェスキの曾祖父であるスタニスワフ・ジュウキェフスキの居城のあった街でもあった。そんなトルコとの戦いのために作られた城や要塞はガリチアにはいまだ多数残っている。もちろん、多くは廃墟として自然にかえりつつあるが。 小生の乗ったバスはバスターミナルというにはあまりにもひなびた駐車場の片隅に止まった。雨はいつのまにかやんでいた、と記憶している。バスから降りた小生を迎えたのは数匹の野良犬だった。早速人工衛星のように小生のまわりをぐるぐる周りながら吠えかけていた野良犬も、小生からは何も期待できない、と見て取られるや、また停車場の片隅にまた座り込んでしまった。 野良犬から解放された小生は停車場を後にして、歩を進める。目の前には黒ずんだ外壁の、古い建物が街路樹の間から姿を現わした。一目でそれがシナゴーグだとわかった。それにしてもこの小さな町にはなかなか華やかなファサードをもったシナゴーグ、しかも歴史のある建物であることがわかった。ルネッサンス式の。このシナゴーグは17世紀末に建造されたという。ガリチアにあるシナゴーグはこんな様式のものがおおい。ポーランド側の国境をまたいで100㌔と離れていないザモシチにも似たようなスタイルで建造されたシナゴーグがある。ザモシチはもちろん中欧を代表するルネッサンス式の街。ショークヴァもほぼ同時期に建造されたルネッサンス式の立派な大きさの城があった。 それでもその城は廃墟も同然だった。多分、１０年もたてば変わるだろう、いやなにも変わらないのかもしれない。ここは地の果てなのだ。中欧の果てにはそんなメランコリーがいつもある。いつも違う場所で。でも同じメランコリーを味わうことになる。 そんなメランコリーはいつもそんな雨降りの空の下の湿った大地にいる自分を思い起こす時に突如呼び起こされる。雨にぬれたショークヴァのシナゴーグを思い出しながら、ベルリンの今現在の曇り空はあのガリチアの曇り空と朽ち果てるのを待つだけのシナゴーグのある街並みへとつながっているのだ。そして、その町並みの向こうにはなにがあるのだろう、と想像する。それが知りたくて、いつもベルリンからは東へと向かう。そんなものだ。 では又自戒。夏がまたくることを願いながら。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>突如曇り空のベルリン。現在正午過ぎ、気温15度。曇り時々小雨。明日あたりから北海上の曇り空でも見に行くかな。ではでは、又自戒。</p>
<p>＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊<br />
<strong>（昨年７月末にアップのログ）</strong><br />
ベルリンは突如として曇り空の下。ついこの間まで寝苦しい夜が続いていたというのに一昨日から一転して肌寒い日々。それでも、酷暑のせいか、街自体が熱をもっていたのか、建物の中でも地下鉄の駅の中でも異様に外気と比べての湿度も温度が高かったけれど。秋の気配濃厚な空模様。街路樹も風にゆられて、その葉を落としている。<span id="more-26"></span></p>
<p>こんな天気の時はいつも北ヨーロッパあるいは中欧を旅している時を思い出す。オランダはアムステルダムにはじめて降り立った時。もう十年以上前。アメリカ周りで着いたオランダは雨にぬれていた。雨がふりしきったアムステルダムの中央駅に立って、はやいとここんな街から出て行かねば、とおもったほど分厚い雲に覆われたアムステルダム。憂鬱な気分をかきたてられるも、その後むかったバルト三国では雨に降られ続き、４月頭の大雪にも見舞われ、日中でもエストニアのタリンではマイナス20度にもなった。</p>
<p>そんな中でもポーランドは特に曇り空が特に似合う。というよりも、小生が当地を旅する時、いつもそこは曇り空。雨はふりやまず。寒さに震えた夜行列車の中。ポーランドに太陽の日差しは似合わない。小生の記憶の中でのポーランドは特にそうだ。</p>
<p>ウクライナにはこれまで2度いったことがある。2005年の10月と2009年4月。どちらも旅の前半は天気にめぐまれるも後半は雨に降り続ける。 キエフ、チェルニーフィッツィ、リビウ、すべて曇り空の下。鶏が道ばたを飛び跳ねる道端。<br />
ガリチアの曇り空の下。それともそれはブコヴィナだったか。ウクライナ側の北ブコヴィナにいた三日間。ルーマニア側の南ブコヴィナにいたのは2008年の春。その時もひたすら雨に降られた。北ブコヴィナの2005年10月は信じられないぐらい肌寒かった。それでも宿をとったチェルニーフィッチの宿はバスタブがあった。水はひたすらくさかったが、それでもバスタブに身を沈めて暖まった体でその日は熟睡した。</p>
<p>2009年4月。長い曇り空に覆われたベルリンの3月が過ぎ、4月になって突如夏模様のベルリンを後にし、小生はクリミアへ一路向かっていた。シレジアを貫く高速道路の上は青空。ヴロツワフから眠れぬ夜行列車で一夜をあかして着いたプシェミスルの中央駅は曇り空の下だった。国境の駅到着の前の夜行列車はウクライナからの労働者たちの群で満員だった。夜行列車を降り、駅の裏側へと急ぐのは他の誰もが同じ。向かう先はウクライナへの国境通過点。欧州連合の最東端にある場所の一つ。</p>
<p>国境の検問所の上の空は案の定曇り空。これから向かう先。ウクライナ。多少のメランコリーは必要なのだ。さもなくば、これから出くわすことになるガリチアの憂鬱な大地には到底堪えられない。</p>
<p>国境を越えた小生を出迎えたのは、3年半前と特に変わらないウクライナの国境の街の風景だった。シェンヒーニ。ロシア人はシェンギーニというはず。ウクライナ語とチェコ語、むしろスロヴァキア語に見いだせる類似点。その点にウクライナは中欧の一部だと感じさせられる。</p>
<p>リヴィウ到着後も雨が降りしきった。宿に荷物をおろしても、小生は夕方雨が降り止むまで宿を出なかった。その次の日も朝から雨が降りしきった。その次の日はクリミアに向かうことになっていた。空路で。帰り道、再度リヴィウを経由することは明らかだった。帰るころに天気が好転していればまた街歩きに繰り出せるだろう。そう思って、リヴィウから少し出てみようとおもった。</p>
