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	<title>Lügenlernen &#187; ベルリン</title>
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	<description>人間万事塞翁が馬</description>
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		<title>ベルリン-ドネツク-エクスプレス: 2012年4月4日午後６時。「最終ゲート」。Hrebenneにて。</title>
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		<pubDate>Sun, 20 May 2012 13:30:58 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[Kodography]]></category>
		<category><![CDATA[ウクライナ]]></category>
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		<category><![CDATA[国境越え]]></category>

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		<description><![CDATA[<img width="188" height="141" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0391-188x141.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_0391" title="IMG_0391" />小生たちを乗せたバスは、ワルシャワ市街を半周して、ウクライナはリヴィウへ向けてと走る。ワルシャワの郊外から市街へでるあたりはモダンな自動車専用道路だったが、とたんに整備のされていないアスファルトの波打つ道へとさしかかる。 小生たち乗客は、ホップ、ホップ、車とともに飛びはねる、またはねる。窓はその度にびびびと震える。 そして、なんと道半ばでの工事の多いこと。ウクライナの旅の後、ポーランドの開催４都市をまわった時にもさんざん目の当たりにすることになるのだが、ポーランドの幹線道路は工事ラッシュ。それにともなう渋滞で車での移動は、高速道路が整備されているような区間以外は、非常にストレスがたまる。 ここのところポーランドはようやく、自国民にとっても非常に悪名高いPKPことポーランド鉄道もふくめた、交通インフラの更新時期にあるようだ。こうした工事は、ユーロ開催に関係があるのかどうか断言はできないが、もし関係があるのあらば、こうした工事は、急ピッチですすめたとしても、おそらくユーロ開催中に間に合うどころの話ではない（もちろん2012年４月現在）。 もっともポーランド側の幹線道路の工事の遅れ程度のことは、ウクライナにいけば、まったく取るにたらない話だということを認識させられるのだが、それはまた後の話。 バスはこうして遅々として進まぬ。どんぶらこ、どんぶらこ、どんぶらこ、と進む。 そして工事の区間をぬけて状態のよい道をスムーズに走り出したかと思えば休憩。2時間程も走っても、まだ道半ばも来ていず、そこはまだルブリンの手前。停まった場所はワルシャワーリヴィウを行き来する時に何度も休憩したドライブイン。なんのヘンテツもない。ただ店内におかれたスロットマシーンと宝くじの看板だけがわびしいだけの場所。こんなものは世界中どこにいってもあると思うが、ポーランドらしいと思わせるものはやはりある。 例えば、外にでたM君が漫☆画太郎かくやの銅像を発見。 こんなものがあるポーランドなかなか奥ゆかしと騒ぐ日本人二人組。周囲の注目を集めていたのはいうまでもない。 するとバスの乗客の一人で、小生達の前のほうの座席に座っていた青年が、君たちどこにいくんだい、と話かけてくる。そういう彼もウクライナはキエフの実家にイースター休暇も兼ねて帰るのだという。もうワルシャワに長いことすんでいるらしく、パートナーはポーランド人だということ。彼はリヴィウに着いて、すぐ夜行列車でキエフに向うということで、小生達はリヴィウで人と会うがあいがてら一泊するため、旅程を同じくすることはできないが、小生達の旅の目的を話すと、キエフについたら是非連絡してくれ、といってくれる。そこで携帯番号でも交換しようという話になったところで、バスはようやく出発。 ところが、その彼は国境越え後、とんでもない目に会ってしまうのだが。それはまた次回の話。 そんな感じで動きだしたバスはルブリンにようやくさしかかり、この街は交通インフラの更新をすでに終えていたためか、あっという間に通過。それでも、ルブリンを通過し、国境との中間点ぐらいに位置する街全体がルネッサンス建築で著名なザモシチまでの区間も相変わらず工事が多く、遅々としてバスは進まない。 あまりにも時間の流れかたが違いすぎる。 ポーランドやウクライナでの旅では、そこで流れる時間の流れにまずは身をまかせねばならない。さもなくばその鈍重さに押しつぶされてしまうことだろう。 こうして、国境の通過ポイントHrebenneにたどり着いたのは日もかなり西に傾いたころ、午後６時きっかりであった。 ではまた国境越えの後でお会いしましょう。また自戒。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<img width="188" height="141" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0391-188x141.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_0391" title="IMG_0391" /><p></p><br /><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>小生たちを乗せたバスは、ワルシャワ市街を半周して、ウクライナはリヴィウへ向けてと走る。ワルシャワの郊外から市街へでるあたりはモダンな自動車専用道路だったが、とたんに整備のされていないアスファルトの波打つ道へとさしかかる。</p>
<p>小生たち乗客は、ホップ、ホップ、車とともに飛びはねる、またはねる。窓はその度にびびびと震える。<span id="more-798"></span></p>
<p>そして、なんと道半ばでの工事の多いこと。ウクライナの旅の後、ポーランドの開催４都市をまわった時にもさんざん目の当たりにすることになるのだが、ポーランドの幹線道路は工事ラッシュ。それにともなう渋滞で車での移動は、高速道路が整備されているような区間以外は、非常にストレスがたまる。</p>
<p>ここのところポーランドはようやく、自国民にとっても非常に悪名高いPKPことポーランド鉄道もふくめた、交通インフラの更新時期にあるようだ。こうした工事は、ユーロ開催に関係があるのかどうか断言はできないが、もし関係があるのあらば、こうした工事は、急ピッチですすめたとしても、おそらくユーロ開催中に間に合うどころの話ではない（もちろん2012年４月現在）。</p>
<p>もっともポーランド側の幹線道路の工事の遅れ程度のことは、ウクライナにいけば、まったく取るにたらない話だということを認識させられるのだが、それはまた後の話。</p>
<p>バスはこうして遅々として進まぬ。どんぶらこ、どんぶらこ、どんぶらこ、と進む。</p>
<p>そして工事の区間をぬけて状態のよい道をスムーズに走り出したかと思えば休憩。2時間程も走っても、まだ道半ばも来ていず、そこはまだルブリンの手前。停まった場所はワルシャワーリヴィウを行き来する時に何度も休憩したドライブイン。なんのヘンテツもない。ただ店内におかれたスロットマシーンと宝くじの看板だけがわびしいだけの場所。こんなものは世界中どこにいってもあると思うが、ポーランドらしいと思わせるものはやはりある。</p>
<p>例えば、外にでたM君が漫☆画太郎かくやの銅像を発見。</p>
<div id="attachment_890" class="wp-caption alignnone" style="width: 504px"><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_2527.jpg"><img class="size-large wp-image-890" title="IMG_2527" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_2527-494x370.jpg" alt="" width="494" height="370" /></a><p class="wp-caption-text">これは復路に撮影。4月17日。ワルシャワへ戻る途上にて。</p></div>
<div id="attachment_891" class="wp-caption alignnone" style="width: 380px"><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0364.jpg"><img class="size-large wp-image-891" title="IMG_0364" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0364-370x494.jpg" alt="" width="370" height="494" /></a><p class="wp-caption-text">「ばばあ」もどき？食われる小生。</p></div>
<p>こんなものがあるポーランドなかなか奥ゆかしと騒ぐ日本人二人組。周囲の注目を集めていたのはいうまでもない。</p>
<p>するとバスの乗客の一人で、小生達の前のほうの座席に座っていた青年が、君たちどこにいくんだい、と話かけてくる。そういう彼もウクライナはキエフの実家にイースター休暇も兼ねて帰るのだという。もうワルシャワに長いことすんでいるらしく、パートナーはポーランド人だということ。彼はリヴィウに着いて、すぐ夜行列車でキエフに向うということで、小生達はリヴィウで人と会うがあいがてら一泊するため、旅程を同じくすることはできないが、小生達の旅の目的を話すと、キエフについたら是非連絡してくれ、といってくれる。そこで携帯番号でも交換しようという話になったところで、バスはようやく出発。</p>
<p>ところが、その彼は国境越え後、とんでもない目に会ってしまうのだが。それはまた次回の話。</p>
<p>そんな感じで動きだしたバスはルブリンにようやくさしかかり、この街は交通インフラの更新をすでに終えていたためか、あっという間に通過。それでも、ルブリンを通過し、国境との中間点ぐらいに位置する街全体がルネッサンス建築で著名なザモシチまでの区間も相変わらず工事が多く、遅々としてバスは進まない。</p>
<p>あまりにも時間の流れかたが違いすぎる。</p>
<p>ポーランドやウクライナでの旅では、そこで流れる時間の流れにまずは身をまかせねばならない。さもなくばその鈍重さに押しつぶされてしまうことだろう。</p>
<p>こうして、<a href="http://g.co/maps/ex587" target="_blank">国境の通過ポイントHrebenne</a>にたどり着いたのは日もかなり西に傾いたころ、午後６時きっかりであった。</p>
<p>ではまた国境越えの後でお会いしましょう。また自戒。</p>
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		<title>鳥居が団地の下。Britzer Damm, Berlin-Neukölln, 17.5.2012</title>
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		<pubDate>Sat, 19 May 2012 15:15:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[Berlin-Neukölln]]></category>
		<category><![CDATA[Kodography]]></category>
		<category><![CDATA[ピロティ]]></category>
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		<category><![CDATA[団地]]></category>

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		<description><![CDATA[<img width="188" height="112" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMAG1296-188x112.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMAG1296" title="IMAG1296" />ここのところあまりにも家にひきこもりすぎで、たいした遠出もしていないな、ということに気がついたとある夕方のことだった。 久々に団地逍遥でもしたかったのだけれど、小生宅から一番最寄りのベルリン四大団地の一つであるグロピウスシュタットまでは歩いていくのは面倒な距離なので、もう一度先日言及したRollbergの側を通って、テンペルホーファーフェルドの横を通り過ぎたあと、南に方角を転じ、ベルリンの環状線の線路を跨いで後、テルトウ運河まで歩いて、あとは、運河沿いをとことこ散歩していた。 Größere Kartenansicht 運河沿いにBritzer Dammの手前まであるいてきたところで、これまで入ったことのない団地があることに気がついたので、そこを通り抜けながら、家の方角へ向うことにした。 すると冒頭の写真にある通り、なんと、目の前に鳥居が団地の建物の下に組み込まれているという前代未聞の光景に出くわしたのである。かような香ばしき団地の風景。 グロピウスシュタットとノイケルンの間には、見本市のごとく様々なスタイルの団地が乱立している。 ノイケルンの南に境を接するBritzにはかの世界遺産にも登録されたブルーノ・タウト設計によるHufeisensiedlungという戦間期を代表する名作団地（？）があるし、そこからグロピウスシュタットへ歩をすすめていくうちに通り過ぎていくことになる、戦後ベルリンの市街が拡大していくのにしたがい誕生していった多種多様の団地群は見る者をたのしませてくれる。 しかし、団地とはかようなものではすまない問題を抱えていることが、団地の間を逍遥しているうちにきっとみえてくることだろう。 ドイツもといヨーロッパでの「団地」とはネガティヴな意味合いで語られることのほうがおおい。例えば、「団地」＝ゲットーであるという。それでも、そのイメージも団地逍遥を繰り返しているうちに極めて一面的な見方であるとも悟らされた。 そこにはどんな形でも生というものがある。ただそれがどんな営みの方をされていたか、あるいはいるかが問題なのである。 団地とは２０世紀以降の生のあり方を語る上でのキータームなのだ。一切は住むということにかかわるコンセプトでありそして住むということに関わる生一般を司るアートでもあったのだ。全ては全体主義芸術Gesamtkunstwerkの一環として生み出された。団地の神髄とは、ナチズムやスターリニズムを生み出したものと根を同じくする、ということを付きつとめることができるような場所へと到達することでなければならない。 だから、小生の想像力のはいつのまにか時と場所を越えて、はるかかなた東の国の小生の団地での幼年時代の記憶と結ばれることになったのだ。 だから、いつの日か、僕たちの「20世紀末ごろの団地での幼年時代」について語ることができれば、と思う。 ではまた自戒。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<img width="188" height="112" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMAG1296-188x112.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMAG1296" title="IMAG1296" /><p></p><br /><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>ここのところあまりにも家にひきこもりすぎで、たいした遠出もしていないな、ということに気がついたとある夕方のことだった。</p>
<p>久々に団地逍遥でもしたかったのだけれど、小生宅から一番最寄りのベルリン四大団地の一つであるグロピウスシュタットまでは歩いていくのは面倒な距離なので、もう一度先日言及したRollbergの側を通って、テンペルホーファーフェルドの横を通り過ぎたあと、南に方角を転じ、ベルリンの環状線の線路を跨いで後、テルトウ運河まで歩いて、あとは、運河沿いをとことこ散歩していた。<span id="more-782"></span></p>
<p><iframe width="450" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.de/maps?hl=de&amp;ie=UTF8&amp;hq=&amp;hnear=Neuk%C3%B6lln&amp;t=h&amp;ll=52.459742,13.437792&amp;spn=0.002288,0.004828&amp;z=17&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.de/maps?hl=de&amp;ie=UTF8&amp;hq=&amp;hnear=Neuk%C3%B6lln&amp;t=h&amp;ll=52.459742,13.437792&amp;spn=0.002288,0.004828&amp;z=17&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">Größere Kartenansicht</a></small></p>