<p>こうして小生はショークヴァというリヴィウから北西に２０㌔ほど離れた町へ向かうバスの車上の人となった。Zhovkva、 ウクライナ語の綴りで、Жовква、ポーランド語、Żółkiew、イディッシュ語ではZholkvaと綴る。ガリチアはヨーロッパでも一番ユダヤ人の 人口の割合が多い界隈だった。もちろん1940年代までの話だ。ガリチアはその上、1945年までは民族図はポーランド人とウクライナ人とユダヤ人で三分 割できるぐらいだった。<a href="http://www.nytimes.com/2009/01/12/travel/12iht-gruber.1.19272643.html?_r=1">ニューヨークタイムズのホームページ</a>にこの街を紹介する興味深い記事があるので興味のある方は一読あれ。</p>
<div id="fc_id_795"><strong>ショークヴァ</strong>へと向かう道筋は雨にぬれていた。30分ほどのバスの旅の後、ついた街というよりも村、村というよりは多少大きい。かつてオスマン・トルコとの戦いで名前をなした<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B33%E4%B8%96_%28%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B%29">ヤン・ソビェスキ</a>の曾祖父である<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%A6%E3%82%AD%E3%82%A7%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD">スタニスワフ・ジュウキェフスキ</a>の居城のあった街でもあった。そんなトルコとの戦いのために作られた城や要塞はガリチアにはいまだ多数残っている。もちろん、多くは廃墟として自然にかえりつつあるが。</div>
<div><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/06/IMG_9389.jpg"><img class="alignnone size-medium wp-image-162" title="Zhokva, Ukraine" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/06/IMG_9389-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></div>
<p>小生の乗ったバスはバスターミナルというにはあまりにもひなびた駐車場の片隅に止まった。雨はいつのまにかやんでいた、と記憶している。バスから降りた小生を迎えたのは数匹の野良犬だった。早速人工衛星のように小生のまわりをぐるぐる周りながら吠えかけていた野良犬も、小生からは何も期待できない、と見て取られるや、また停車場の片隅にまた座り込んでしまった。</p>
<p><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/06/IMG_9387.jpg"><img title="Synagogue, Zhokva, Ukraine" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/06/IMG_9387-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>野良犬から解放された小生は停車場を後にして、歩を進める。目の前には黒ずんだ外壁の、古い建物が街路樹の間から姿を現わした。一目でそれがシナゴーグだとわかった。それにしてもこの小さな町にはなかなか華やかなファサードをもったシナゴーグ、しかも歴史のある建物であることがわかった。ルネッサンス式の。このシナゴーグは17世紀末に建造されたという。ガリチアにあるシナゴーグはこんな様式のものがおおい。ポーランド側の国境をまたいで100㌔と離れていないザモシチにも似たようなスタイルで建造されたシナゴーグがある。ザモシチはもちろん中欧を代表するルネッサンス式の街。ショークヴァもほぼ同時期に建造されたルネッサンス式の立派な大きさの城があった。</p>
<p>それでもその城は廃墟も同然だった。多分、１０年もたてば変わるだろう、いやなにも変わらないのかもしれない。ここは地の果てなのだ。中欧の果てにはそんなメランコリーがいつもある。いつも違う場所で。でも同じメランコリーを味わうことになる。</p>
<p>そんなメランコリーはいつもそんな雨降りの空の下の湿った大地にいる自分を思い起こす時に突如呼び起こされる。雨にぬれた<strong>ショークヴァ</strong>のシナゴーグを思い出しながら、ベルリンの今現在の曇り空はあのガリチアの曇り空と朽ち果てるのを待つだけのシナゴーグのある街並みへとつながっているのだ。そして、その町並みの向こうにはなにがあるのだろう、と想像する。それが知りたくて、いつもベルリンからは東へと向かう。そんなものだ。</p>
<p>では又自戒。夏がまたくることを願いながら。</p>
<div class="shr-publisher-26"></div><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetBottom Automatic --><div style="clear: both; min-height: 1px; height: 3px; width: 100%;"></div><div class='shareaholic-like-buttonset' style='float:none;height:30px;'><a class='shareaholic-fblike' data-shr_layout='button_count' data-shr_showfaces='false' data-shr_href='http%3A%2F%2Fluegenlernen.de%2F2011%2F06%2F30%2F%25e3%2582%25b7%25e3%2583%25a7%25e3%2583%25bc%25e3%2582%25af%25e3%2583%25b4%25e3%2582%25a1%25e3%2581%25b8%25e5%2590%2591%25e3%2581%258b%25e3%2581%2584%25e3%2581%25aa%25e3%2581%258c%25e3%2582%2589%25e3%2580%2582%2F' data-shr_title='%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%81%B8%E5%90%91%E3%81%8B%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%82%89%E3%80%82'></a><a class='shareaholic-fbsend' data-shr_href='http%3A%2F%2Fluegenlernen.de%2F2011%2F06%2F30%2F%25e3%2582%25b7%25e3%2583%25a7%25e3%2583%25bc%25e3%2582%25af%25e3%2583%25b4%25e3%2582%25a1%25e3%2581%25b8%25e5%2590%2591%25e3%2581%258b%25e3%2581%2584%25e3%2581%25aa%25e3%2581%258c%25e3%2582%2589%25e3%2580%2582%2F'></a><a class='shareaholic-googleplusone' data-shr_size='medium' data-shr_count='false' data-shr_href='http%3A%2F%2Fluegenlernen.de%2F2011%2F06%2F30%2F%25e3%2582%25b7%25e3%2583%25a7%25e3%2583%25bc%25e3%2582%25af%25e3%2583%25b4%25e3%2582%25a1%25e3%2581%25b8%25e5%2590%2591%25e3%2581%258b%25e3%2581%2584%25e3%2581%25aa%25e3%2581%258c%25e3%2582%2589%25e3%2580%2582%2F' data-shr_title='%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%81%B8%E5%90%91%E3%81%8B%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%82%89%E3%80%82'></a></div><div style="clear: both; min-height: 1px; height: 3px; width: 100%;"></div><!-- End Shareaholic LikeButtonSetBottom Automatic -->]]></content:encoded>
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		<title>To where my whole images are going back&#8230;</title>
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		<pubDate>Thu, 16 Jun 2011 22:14:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[Kodography]]></category>
		<category><![CDATA[ベルリン]]></category>
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		<description><![CDATA[It was for 12 years ago, when I&#8217;ve been to Warsaw for the first time. Strangely I don&#8217;t remember at all, from where exactly I&#8217;ve arrived in the polish capital. From Krakow or Wroclaw? Anyway it was my first visit in Poland ever. I got off from the train to the platform. It was dark [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>It was for 12 years ago, when I&#8217;ve been to Warsaw for the first time. Strangely I don&#8217;t remember at all, from where exactly I&#8217;ve arrived in the polish capital. From Krakow or Wroclaw? Anyway it was my first visit in Poland ever. I got off from the train to the platform. It was dark and smelly dumped. It was my first impression of Warszawa Centralna. There are such kind of dark stations like that of Warszawa Centralna all over the world.</p>
<p><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/06/Warszawa-Centralna-Warsaw-Oct.2009.jpg"><img class="alignnone size-large wp-image-143" title="Warszawa Centralna, Warsaw, Oct.2009" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/06/Warszawa-Centralna-Warsaw-Oct.2009-1024x768.jpg" alt="Warszawa Centralna, Warsaw, Oct.2009" width="385" height="288" /></a></p>