<p>運河沿いにBritzer Dammの手前まであるいてきたところで、これまで入ったことのない団地があることに気がついたので、そこを通り抜けながら、家の方角へ向うことにした。</p>
<p>すると冒頭の写真にある通り、なんと、目の前に鳥居が団地の建物の下に組み込まれているという前代未聞の光景に出くわしたのである。かような香ばしき団地の風景。</p>
<p>グロピウスシュタットとノイケルンの間には、見本市のごとく様々なスタイルの団地が乱立している。</p>
<p>ノイケルンの南に境を接するBritzにはかの世界遺産にも登録されたブルーノ・タウト設計による<a href="http://de.wikipedia.org/wiki/Hufeisensiedlung">Hufeisensiedlung</a>という戦間期を代表する名作団地（？）があるし、そこからグロピウスシュタットへ歩をすすめていくうちに通り過ぎていくことになる、戦後ベルリンの市街が拡大していくのにしたがい誕生していった多種多様の団地群は見る者をたのしませてくれる。</p>
<p>しかし、団地とはかようなものではすまない問題を抱えていることが、団地の間を逍遥しているうちにきっとみえてくることだろう。</p>
<p>ドイツもといヨーロッパでの「団地」とはネガティヴな意味合いで語られることのほうがおおい。例えば、「団地」＝ゲットーであるという。それでも、そのイメージも団地逍遥を繰り返しているうちに極めて一面的な見方であるとも悟らされた。</p>
<p>そこにはどんな形でも生というものがある。ただそれがどんな営みの方をされていたか、あるいはいるかが問題なのである。</p>
<p>団地とは２０世紀以降の生のあり方を語る上でのキータームなのだ。一切は住むということにかかわるコンセプトでありそして住むということに関わる生一般を司るアートでもあったのだ。全ては全体主義芸術Gesamtkunstwerkの一環として生み出された。団地の神髄とは、ナチズムやスターリニズムを生み出したものと根を同じくする、ということを付きつとめることができるような場所へと到達することでなければならない。</p>
<p>だから、小生の想像力のはいつのまにか時と場所を越えて、はるかかなた東の国の小生の団地での幼年時代の記憶と結ばれることになったのだ。</p>
<p>だから、いつの日か、僕たちの「20世紀末ごろの団地での幼年時代」について語ることができれば、と思う。</p>
<p>ではまた自戒。</p>
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		<title>ベルリン-ドネツク-エクスプレス: 2012年4月3日午後4時。オーデル川越え。</title>
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		<pubDate>Thu, 17 May 2012 18:36:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[Kodography]]></category>
		<category><![CDATA[チェコ]]></category>
		<category><![CDATA[フットボール]]></category>
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		<category><![CDATA[国境越え]]></category>

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		<description><![CDATA[<img width="188" height="141" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0232-188x141.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_0232" title="IMG_0232" />オーデル川越えは小生にとってはいつも特別な瞬間である。 ドイツ側のフランクフルト・アン・デア・オーデルからポーランド側のスウヴィッチェへ、またその逆へ。これまで何度となくこの川を越えてきた。それはポーランドという国の旅の始まりであり、同時にそこでの旅の終わりでもあった。 初めてこの川を越えたのは、もう10年以上も前になるから、20世紀末のことだ。 90年代の末、小生は、多くの日本人が最初のヨーロッパを旅する際に向うであろう、ロンドンやパリではなく、中欧という場所へなにかにせかされるようにして向った。チューリヒを出て、ウィーンへ向かい、そしてブダペスト、ブラチスラヴァ、プラハ、そしてワルシャワと。 そのワルシャワからベルリン行のEuroCityで小生はこのオーデル川を越えてドイツに「帰ってきた」のだ。 ここ数年はポーランドよりもチェコへ向うことが多かった。ベルリンとプラハをいったり来たりすることが続いたりした。 いつもベルリンからプラハへ向う時は、ブダペストかウィーン行きのEuroCityにのっていく。列車はドレスデンを過ぎるとピルナのあたりから列車はエルベ川沿いに走る。そして、いつのまにか国境を越えていて、いつのまにか自分がチェコにいることに気がつく。 でも、そこにはベルリンからポーランドへ向うときのような興奮がない。 バードシャンダウを過ぎ、国境前の最後の駅であるシェーナを過ぎると、いつのまにか列車は、延々とエルベ川沿いを走るうちにチェコ領内へと入って行く。どこで国境を越えたのか、という実感がそこにはない。 自分が今チェコにいるのだ、という実感が湧くのは、いつもシェーナを過ぎてしばらくして、小生の携帯にショートメッセージSMSが入るときだ。小生の携帯がチェコでローミングを始めたという知らせ。極めて機械的な実感。国境検査がなくなり、移動の自由が格段に広がったのはもちろん喜ばしい。けれど、ヨーロッパの中、少なくとも欧州連合内を旅することはとても乾いた体験でしかなくなったのかもしれない。 かつては車窓からみていて、チェコとドイツの家屋の状態の差などでどちらの側にいるのか、という確信はもてたが、最近はそうは簡単に見分けがつかなくなった。もちろん、何度も行き来をしていているので、このあたりからチェコ、ということは容易にみてとれはするのだけれど。 かつてはドイツ／チェコ国境の両側でパスポートコントロールがあったので、自分のパスポートにチェコの警官がスタンプを押すのをみて、違う国へと来た、という実感があった。ところが、チェコのシェンゲン条約加盟以降、最近はあったりなかったりとまちまちだ。それもだいたいドレスデン中央駅停車中かドレスデンをでてバードシャンダウへ向う車上で行われる。まだドイツ国内だというのに。 結局、今回も、また初めてウクライナへ向った2005年の時とやはり同じルートで同じ橋を越えた。 オーデル川を越えてしばらくするとジェーピンRzepinという駅にしばらくとまる。そこで乗務員の交代などがある。 その間、ドイツからの乗客はおもいおもいにホームへ立って、ポーランドでの最初に空気を吸う。もしく一服タバコを吸う。この風景はいつもこの駅に列車が止まるとき、全く毎回同じだ。これを目の当たりにして、自分が今ポーランドに来たのだという実感が濃くなる。彼ら彼女たちそれぞれのオーデル川越え後の光景。 こののんびりさ加減がポーランドという国の一面なのかもしれない、とふと思う。時間の流れ方が、ベルリンからやってきて川をひとつ越えただけで全く異なる、という。 ベルリンからプラハへ向う途上にこういう光景は全くない。ドイツ側のバードシャンダウでもチェコ側のジェチーンDěcínでも列車は止まったと思えば、すぐ動き出す。そして小一時間も経つと、列車の窓からはプラハ城の遠景を拝することができる。 極めてモダンに改装され、ユーゲントスティル旧駅舎もかつての輝きをとりもどそうとするプラハ中央駅に降り立っても、ベルリンとさして時間の流れ方はかわらないことに気付く。それどころ、駅構内から地下鉄の駅へと続く人の列に従っていけば、それも若干早いのではないか、と思ったりもする。 そういえば、前回訪問から今回にかけての一年半以上の間に、ワルシャワの中央駅が大掛かりに改装されたと小耳にはさんだ。まずはその変化ぶりを収めることから今回の小生たちの旅は本格的に始まるといってもよいだろう。 列車はまたポーランドの平原を走る走る、ワルシャワへ。日は段々と西に傾き始める。 ではまた自戒。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<img width="188" height="141" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0232-188x141.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_0232" title="IMG_0232" /><p></p><br /><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>オーデル川越えは小生にとってはいつも特別な瞬間である。</p>
<p>ドイツ側のフランクフルト・アン・デア・オーデルからポーランド側のスウヴィッチェへ、またその逆へ。これまで何度となくこの川を越えてきた。それはポーランドという国の旅の始まりであり、同時にそこでの旅の終わりでもあった。</p>
<p>初めてこの川を越えたのは、もう10年以上も前になるから、20世紀末のことだ。<span id="more-750"></span></p>
<p>90年代の末、小生は、多くの日本人が最初のヨーロッパを旅する際に向うであろう、ロンドンやパリではなく、中欧という場所へなにかにせかされるようにして向った。チューリヒを出て、ウィーンへ向かい、そしてブダペスト、ブラチスラヴァ、プラハ、そしてワルシャワと。</p>
<p>そのワルシャワからベルリン行のEuroCityで小生はこのオーデル川を越えてドイツに「帰ってきた」のだ。</p>
<p>ここ数年はポーランドよりもチェコへ向うことが多かった。ベルリンとプラハをいったり来たりすることが続いたりした。</p>
<p>いつもベルリンからプラハへ向う時は、ブダペストかウィーン行きのEuroCityにのっていく。列車はドレスデンを過ぎるとピルナのあたりから列車はエルベ川沿いに走る。そして、いつのまにか国境を越えていて、いつのまにか自分がチェコにいることに気がつく。</p>
<p>でも、そこにはベルリンからポーランドへ向うときのような興奮がない。</p>
<p>バードシャンダウを過ぎ、国境前の最後の駅であるシェーナを過ぎると、いつのまにか列車は、延々とエルベ川沿いを走るうちにチェコ領内へと入って行く。どこで国境を越えたのか、という実感がそこにはない。</p>
<p>自分が今チェコにいるのだ、という実感が湧くのは、いつもシェーナを過ぎてしばらくして、小生の携帯にショートメッセージSMSが入るときだ。小生の携帯がチェコでローミングを始めたという知らせ。極めて機械的な実感。国境検査がなくなり、移動の自由が格段に広がったのはもちろん喜ばしい。けれど、ヨーロッパの中、少なくとも欧州連合内を旅することはとても乾いた体験でしかなくなったのかもしれない。</p>
<p>かつては車窓からみていて、チェコとドイツの家屋の状態の差などでどちらの側にいるのか、という確信はもてたが、最近はそうは簡単に見分けがつかなくなった。もちろん、何度も行き来をしていているので、このあたりからチェコ、ということは容易にみてとれはするのだけれど。</p>
<p>かつてはドイツ／チェコ国境の両側でパスポートコントロールがあったので、自分のパスポートにチェコの警官がスタンプを押すのをみて、違う国へと来た、という実感があった。ところが、チェコのシェンゲン条約加盟以降、最近はあったりなかったりとまちまちだ。それもだいたいドレスデン中央駅停車中かドレスデンをでてバードシャンダウへ向う車上で行われる。まだドイツ国内だというのに。</p>
<p>結局、今回も、また初めてウクライナへ向った2005年の時とやはり同じルートで同じ橋を越えた。</p>
<div class="wp-caption alignnone" style="width: 504px"><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0008a.jpg"><img class="alignnone size-large wp-image-761" title="IMG_0008a" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0008a-494x326.jpg" alt="" width="494" height="326" /></a><p class="wp-caption-text">Rzepinにて。前回のウクライナ行き途上。2010年7月末。</p></div>
<p>オーデル川を越えてしばらくするとジェーピンRzepinという駅にしばらくとまる。そこで乗務員の交代などがある。</p>
<p>その間、ドイツからの乗客はおもいおもいにホームへ立って、ポーランドでの最初に空気を吸う。もしく一服タバコを吸う。この風景はいつもこの駅に列車が止まるとき、全く毎回同じだ。これを目の当たりにして、自分が今ポーランドに来たのだという実感が濃くなる。彼ら彼女たちそれぞれのオーデル川越え後の光景。</p>
<p>こののんびりさ加減がポーランドという国の一面なのかもしれない、とふと思う。時間の流れ方が、ベルリンからやってきて川をひとつ越えただけで全く異なる、という。</p>
<p>ベルリンからプラハへ向う途上にこういう光景は全くない。ドイツ側のバードシャンダウでもチェコ側のジェチーンDěcínでも列車は止まったと思えば、すぐ動き出す。そして小一時間も経つと、列車の窓からはプラハ城の遠景を拝することができる。</p>
<p>極めてモダンに改装され、ユーゲントスティル旧駅舎もかつての輝きをとりもどそうとするプラハ中央駅に降り立っても、ベルリンとさして時間の流れ方はかわらないことに気付く。それどころ、駅構内から地下鉄の駅へと続く人の列に従っていけば、それも若干早いのではないか、と思ったりもする。</p>
<div id="attachment_189" class="wp-caption alignnone" style="width: 490px"><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/07/IMG_0018-e1336744373125.jpg"><img class=" wp-image-189" title="Prague Central Station, 25. December 2010" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/07/IMG_0018-e1336744373125.jpg" alt="" width="480" height="326" /></a><p class="wp-caption-text">ベルリン行きのEuroCityを待ちながら。この列車は結局プラハを一時間半以上遅れて出発した。とにかく雪のふる寒いプラハはクリスマスということもあり人気があまりなかった。プラハ中央駅、2010年12月25日。</p></div>
<p>そういえば、前回訪問から今回にかけての一年半以上の間に、ワルシャワの中央駅が大掛かりに改装されたと小耳にはさんだ。まずはその変化ぶりを収めることから今回の小生たちの旅は本格的に始まるといってもよいだろう。</p>
<p>列車はまたポーランドの平原を走る走る、ワルシャワへ。日は段々と西に傾き始める。</p>
<p>ではまた自戒。</p>
<div class="shr-publisher-750"></div><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetBottom Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetBottom Automatic -->]]></content:encoded>
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		<title>ストラヴィンスキーのとある写真。</title>
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		<pubDate>Wed, 16 May 2012 15:34:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[オンガク]]></category>
		<category><![CDATA[シャシン]]></category>
		<category><![CDATA[ベルリン]]></category>