<p>Some of S-Bahnhof or U-Bahnhof in Berlin too. Especially in the stations of U8. Their darkness at the berliner metro stations especially in the winter season and their smells were always coming back to my sense and caused a kind of hallucination remind me back to Berlin, wherever I was outside of Berlin. Then I missed always Berlin. First the smell of the metro stations and the dark U-Bahnhof. And Berlin. This memory caused by this sense is never attached to any other place on the earth than to Berlin. Of course it is one of the reasons why I&#8217;ve decided to be back to little later after my short stays in Berlin in 2001 and in 2002. That smell always followed me whenever I was outside of Berlin. That&#8217;s a part of reasons why I wanted to go back to Berlin.<span id="more-142"></span></p>
<p>I had always a kind of hallucination bringing me to somewhere else in my mind when I was in a dark and dirty subway station like in Brooklyn, in Dobutsuen-mae in Osaka or in Universitate in Bucharest. Especially I remember very well that I felt quite strong hallucination when I was in a metro station, Vagzlis Moedani in Tbilisi, Georgia, shortly after the end of the south ossetian war in the summer 2008. I&#8217;ve never been to the so dark metro station before. Of course I am still very sure that I had a strong hallucination caused by the dusk of that metro station. But I did&#8217;t know at all what the whole hallucinations caused. I&#8217;m not sure at this moment.</p>
<p><img class="alignnone size-full wp-image-144" title="Mardzhanishvili, Tbilisi, Georgia, Sep.2008, JPG" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/06/Mardzhanishvili-Tbilisi-Georgia-Sep.2008-JPG.jpg" alt="Mardzhanishvili, Tbilisi, Georgia, Sep.2008" width="357" height="268" /></p>
<p>So Warszawa Centralna again. It&#8217;s still dazzlingto imagine the atmosphere I felt at the moment when I got off from the train. After long running in the underground tunnel under the polish capital we have arrived there. I don&#8217;t know any another train station anywhere else so dark lighted station like this Warszawa Centralna at that time, when I was there for the first time for twelve years ago. It was even hard to see and to find out the sign of exits. And chaotic corridors filled with people going somewhere or coming back to the polish capital and amount of small shops “sklep” on the both side of corridors. It was really dumped and it always reminds me of my first trip in Poland. It is still something typical of Poland for me. Maybe for any other travellers who&#8217;ve ever been to Poland too?</p>
<p>For two years ago in October 2009 I stood on the platform of Warszawa Centralna again. The Station was so crowded as well as it had been for 12 years ago that I went hardly forward between the crowd of the people waiting for the train taking me back to Berlin, “Berlin-Warszawa-Express.”</p>