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		<description><![CDATA[<img width="188" height="97" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/Igor_Stravinsky_New_York_NY_1946-188x97.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="Igor_Stravinsky,_New_York,_NY,_1946" title="Igor_Stravinsky,_New_York,_NY,_1946" />日曜日にベルリン・ミッテはC/O Berlinで行われているBruce DavidsonのSubwayという展覧会を見てきた。ダヴィッドソンの写真は、本当に月並みに過ぎる感想だけれど、それは素晴らしかった。1980年代のニューヨークのサブウェイの日常を切り取ったシリーズ。 ダヴィッドソンは1933年オークパークの生まれ、カレッジ時代にヨゼフ・アルパースに師事したということだが、本人にとって決定的だったであろう出来事は、彼のパリでの兵役中にマグナム・フォトの創始者の一人であるアンリ・カルティエ＝ブレッソンとの出会いだったことだろう。彼は1958年にマグナム入りを果たしているのでこのエイジェンシーの中でもかなりの古参の部類になる（ていうか小生の最近研究の対象、特に約10年後にマグナム入をしたヨーゼフ・コーデルカや彼を西側に送り出したチェコの美術史家のアンナ・ファーロヴァーとここでまたつながったりする）。 小生も2001年に一度だけニューヨークに二週間ほど滞在したことがあり、ニューヨークのメトロを夢中になって、東西南北へ朝から晩まで乗り倒した記憶がある。小生には筋金入のトレイン・スポッター（いわゆる鉄ちゃん、カテゴリー的には時刻表→降り鉄）だった過去もあるぐらいだから。 ところで小生の記憶に残っている限りでは、ダヴィッドソンの写真にあるような風景に出会ったような出会わなかったような。ダヴィッドソンの地下鉄の風景と小生の記憶の中に残っているニューヨークの地下鉄の風景はあまりにも違いすぎたというのもある。それはダヴィッドソンがニューヨークのメトロのネットワークの中をもぐらのように動き回っていた時代よりもかなり後に小生がニューヨークを訪れたということもあるけれど。なにより、その当時の小生は写真というメディアを憎悪していた。だから、そのニューヨーク滞在中にはカメラは持ち合わせていなかった。 でも小生にとってはこの冒頭に引用した写真のように、なにか別のイメージを脳裏に稲妻のように走らせることはなかった。もちろん、それは小生の展覧会での集中力のせいかもしれない。 でも、今回そうさせてくれたのは、ダヴィッドソンの展覧会と同時開催だったアーノルド・ニューマンの展示の中にあったこのロシア生まれの作曲家イーゴル・ストラヴィンスキーの一枚のポートレートだった。 ニューマンは戦後アメリカの様々な分野の人々のポートレートをとったことでしられている。もうそれだけでもこの写真家の説明になるだろう。展示会にいけば、きっと一度はみたことのある著名人のポートレートをきっと目にすることになるだろう。 このストラヴィンスキーのポートレートは、この作曲家に関わるところでは、レコードのジャケットの写真などによく使われている。でも、なぜこの写真がこの日みた写真の中で一番印象に残ったのか、と断言できるのか。 この作品を目の当たりにした瞬間、小生の頭の中を彼の1925年のピアノソロの作品である「セレナード」の冒頭が稲妻のごとく脳裏をよぎったのだ。 作曲家本人による演奏。 写真にはそうした、とある聴覚的な記憶への敷居となるようなこともある。この写真をみて、誰もが小生と同じように「セレナード」の冒頭のフレーズが頭を過るとは限らないし、もしかしたら人によっては「春の祭典」のフレーズかもしれない。もしくは「ペトルーシュカ」のピアノ版の冒頭だったりもする。小生にとっても、なぜこのポートレートを目の当たりにして、ストラヴィンスキーの数ある作品のうちのよりによってそれほど知られているわけではない「セレナード」が脳裏をよぎったのかは、説明不可能なのだ。 ストラヴィンスキーが頬杖をついているグランドピアノのせいだろうか。それもいまとなっては後づけの理由でしかないだろう。 写真をふくめて、イメージというものは、人の脳を経由して、また別の、色々な像を結ぶ。人間の五感とはつくづく不思議なものだと思う。 ではまた自戒。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<img width="188" height="97" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/Igor_Stravinsky_New_York_NY_1946-188x97.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="Igor_Stravinsky,_New_York,_NY,_1946" title="Igor_Stravinsky,_New_York,_NY,_1946" /><p></p><br /><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>日曜日にベルリン・ミッテはC/O Berlinで行われている<a href="http://www.co-berlin.info/program/exhibitions/2012/bruce-davidson.html?Itemid=2067">Bruce DavidsonのSubway</a>という展覧会を見てきた。ダヴィッドソンの写真は、本当に月並みに過ぎる感想だけれど、それは素晴らしかった。1980年代のニューヨークのサブウェイの日常を切り取ったシリーズ。<span id="more-605"></span></p>
<p>ダヴィッドソンは1933年オークパークの生まれ、カレッジ時代に<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9" target="_blank">ヨゼフ・アルパース</a>に師事したということだが、本人にとって決定的だったであろう出来事は、彼のパリでの兵役中にマグナム・フォトの創始者の一人であるアンリ・カルティエ＝ブレッソンとの出会いだったことだろう。彼は1958年にマグナム入りを果たしているのでこのエイジェンシーの中でもかなりの古参の部類になる（ていうか小生の最近研究の対象、特に約10年後にマグナム入をしたヨーゼフ・コーデルカや彼を西側に送り出したチェコの美術史家のアンナ・ファーロヴァーとここでまたつながったりする）。</p>
<p>小生も2001年に一度だけニューヨークに二週間ほど滞在したことがあり、ニューヨークのメトロを夢中になって、東西南北へ朝から晩まで乗り倒した記憶がある。小生には筋金入のトレイン・スポッター（いわゆる鉄ちゃん、カテゴリー的には時刻表→降り鉄）だった過去もあるぐらいだから。</p>
<p>ところで小生の記憶に残っている限りでは、ダヴィッドソンの写真にあるような風景に出会ったような出会わなかったような。ダヴィッドソンの地下鉄の風景と小生の記憶の中に残っているニューヨークの地下鉄の風景はあまりにも違いすぎたというのもある。それはダヴィッドソンがニューヨークのメトロのネットワークの中をもぐらのように動き回っていた時代よりもかなり後に小生がニューヨークを訪れたということもあるけれど。なにより、その当時の小生は写真というメディアを憎悪していた。だから、そのニューヨーク滞在中にはカメラは持ち合わせていなかった。</p>
<p>でも小生にとってはこの冒頭に引用した写真のように、なにか別のイメージを脳裏に稲妻のように走らせることはなかった。もちろん、それは小生の展覧会での集中力のせいかもしれない。</p>
<p>でも、今回そうさせてくれたのは、ダヴィッドソンの展覧会と同時開催だった<a href="http://www.co-berlin.info/" target="_blank">アーノルド・ニューマンの展示</a>の中にあったこのロシア生まれの作曲家イーゴル・ストラヴィンスキーの一枚のポートレートだった。</p>
<p>ニューマンは戦後アメリカの様々な分野の人々のポートレートをとったことでしられている。もうそれだけでもこの写真家の説明になるだろう。展示会にいけば、きっと一度はみたことのある著名人のポートレートをきっと目にすることになるだろう。</p>
<p>このストラヴィンスキーのポートレートは、この作曲家に関わるところでは、レコードのジャケットの写真などによく使われている。でも、なぜこの写真がこの日みた写真の中で一番印象に残ったのか、と断言できるのか。</p>
<p>この作品を目の当たりにした瞬間、小生の頭の中を彼の1925年のピアノソロの作品である「セレナード」の冒頭が稲妻のごとく脳裏をよぎったのだ。</p>
<p>作曲家本人による演奏。</p>
<p><iframe width="450" height="335" src="http://www.youtube.com/embed/jYYXGSYAm04" frameborder="0" allowfullscreen></iframe></p>
<p>写真にはそうした、とある聴覚的な記憶への敷居となるようなこともある。この写真をみて、誰もが小生と同じように「セレナード」の冒頭のフレーズが頭を過るとは限らないし、もしかしたら人によっては「春の祭典」のフレーズかもしれない。もしくは「ペトルーシュカ」のピアノ版の冒頭だったりもする。小生にとっても、なぜこのポートレートを目の当たりにして、ストラヴィンスキーの数ある作品のうちのよりによってそれほど知られているわけではない「セレナード」が脳裏をよぎったのかは、説明不可能なのだ。</p>
<p>ストラヴィンスキーが頬杖をついているグランドピアノのせいだろうか。それもいまとなっては後づけの理由でしかないだろう。</p>
<p>写真をふくめて、イメージというものは、人の脳を経由して、また別の、色々な像を結ぶ。人間の五感とはつくづく不思議なものだと思う。</p>
<p>ではまた自戒。</p>
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		<title>首都のフットボール馬鹿ども。</title>
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		<pubDate>Tue, 15 May 2012 22:38:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[ウクライナ]]></category>
		<category><![CDATA[フットボール]]></category>
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		<category><![CDATA[ユーロ2012／ウクライナーポーランド]]></category>
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		<description><![CDATA[<img width="188" height="141" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_4282-188x141.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_4282" title="IMG_4282" />昨日ブンデスリーガの一部と二部の昇格と降格をかけたプレーオフでフォルトゥナ・デュッセルドルフとヘルタ・ベルリンが対決したのだけれど、結末はなんともはやということになってしまった。 フォルトゥナは１５年ぶりの昇格がかかっていただけに、ファンの熱狂ぶりは凄まじかった。なんせ、プレーオフ第一戦、ベルリンでのアウェイ戦を２−１で勝ってしまったうえ、後半９０分をすぎて２−２で同点と言う展開。けれど、もし、ヘルタがもう一点取って２-３のスコアにされてしまったら、アウェイゴールルールでトータルで逆転、また来季も2部でという状況だっただけに、ファンの焦燥ぶりは言語に絶するものがあったのだろう。 一方でヘルタ・ベルリンは独逸という国の首都、もとい旧東ドイツ圏で、現在のところ唯一のブンデスリーガ一部所属クラブだ。一昨年ブンデスリーガ二部降格をしたものの、一年で一部復帰を果たした。けれど、今年も低迷。監督が今シーズン二回も変わる始末で、二月からはオットー・レーハーゲルが指揮をとっているが、それでも二部降格か一部残留をかけてのプレーオフ圏でシーズンを終えることとなった。 試合は、２−１とホームのフォルトゥナがリードした段階でヘルタ側のゴール裏から大量の爆竹と発煙筒をピッチに投げ込まれる事態に。ヘルタのファンブロックには独逸でも悪名高いフーリガン集団、そしてスキンヘッド集団（もちろん極右との関連もあるだろう）をかかえていることでも知られていて、そういった連中が昨日デュッセルドルフでも派手にやらかしてしまったようなのだ。その時点でスタジアムのピッチの側のヘルタファンの目前に警察が投入される始末。 フォルトゥナファンがここでエスカレート仕切ってしまった伏線はそもそもここにある。というのも、警官隊やスタジアムの警備員がヘルタ側のフーリガンの警備に集中して配備されてしまったために、そこで誰も遮るものがいなくなってしまったようで、90分を過ぎたあたりから昇格を待ちかねたファンたちがスタンドからピッチ脇へと試合終了の瞬間を待ちわびたかのようになだれ込みはじめてしまったからだ。そして、試合が、まだロスタイム７分のうち残り2分、ヘルタ側のゴールキックという時点で、試合終了を勘違いしたファンがピッチ上大量に流れ込む事態に。 もし、小生もその場にいたらピッチに共になだれ込んでしったかもしれない。あのサッカースタジアムの熱気はそれぐらい人を阿呆にさせるものがあったろう、ということぐらいはみてとれる。 試合は結局しばらくの中断の後、すわヘルタは再試合要求か、とそういう空気が流れかけた瞬間、選手と監督のレーハーゲルがピッチにもどってきて試合再開。けれど残り2分間特になにも起らず終了。と同時にあらためてフォルトゥナファンがピッチ上になだれ込む事態になった。ヘルタは一シーズンでまた二部へと逆戻りという、これでまた非常にありがたくないエレヴェータークラブの蔑称を得ることになってしまった。 しかし、ヨーロッパの首都でこれだけ首都のクラブがメチャクチャに魅力的でない、という国もないだろう。どこの国もすくなくとも一つは国を代表するようなクラブがあるというのに。 何といわれようとヘルタがこの街を代表するサッカークラブだとは認めないし値するとも思ってない、というベルリナーにこれまで多く出会ってきた。そもそもベルリンにサッカーの強豪が育たないのは、この街にお金がない、いいスポンサーがつかない、というのに理由を求めるのが、理にかなっているといえばいえるけれど、それ以上に東西分割の時間も長かったわけで、例えば東ベルリンの人が西ベルリンのクラブであるヘルタに愛着がもてない、というのはごく自然のことだ。クラブ・サッカーはなんだかんだいってローカリズムとそれへのパトリオティズムと結びついているし、特にベルリンのこと、各地区ごとに独自の文化や気風があるだけにそのあたりは一筋縄でいくわけがない。 へルタというベルリンを代表するはずのクラブが、いや、そうおもわれていないところにこのクラブといい、サッカーをめぐるこのベルリンという街の悲しさがある。ベルリン程の規模の街ならば、もう一つから二つぐらいのクラブがブンデスリーガの一部あるいは二部にいてもいいはず。実際現在ブンデスリーガ二部に属するウニオン・ベルリンという旧東ベルリンを代表するクラブがあるが、このクラブが一部に昇格するなんて、金輪際ありえないと思ってる人もかなりの数にのぼるだろう。 それをいうならば、東京だって、日本の場合だからサッカーに対する人気において比較の仕様がないかもしれないが、J1に所属するチームはFC東京一つだけである。J2にまで広げても東京ヴェルディと最近J2に上がったばかりの町田ゼルビアぐらいなのだから。だいたいこの三つのクラブの本拠地は東京「都下」である。もっとも千葉（柏、千葉）や埼玉（浦和、大宮）、神奈川（川崎、横浜FM、横浜FC、湘南)まで広げれば、もっと多くはなるけれど。 それに比べ、ロンドンにはどれぐらいプレミアリーグ所属のクラブがあるのだろうか。正直小生はよくわからない。そういえば、フランスはパリはパリ・サンジェルマンぐらいか、しかも、このクラブも低迷していて久しい。EUをリードする二国の首都のクラブはここのところ酸っぱい体験ばかりしている。 ところで先日まわったポーランドでも首都のワルシャワには一部にあたるエクストラクラッセに所属するチームは二つあって、国を代表する名門クラブのレギア・ワルシャワとポロニア・ワルシャワとある。一方ウクライナの首都キエフには一部であるプレミアリーグに所属するクラブはディナモ・キエフは言うに及ばずヨーロッパでも名門にカテゴライズされるべきクラブだが、他にもアーセナル・キエフ、そしてオボロンというチームもある。 今日の冒頭の写真は5月6日の今シーズンのポーランド・エクストラクラッセ最終節のワルシャワはペプシスタジアムで行われたレギア・ワルシャワのホームゲームのキックオフ直後の写真なのだが、もの凄い数の発煙筒や爆竹が投げ込まれて白い煙を放っているのが見える。 試合開始直後にこんな行動に及ぶファンなどかなり極端だとは思うが、今年度のポーランド・エクストラクラッセは上位大混戦で、この試合の一節前の時点で、レギアは首位をキープしていたものの、3ポイント内にポズナン、ホジュフ、ブロツワフが続く状態で、この４つのチームに優勝の可能性が残されていた。そしてその前節レギアはアウェイのレヒア・グダンスク戦に０−１で破れ、同時に競合三チームがポイントを重ねたため、試合後、レギアは一気に４位にまで順位をさげて、同時に自力優勝の可能性までもが消滅する事態になってしまった。 レギアはポーランドを代表する名門で、6０年代から7０年代にかけてヨーロッパの舞台でも活躍したチームだった。それが2005/6年度を最後に優勝からも、そして、優勝したチームのみに参加の権利が与えられるチャンピオンズリーグからも遠ざかっている。レギアのファンにとっては、最終節のホームの試合を残してのその低落に憤懣やるかたなかったようで、この試合開始直後のこの事態に発展してしまったわけだ。 小生もこの試合はレギア側のゴール裏で試合を見ていたのだけれど、ファンの過激ぶりに少々肝を冷やしてしまった。おまけに小生のほぼ足下でも発煙筒が暴発する始末。 けれど、周りのファンは（小生はすこしウルトラズの連中からは離れたところにいたのだけれど）冷静になにごともなかったように見ているし、スタジアム全体もこんなことは折り込み済みという反応で、しばらくの中断の後試合は普通に再開されていった。 それをみて日本のJリーグのファンはなんてお行儀がいいのだろう、と思うのだった。当地でサッカーがポピュラーになっていくのは喜ばしいけれど、こんなスポーツとは、ファンたることとは、関係のない馬鹿な振る舞いだけは真似をしてもらいたくないと切に望む。 それにしても、ヘルタもレギアもどちらも今年は酸っぱい目にあった首都のクラブだった。ファンが憤懣やるかたないのもわからなくはない。彼らの熱狂的なクラブへの信仰が今年も報われなかったのだから。それだけは分かる。 サッカーはそれにしても人を阿呆にさせる。これはどうしたってロゴスでもっても説明不可能なところがある。だからこそやめられない。そういつも思っている。 というわけで今日はこれにてお開き。また自戒。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<img width="188" height="141" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_4282-188x141.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_4282" title="IMG_4282" /><p></p><br /><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>昨日ブンデスリーガの一部と二部の昇格と降格をかけたプレーオフでフォルトゥナ・デュッセルドルフとヘルタ・ベルリンが対決したのだけれど、結末はなんともはやということになってしまった。</p>