<p>Well, the train has arrived as soon as I reached to the sector 2 of the platform number 4. At that moment I saw almost all same view which I&#8217;d ever seen before. One moment later I suddenly recognized that I&#8217;ve ever met this scene. I was already on the board of the train bringing back me to Berlin, my second home town since 2003. This flashback of the memory brought me back exactly to the moment for 12 years ago when I&#8217;d waited the train going to Berlin and bringing me to the outside of the land with so depressing landscapes, dark clouded sky, heavy traffic jam, chaotic markets and train stations. I wanted to escape from a sort of depression caused by landscape and streets in the polish late autumn as soon as possible. Everything of the country was for me a real depression, which I&#8217;d never experienced before in my life. I was still nineteen years old there.</p>
<p>Probably I followed my shadow casted on the dusk of that platform of Warszawa Centralna one late autumn day shortly after 6 o&#8217;clock in the morning. I&#8217;ve already forgot the exact date when I was standing there and the moment my shadow was casting on the dark lighted platform, which now seems to be a little bit lighter than at that time, but I don&#8217;t know anymore.</p>
<p>So almost all nothing has changed there in the last decade. Only I know now is that I was standing on the platform of Warszawa Centralna again to go back to Berlin. Thus my next 10 years with Warszawa Centralna has begun once again.</p>
<p>It&#8217;s just a part of reasons, why I always go back to the direktion, so to the east, from where I came from.</p>
<div class="shr-publisher-142"></div><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetBottom Automatic --><div style="clear: both; min-height: 1px; height: 3px; width: 100%;"></div><div class='shareaholic-like-buttonset' style='float:none;height:30px;'><a class='shareaholic-fblike' data-shr_layout='button_count' data-shr_showfaces='false' data-shr_href='http%3A%2F%2Fluegenlernen.de%2F2011%2F06%2F16%2Fto-where-my-whole-images-are-going-back%2F' data-shr_title='To+where+my+whole+images+are+going+back...'></a><a class='shareaholic-fbsend' data-shr_href='http%3A%2F%2Fluegenlernen.de%2F2011%2F06%2F16%2Fto-where-my-whole-images-are-going-back%2F'></a><a class='shareaholic-googleplusone' data-shr_size='medium' data-shr_count='false' data-shr_href='http%3A%2F%2Fluegenlernen.de%2F2011%2F06%2F16%2Fto-where-my-whole-images-are-going-back%2F' data-shr_title='To+where+my+whole+images+are+going+back...'></a></div><div style="clear: both; min-height: 1px; height: 3px; width: 100%;"></div><!-- End Shareaholic LikeButtonSetBottom Automatic -->]]></content:encoded>
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		<title>（再）Going in Silesia (1): “Kebab” VS “Döner”</title>