<p>フォルトゥナは１５年ぶりの昇格がかかっていただけに、ファンの熱狂ぶりは凄まじかった。なんせ、プレーオフ第一戦、ベルリンでのアウェイ戦を２−１で勝ってしまったうえ、後半９０分をすぎて２−２で同点と言う展開。けれど、もし、ヘルタがもう一点取って２-３のスコアにされてしまったら、アウェイゴールルールでトータルで逆転、また来季も2部でという状況だっただけに、ファンの焦燥ぶりは言語に絶するものがあったのだろう。<span id="more-569"></span></p>
<p>一方でヘルタ・ベルリンは独逸という国の首都、もとい旧東ドイツ圏で、現在のところ唯一のブンデスリーガ一部所属クラブだ。一昨年ブンデスリーガ二部降格をしたものの、一年で一部復帰を果たした。けれど、今年も低迷。監督が今シーズン二回も変わる始末で、二月からはオットー・レーハーゲルが指揮をとっているが、それでも二部降格か一部残留をかけてのプレーオフ圏でシーズンを終えることとなった。</p>
<p>試合は、２−１とホームのフォルトゥナがリードした段階で<a href="http://www.kicker.de/news/fussball/bundesliga/startseite/569094/8/slideshow_spannung-chaos-jubel---fortuna-steht-kopf.html#omfeaturedslide" target="_blank">ヘルタ側のゴール裏から大量の爆竹と発煙筒をピッチに投げ込まれる事態に</a>。ヘルタのファンブロックには独逸でも悪名高いフーリガン集団、そしてスキンヘッド集団（もちろん極右との関連もあるだろう）をかかえていることでも知られていて、そういった連中が昨日デュッセルドルフでも派手にやらかしてしまったようなのだ。その時点でスタジアムのピッチの側のヘルタファンの目前に警察が投入される始末。</p>
<p>フォルトゥナファンがここでエスカレート仕切ってしまった伏線はそもそもここにある。というのも、警官隊やスタジアムの警備員がヘルタ側のフーリガンの警備に集中して配備されてしまったために、そこで誰も遮るものがいなくなってしまったようで、90分を過ぎたあたりから昇格を待ちかねたファンたちがスタンドからピッチ脇へと試合終了の瞬間を待ちわびたかのようになだれ込みはじめてしまったからだ。そして、試合が、まだロスタイム７分のうち残り2分、ヘルタ側のゴールキックという時点で、<a href="http://www.kicker.de/news/fussball/bundesliga/startseite/569094/8/slideshow_spannung-chaos-jubel---fortuna-steht-kopf.html#omfeaturedslide" target="_blank">試合終了を勘違いしたファンがピッチ上大量に流れ込む事態に。</a></p>
<p>もし、小生もその場にいたらピッチに共になだれ込んでしったかもしれない。あのサッカースタジアムの熱気はそれぐらい人を阿呆にさせるものがあったろう、ということぐらいはみてとれる。</p>
<p>試合は結局しばらくの中断の後、すわヘルタは再試合要求か、とそういう空気が流れかけた瞬間、選手と監督のレーハーゲルがピッチにもどってきて試合再開。けれど残り2分間特になにも起らず終了。と同時にあらためてフォルトゥナファンがピッチ上になだれ込む事態になった。ヘルタは一シーズンでまた二部へと逆戻りという、これでまた非常にありがたくないエレヴェータークラブの蔑称を得ることになってしまった。</p>
<p>しかし、ヨーロッパの首都でこれだけ首都のクラブがメチャクチャに魅力的でない、という国もないだろう。どこの国もすくなくとも一つは国を代表するようなクラブがあるというのに。</p>
<p>何といわれようとヘルタがこの街を代表するサッカークラブだとは認めないし値するとも思ってない、というベルリナーにこれまで多く出会ってきた。そもそもベルリンにサッカーの強豪が育たないのは、この街にお金がない、いいスポンサーがつかない、というのに理由を求めるのが、理にかなっているといえばいえるけれど、それ以上に東西分割の時間も長かったわけで、例えば東ベルリンの人が西ベルリンのクラブであるヘルタに愛着がもてない、というのはごく自然のことだ。クラブ・サッカーはなんだかんだいってローカリズムとそれへのパトリオティズムと結びついているし、特にベルリンのこと、各地区ごとに独自の文化や気風があるだけにそのあたりは一筋縄でいくわけがない。</p>
<p>へルタというベルリンを代表するはずのクラブが、いや、そうおもわれていないところにこのクラブといい、サッカーをめぐるこのベルリンという街の悲しさがある。ベルリン程の規模の街ならば、もう一つから二つぐらいのクラブがブンデスリーガの一部あるいは二部にいてもいいはず。実際現在ブンデスリーガ二部に属するウニオン・ベルリンという旧東ベルリンを代表するクラブがあるが、このクラブが一部に昇格するなんて、金輪際ありえないと思ってる人もかなりの数にのぼるだろう。</p>
<p>それをいうならば、東京だって、日本の場合だからサッカーに対する人気において比較の仕様がないかもしれないが、J1に所属するチームはFC東京一つだけである。J2にまで広げても東京ヴェルディと最近J2に上がったばかりの町田ゼルビアぐらいなのだから。だいたいこの三つのクラブの本拠地は東京「都下」である。もっとも千葉（柏、千葉）や埼玉（浦和、大宮）、神奈川（川崎、横浜FM、横浜FC、湘南)まで広げれば、もっと多くはなるけれど。</p>
<p>それに比べ、ロンドンにはどれぐらいプレミアリーグ所属のクラブがあるのだろうか。正直小生はよくわからない。そういえば、フランスはパリはパリ・サンジェルマンぐらいか、しかも、このクラブも低迷していて久しい。EUをリードする二国の首都のクラブはここのところ酸っぱい体験ばかりしている。</p>
<p>ところで先日まわったポーランドでも首都のワルシャワには一部にあたるエクストラクラッセに所属するチームは二つあって、国を代表する名門クラブのレギア・ワルシャワとポロニア・ワルシャワとある。一方ウクライナの首都キエフには一部であるプレミアリーグに所属するクラブはディナモ・キエフは言うに及ばずヨーロッパでも名門にカテゴライズされるべきクラブだが、他にもアーセナル・キエフ、そしてオボロンというチームもある。</p>
<p>今日の冒頭の写真は5月6日の今シーズンのポーランド・エクストラクラッセ最終節のワルシャワはペプシスタジアムで行われたレギア・ワルシャワのホームゲームのキックオフ直後の写真なのだが、もの凄い数の発煙筒や爆竹が投げ込まれて白い煙を放っているのが見える。</p>
<p>試合開始直後にこんな行動に及ぶファンなどかなり極端だとは思うが、今年度のポーランド・エクストラクラッセは上位大混戦で、この試合の一節前の時点で、レギアは首位をキープしていたものの、3ポイント内にポズナン、ホジュフ、ブロツワフが続く状態で、この４つのチームに優勝の可能性が残されていた。そしてその前節レギアはアウェイのレヒア・グダンスク戦に０−１で破れ、同時に競合三チームがポイントを重ねたため、試合後、レギアは一気に４位にまで順位をさげて、同時に自力優勝の可能性までもが消滅する事態になってしまった。</p>
<p>レギアはポーランドを代表する名門で、6０年代から7０年代にかけてヨーロッパの舞台でも活躍したチームだった。それが2005/6年度を最後に優勝からも、そして、優勝したチームのみに参加の権利が与えられるチャンピオンズリーグからも遠ざかっている。レギアのファンにとっては、最終節のホームの試合を残してのその低落に憤懣やるかたなかったようで、この試合開始直後のこの事態に発展してしまったわけだ。</p>
<p>小生もこの試合はレギア側のゴール裏で試合を見ていたのだけれど、ファンの過激ぶりに少々肝を冷やしてしまった。おまけに小生のほぼ足下でも発煙筒が暴発する始末。</p>
<p>けれど、周りのファンは（小生はすこしウルトラズの連中からは離れたところにいたのだけれど）冷静になにごともなかったように見ているし、スタジアム全体もこんなことは折り込み済みという反応で、しばらくの中断の後試合は普通に再開されていった。</p>
<p>それをみて日本のJリーグのファンはなんてお行儀がいいのだろう、と思うのだった。当地でサッカーがポピュラーになっていくのは喜ばしいけれど、こんなスポーツとは、ファンたることとは、関係のない馬鹿な振る舞いだけは真似をしてもらいたくないと切に望む。</p>