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		<pubDate>Sat, 02 Apr 2011 23:17:53 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[Kebab VS Döner]]></category>
		<category><![CDATA[Urban exploring]]></category>
		<category><![CDATA[ベルリン]]></category>
		<category><![CDATA[ポーランド]]></category>

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		<description><![CDATA[ほぼ一ヶ月を過ごしたプラハから一路東スロヴァキアはコシィチェに向かった小生は、スロヴァキアから一路タトラ山脈を越えて、今年なぜかすでに3回 目になるクラクフにいる。泊まっているホテルのレセプションののお姉ちゃんに、そんなにクラクフが好きなのと聞かれても、全く、そうなんだわ、ともいえな い。にもかかわらず今年3度目。４月、７月そして今回。クラクフは中央ヨーロッパの交通の要所にある。ベルリンとウクライナ、もしくはスロヴァキアの間をそれぞれ移動するとやはりこの街を通ることになる。だからなのだろう。 昨日一日シロンスク地方をさすらってきた。クラクフを昼前にでて、クラクフへと戻って来たのは真夜中近く。帰り夕方も８時前に乗ろうとした列車はなぜか遅れに遅れ、予定の時刻を20分過ぎても現れる気配もなし。構内放送に耳を傾けても、チェコとスロヴァキアで一ヶ月を過ごして後に聞く、あいかわらず早口でイントネーションの高低がほとんどないポーランド語は半分もわからない。数字と乗ろうとする列車が遅れていることぐらいがかろうじて分かる程度。その上、言葉尻のスウンとかチョンとかイェゴが耳にまとわりつくポーランド語が、チェコ語とスロヴァキア語に慣れた耳には、なぜか中国語のように聞こえる。 スロヴァキア人の友人が、ポーランドはヨーロッパの中国／ヴェトナムといったのを思い出して、おもわず北風のぴゅーぴゅーふくプラットホームの上で一人笑い。 予定の時間を３０分ほど過ぎて、なんの予告もなく、なぜか定刻通りにやってきたクラクフ行きの他の急行列車がひとつ離れた別のプラットホームになだ れこんでくる。それをみて、小生もとい小生同様クラクフ行きの地域間快速（IR)をまっていた人たちが、一様にその列車が入って来たホームに走るも、スパルタな女車掌に、全員違う切符をもっているというので、乗車拒否。 というわけで、吹きさらしのカトヴィッツェ中央駅のプラットフォームの上で、10月の中旬にして突如やって来た真冬並みの寒波に震えながら、がらがらの急行列車を人気の全くないホームの上で、乗車拒否された一同列車を見送るのだが、日も暮れに暮れた暗いプラットフォームでさらに小一時間を過ごしながら、なんとまあ、毎度いつもこんな目に遭いながら、なぜいつも同じようなことをしたがるんだろうと思うことしきり。 予定よりも一時間２０ 分程後、なんの予告もなく、やっと現れた列車をみても、ホームにいた一同、お互いにこれが俺らの列車だよな、と疲れと寒さからか全く確信なくお互いを見るのみ。暖房が暑いぐらいきいている車内では、吹きさらしのプラットホームの上で待ちくたびれた人々、各々の座席で速攻ダウン。気がつけば、目の前の斜め前の座席からストッキングをはいただけの女の人の足があらわに通路につきでていて、となりに座っていたポーランド兄貴とともに目を丸くさせる。 よく見ると、こんな天気にもかかわらずかなり短いスカートをはいた銀行勤めぽいお姉さんが、完全にダウンしていた。しかし、小生にそれも眺める気力もな く、小生もいつしか眠りにおちる。そして、気がつくと、今年何度乗り降りしたか分からないクラクフ中央駅のホームに列車が到着するところだった。 というわけで、毎回のことであったが、その日はまだ続きがあった。その後、宿へむかうべく旧市街を通り過ぎる最中のことである。 そんな一日をすごしたこともあって、宿への帰り道小生は腹がへっては仕方が無い。カトヴィツェのホームで待っている間に、なにか軽く食べてもよかっ てのであるが、なにせここはポーランドゆえ、いつ目的の列車がホームになだれ込んでくるかわからなかったゆえ、一時間半も北風の吹きすさむカトヴィッツェ中央駅のプラットホーム三番線上で、無為に過ごすはめになったのである。 ところで、腹をすかせた小生の目にやたらめたらとびこんでくるのは、ポーランドでもまたポピュラーになりつつある「ケバブKebab」の文字である。小生にとって世界最高のケバブとはいうまでもなく、ベルリンのケバブである。それゆえ、それもクロイツベルク、ノイケルン、ヴェディンクの特定のドネル屋以外では絶対に食さないというのが小生が一生をかけて守らねばならぬ原則の一つなのであるが、一歩ゆずって、あるはずなのであるが。しかし。 そんな小生はベルリンの外で、常に正統なベルリンのドネル・ケバブではなく「ケバブ」なるパチものをつかまされてきた経験から、そんな「ケバブ」なるものをみても冷ややかに「ふん」とやりすごすだけなのである。が、しかし、人間腹が減るとそんな原則などクソクラエとばかりに、よう兄貴、「ケバブ」一丁、と注文するのは、空腹ゆえ。期待とは裏腹の全くもっと異なる「ケバブ」なるパチ物をつかまされながらも、食わねば腹がなる、食わねば明日がつらいのであると思いながら、とある意味空腹時以外の時の冷ややかな自分にもどるのである。その「ケバブ」なる食い物に食らいつきながら、ああ、くそまじい、ベルリンのドネルが恋しいぞおとばかりに思い出すのは、もちろん、ベルリンのドネル屋兄貴との典型的なやりとり、「ゔぇるひぇぞーせー、さらだあこんぷれえと？」、大阪ミナミ方言まじりに訳すると、「ソースどないしまんねん、野菜全部いれるか、よっしゃ、ほんで段取りつけとくさかいにな」と大阪のお好み焼き屋のおばはんのしばきもかくやの触れ合いなのだ。 てなわけで、クラクフ旧市街を腹ぺこでゆく小生の目にとびこんでくるのは、今現在クラクフにて急増中の「ケバブ」の文字ばかり。まだピエロギ でもくわしてくれる店はないのか、と目をこらすが、時間も時間、すでに23時を回っている。最初は、「ケバブ」だめじゃ、ベルリンのドネルを裏切っ てはならぬ、と自制心をはたらかせるが、この日は通る道筋に、やたらめたら「ケバブ」の文字が飛びこんでくる。二軒三軒をすぎたまではむきに自制心をはたらかせていたが、「ケバブ」以外に空いている店がなかなかみつからず、次々に視界に飛び込んでくる「ケバブ」を四五軒はやり過ごしたあたりになると、今日は「ケバブ」にするしかないか、とこれまでの大言壮語もどこへやら、ついに、旧市街の端にある「ケバブ」のネオンのおどる店へと足をむけてしまった。 店の兄貴をみると、間違いなくトルコ人。小生によって勝手にトルコ人と断定された兄貴に、サラム、と声をかけると、兄貴も、おおお、とうなり声をあげ、さあらむう、と返事。小生はだてにベルリンはクロイツベルク、ノイケルン、ヴェディンクで日々兄貴相手にもまれているわけではないのである。よお、兄貴、ドネルだ、 「ケバブ」じゃない、ドネルを頼む、というと、おうけーい、じゃぱにーずふれんど、と言う前から日本人認定される。最近、ヴェトナム人とかウズベク人とかカザフ人認定されることが多いので、おお、これぞおお、ほんまもんのトルコ兄貴、しかも＠クラクフじゃ、と感動してしまう。そして、兄貴のたまうに、英語で、どのソースじゃ、サラダは全部かあである。こちらは、英語のこの会話に面食らいながらも、もちろん、すぱいしー／まよ、みっくすでたのんます、と答える。おおう、 あめえさん、ドイツ人みてえだな、と返す。あたぼうよ、おいどんはドネルの本場ベルリンから来たのよ、と答える。すると、兄貴は喜々として、すぷりすどぅどいちゅ？（ドイツ語しゃべるんかい？）である。こちらは、おお、それじゃあ、話ははええな、兄貴、くろいたーしゃーふ、さらだあれす、みっとつゔぃーべ るん、びって（パセリマヨネーズソース、スパイシーソース、もちろんタマネギ入で段取りつけたってくれい）、である。喜々とした兄貴はさっそうと「ケバ ブ」ではない「ドネル」をあいよ、いっちょあがり、と喜々としてよこす。１０ずおってぃ（ZL;ポーランドの通貨)、びって、である。こちらは、てしぇけれ（あんがとよ）と返して、ぼんあぺてぃと、やー？（めしあがれえ、どおうぞ）である。 これこそ、小生がこの一月の間懐かしんだベルリンの一部なのだ。こうして手にした「ケバブ」は即効小生にとって「ドネル」と認定されたのであった。 味はやっぱりベルリンのドネルにはおよばへんな、とベルリンのドネルを懐かしむのだけれど、こうして「ドネル」文化がベルリン以外に広がるのはいいことなのである、と思う小生でありました。同時に、そろそろベルリンにかえるときなのかな、と底冷えのするクラクフの夜を宿へといそいだのでありました。 以上が昨日の帰り道の小ばなしなのであるが、ところで、そうまでしていったシロンスク地方に何があるかといわれると、正直なところ、やはりくたびれ た炭坑とすすけたコンビナート、それからぼた山ぐらいしか思いつかない。これは、昨日丸一日を現地で過ごした今でも、尋ねられればそう答えるであろう。そ れが事実であることにはかわりわない。とはいえ、そういったステレオタイプを一掃するには、やはり現地に行くしか無い。そんなわけで、昨日午前、クラクフ から約８０キロ離れたカトヴィッツェへ向かう列車の人となったのである。 今日はこれでおひらきといたしますが、また予告編で終わらないよう、小生また一層の精進に勤める所存であります。一日おいて明日もカトヴィッツェ周辺をさすらう予定であります。その話はまたその二以降にゆずることにいたしましょう。そんなわけで今日はまた自戒。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>ほぼ一ヶ月を過ごしたプラハから一路東スロヴァキアはコシィチェに向かった小生は、スロヴァキアから一路タトラ山脈を越えて、今年なぜかすでに3回 目になるクラクフにいる。泊まっているホテルのレセプションののお姉ちゃんに、そんなにクラクフが好きなのと聞かれても、全く、そうなんだわ、ともいえな い。にもかかわらず今年3度目。４月、７月そして今回。クラクフは中央ヨーロッパの交通の要所にある。ベルリンとウクライナ、もしくはスロヴァキアの間をそれぞれ移動するとやはりこの街を通ることになる。だからなのだろう。</p>
<p>昨日一日シロンスク地方をさすらってきた。クラクフを昼前にでて、クラクフへと戻って来たのは真夜中近く。帰り夕方も８時前に乗ろうとした列車はなぜか遅れに遅れ、予定の時刻を20分過ぎても現れる気配もなし。構内放送に耳を傾けても、チェコとスロヴァキアで一ヶ月を過ごして後に聞く、あいかわらず早口でイントネーションの高低がほとんどないポーランド語は半分もわからない。数字と乗ろうとする列車が遅れていることぐらいがかろうじて分かる程度。その上、言葉尻のスウンとかチョンとかイェゴが耳にまとわりつくポーランド語が、チェコ語とスロヴァキア語に慣れた耳には、なぜか中国語のように聞こえる。 スロヴァキア人の友人が、ポーランドはヨーロッパの中国／ヴェトナムといったのを思い出して、おもわず北風のぴゅーぴゅーふくプラットホームの上で一人笑い。<span id="more-37"></span></p>
<p>予定の時間を３０分ほど過ぎて、なんの予告もなく、なぜか定刻通りにやってきたクラクフ行きの他の急行列車がひとつ離れた別のプラットホームになだ れこんでくる。それをみて、小生もとい小生同様クラクフ行きの地域間快速（IR)をまっていた人たちが、一様にその列車が入って来たホームに走るも、スパルタな女車掌に、全員違う切符をもっているというので、乗車拒否。</p>
<p>というわけで、吹きさらしのカトヴィッツェ中央駅のプラットフォームの上で、10月の中旬にして突如やって来た真冬並みの寒波に震えながら、がらがらの急行列車を人気の全くないホームの上で、乗車拒否された一同列車を見送るのだが、日も暮れに暮れた暗いプラットフォームでさらに小一時間を過ごしながら、なんとまあ、毎度いつもこんな目に遭いながら、なぜいつも同じようなことをしたがるんだろうと思うことしきり。</p>
<p>予定よりも一時間２０ 分程後、なんの予告もなく、やっと現れた列車をみても、ホームにいた一同、お互いにこれが俺らの列車だよな、と疲れと寒さからか全く確信なくお互いを見るのみ。暖房が暑いぐらいきいている車内では、吹きさらしのプラットホームの上で待ちくたびれた人々、各々の座席で速攻ダウン。気がつけば、目の前の斜め前の座席からストッキングをはいただけの女の人の足があらわに通路につきでていて、となりに座っていたポーランド兄貴とともに目を丸くさせる。 よく見ると、こんな天気にもかかわらずかなり短いスカートをはいた銀行勤めぽいお姉さんが、完全にダウンしていた。しかし、小生にそれも眺める気力もな く、小生もいつしか眠りにおちる。そして、気がつくと、今年何度乗り降りしたか分からないクラクフ中央駅のホームに列車が到着するところだった。</p>
<p>というわけで、毎回のことであったが、その日はまだ続きがあった。その後、宿へむかうべく旧市街を通り過ぎる最中のことである。</p>
<p>そんな一日をすごしたこともあって、宿への帰り道小生は腹がへっては仕方が無い。カトヴィツェのホームで待っている間に、なにか軽く食べてもよかっ てのであるが、なにせここはポーランドゆえ、いつ目的の列車がホームになだれ込んでくるかわからなかったゆえ、一時間半も北風の吹きすさむカトヴィッツェ中央駅のプラットホーム三番線上で、無為に過ごすはめになったのである。</p>
<p>ところで、腹をすかせた小生の目にやたらめたらとびこんでくるのは、ポーランドでもまたポピュラーになりつつある「ケバブKebab」の文字である。小生にとって世界最高のケバブとはいうまでもなく、ベルリンのケバブである。それゆえ、それもクロイツベルク、ノイケルン、ヴェディンクの特定のドネル屋以外では絶対に食さないというのが小生が一生をかけて守らねばならぬ原則の一つなのであるが、一歩ゆずって、あるはずなのであるが。しかし。</p>
<p>そんな小生はベルリンの外で、常に正統なベルリンのドネル・ケバブではなく「ケバブ」なるパチものをつかまされてきた経験から、そんな「ケバブ」なるものをみても冷ややかに「ふん」とやりすごすだけなのである。が、しかし、人間腹が減るとそんな原則などクソクラエとばかりに、よう兄貴、「ケバブ」一丁、と注文するのは、空腹ゆえ。期待とは裏腹の全くもっと異なる「ケバブ」なるパチ物をつかまされながらも、食わねば腹がなる、食わねば明日がつらいのであると思いながら、とある意味空腹時以外の時の冷ややかな自分にもどるのである。その「ケバブ」なる食い物に食らいつきながら、ああ、くそまじい、ベルリンのドネルが恋しいぞおとばかりに思い出すのは、もちろん、ベルリンのドネル屋兄貴との典型的なやりとり、「ゔぇるひぇぞーせー、さらだあこんぷれえと？」、大阪ミナミ方言まじりに訳すると、「ソースどないしまんねん、野菜全部いれるか、よっしゃ、ほんで段取りつけとくさかいにな」と大阪のお好み焼き屋のおばはんのしばきもかくやの触れ合いなのだ。</p>
<p>てなわけで、クラクフ旧市街を腹ぺこでゆく小生の目にとびこんでくるのは、今現在クラクフにて急増中の「ケバブ」の文字ばかり。まだピエロギ でもくわしてくれる店はないのか、と目をこらすが、時間も時間、すでに23時を回っている。最初は、「ケバブ」だめじゃ、ベルリンのドネルを裏切っ てはならぬ、と自制心をはたらかせるが、この日は通る道筋に、やたらめたら「ケバブ」の文字が飛びこんでくる。二軒三軒をすぎたまではむきに自制心をはたらかせていたが、「ケバブ」以外に空いている店がなかなかみつからず、次々に視界に飛び込んでくる「ケバブ」を四五軒はやり過ごしたあたりになると、今日は「ケバブ」にするしかないか、とこれまでの大言壮語もどこへやら、ついに、旧市街の端にある「ケバブ」のネオンのおどる店へと足をむけてしまった。</p>
<p>店の兄貴をみると、間違いなくトルコ人。小生によって勝手にトルコ人と断定された兄貴に、サラム、と声をかけると、兄貴も、おおお、とうなり声をあげ、さあらむう、と返事。小生はだてにベルリンはクロイツベルク、ノイケルン、ヴェディンクで日々兄貴相手にもまれているわけではないのである。よお、兄貴、ドネルだ、 「ケバブ」じゃない、ドネルを頼む、というと、おうけーい、じゃぱにーずふれんど、と言う前から日本人認定される。最近、ヴェトナム人とかウズベク人とかカザフ人認定されることが多いので、おお、これぞおお、ほんまもんのトルコ兄貴、しかも＠クラクフじゃ、と感動してしまう。そして、兄貴のたまうに、英語で、どのソースじゃ、サラダは全部かあである。こちらは、英語のこの会話に面食らいながらも、もちろん、すぱいしー／まよ、みっくすでたのんます、と答える。おおう、 あめえさん、ドイツ人みてえだな、と返す。あたぼうよ、おいどんはドネルの本場ベルリンから来たのよ、と答える。すると、兄貴は喜々として、すぷりすどぅどいちゅ？（ドイツ語しゃべるんかい？）である。こちらは、おお、それじゃあ、話ははええな、兄貴、くろいたーしゃーふ、さらだあれす、みっとつゔぃーべ るん、びって（パセリマヨネーズソース、スパイシーソース、もちろんタマネギ入で段取りつけたってくれい）、である。喜々とした兄貴はさっそうと「ケバ ブ」ではない「ドネル」をあいよ、いっちょあがり、と喜々としてよこす。１０ずおってぃ（ZL;ポーランドの通貨)、びって、である。こちらは、てしぇけれ（あんがとよ）と返して、ぼんあぺてぃと、やー？（めしあがれえ、どおうぞ）である。</p>
<p>これこそ、小生がこの一月の間懐かしんだベルリンの一部なのだ。こうして手にした「ケバブ」は即効小生にとって「ドネル」と認定されたのであった。 味はやっぱりベルリンのドネルにはおよばへんな、とベルリンのドネルを懐かしむのだけれど、こうして「ドネル」文化がベルリン以外に広がるのはいいことなのである、と思う小生でありました。同時に、そろそろベルリンにかえるときなのかな、と底冷えのするクラクフの夜を宿へといそいだのでありました。</p>
<p>以上が昨日の帰り道の小ばなしなのであるが、ところで、そうまでしていったシロンスク地方に何があるかといわれると、正直なところ、やはりくたびれ た炭坑とすすけたコンビナート、それからぼた山ぐらいしか思いつかない。これは、昨日丸一日を現地で過ごした今でも、尋ねられればそう答えるであろう。そ れが事実であることにはかわりわない。とはいえ、そういったステレオタイプを一掃するには、やはり現地に行くしか無い。そんなわけで、昨日午前、クラクフ から約８０キロ離れたカトヴィッツェへ向かう列車の人となったのである。</p>
<p>今日はこれでおひらきといたしますが、また予告編で終わらないよう、小生また一層の精進に勤める所存であります。一日おいて明日もカトヴィッツェ周辺をさすらう予定であります。その話はまたその二以降にゆずることにいたしましょう。そんなわけで今日はまた自戒。</p>
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