<p>それにしても、ヘルタもレギアもどちらも今年は酸っぱい目にあった首都のクラブだった。ファンが憤懣やるかたないのもわからなくはない。彼らの熱狂的なクラブへの信仰が今年も報われなかったのだから。それだけは分かる。</p>
<p>サッカーはそれにしても人を阿呆にさせる。これはどうしたってロゴスでもっても説明不可能なところがある。だからこそやめられない。そういつも思っている。</p>
<p>というわけで今日はこれにてお開き。また自戒。</p>
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		<title>久々のデモ。</title>
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		<pubDate>Tue, 15 May 2012 08:30:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[Kodography]]></category>
		<category><![CDATA[ジェントリフィケーション]]></category>
		<category><![CDATA[ベルリン]]></category>
		<category><![CDATA[社会運動]]></category>

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		<description><![CDATA[<img width="188" height="140" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_4499a-188x140.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_4499a" title="IMG_4499a" />先週の土曜日久々にデモにいってきた。3年前の大学占拠が失敗に終り、失意のどん底にあった小生は捲土重来を期して野に下ったのであるが、今回が久々のデモ復帰でもあった。多分2010年6月の学生デモ以来じゃないか。 といってもまあ天気がよかったのにポーランドから帰ってきてからというものの、色々と作業におわれて全く外にでれなかったので、たまには外にいくべ、まずはドネルでも食いにいくだ、と例のごとくベルリンに帰還して初めてのドネルケバブを食しにノイケルンの雑踏に身を乗り出した小生の前にこのデモのポスターがどーんと飛び込んできたのである。 でルートは以下の通りだった。 なので、こりゃいかない理由はないので、自宅から一番近いKotbusser Brückeから参加するということになった。結局一人でいったものの、行けばやはり当時の大学講堂占拠仲間は当然として、サッカーチームの同僚やらあまりデモにいかなさそうなヒップスター／ギャル系の知り合い（人は見かけによらないということでした、謹んでお詫びを）などもデモにいたりして結構びっくり仰天だったりする。 デモの日はちょうどDFBPolkalことサッカーの独逸杯の決勝で、街はサッカーファン、ドルトムントファンやバイエルンファンであふれかえっていた。冒頭のドルトムントの香川のユニフォームをきたデモ参加者の写真のように、サッカーユニフォームを着たデモ参加者もその他にも見かけた。ただの冷やかしの可能性も高いが、デモは人が沢山いてナンボだから。 とりあえず雑多なデモだった。反資本主義的シュプレヒコールをするアンチファAntifa（反ファシスト連合、いわゆる極左の代表格）から、左翼党によるEUとドイツ政府による経済政策の批判やら、ベルリン水道の民営化批判やら（これは非常に由々しきテーマ）、反原発を叫ぶ人たちやら・・・。まあ主義主張が多いデモで結局のところ一つとして主張が一つにまとまっていないデモだった。まあデモは通りに出ないと始まらないから其れで良いと言う事にしておこう。 デモの後、帰って色々リンクをあさっていれば、この日から丁度一年前にスペイン中の都市で中心部の大広場を占拠するというアクションが始まった日でもあり、その一周年記念行動という意味をあって、この先週土曜日は国際的なアクションデーということであった。 この地図には日本での街頭行動についての予告はなかったようにみえるが、実際のところはどうだったのだろう。ところでモスクワでも行動が予告されていたが、反プーチンの動きと加速してロシア中でかなりどえらいデモへと発展していったと言う話だ。もちろん、今回のデモの発端となった一年前の大行動がおこったスペインでもマドリッドの中心部を占拠する試みがあったという。 土曜日のベルリンでの行動はそれでも期待したよりも小規模に過ぎたような気がしなくもない。けれど、こういう試みを通じて繰り返し通りに出ることが重要なのだ。日本で経済産業省の前でテントを張る人たちや５月５日に高円寺で原発全停止をパレードにて盛大にお祝いされた方々（この祝い方はおおいにありと思います、かと思えばこのエポックメイキングな出来事に関するこういう記事もあったのでお読みあれ）の正当性とは一年目にしてはやくも「フクシマ」という言葉の意味のインパクトが失われていく様への警告であり「フクシマ」の犠牲になりつつある人々のことを常に人々の記憶にとどめおくということにある。 今年小生は5月1日をベルリンはコトブス門ことKotti周辺ではなく、ポーランド、しかも、第二次大戦の発端の地となったグダンスクはヴェステルプラッテWesterplatteで迎えたので、これはよい機会と当地で厳粛に反戦祈願をして参りました。が、労働者もとい貧乏人のお祭りという雰囲気はグダンスクにはなかったので、少々のストレスところではありませんでした。が、まもなく再来週末はベルリンはカーニバルなのでその分おおいに飲んで騒ぎたいといと思っております。さあ、皆で通りにでて気が済むまで歌い踊り騒ぎましょう。 ではまた自戒。次回はポーランド／ウクライナ話のあらためて第一回目と初日の話。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<img width="188" height="140" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_4499a-188x140.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_4499a" title="IMG_4499a" /><p></p><br /><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>先週の土曜日久々にデモにいってきた。3年前の大学占拠が失敗に終り、失意のどん底にあった小生は捲土重来を期して野に下ったのであるが、今回が久々のデモ復帰でもあった。多分2010年6月の学生デモ以来じゃないか。</p>
<p>といってもまあ天気がよかったのにポーランドから帰ってきてからというものの、色々と作業におわれて全く外にでれなかったので、たまには外にいくべ、まずはドネルでも食いにいくだ、と例のごとくベルリンに帰還して初めてのドネルケバブを食しにノイケルンの雑踏に身を乗り出した小生の前にこのデモのポスターがどーんと飛び込んできたのである。<span id="more-404"></span></p>
<p><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/poster12M_A2_2.jpeg"><img class="alignnone size-large wp-image-441" title="poster12M_A2_2" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/poster12M_A2_2-354x494.jpg" alt="" width="354" height="494" /></a></p>
<p>でルートは以下の通りだった。</p>
<p><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/routen12m-2-500px.png"><img class="alignnone size-large wp-image-439" title="routen12m-2-500px" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/routen12m-2-500px-494x421.png" alt="" width="494" height="421" /></a></p>
<p>なので、こりゃいかない理由はないので、自宅から一番近いKotbusser Brückeから参加するということになった。結局一人でいったものの、行けばやはり当時の大学講堂占拠仲間は当然として、サッカーチームの同僚やらあまりデモにいかなさそうな<a href="http://youtu.be/a830RCsxqY4" target="_blank">ヒップスター／ギャル系</a>の知り合い（人は見かけによらないということでした、謹んでお詫びを）などもデモにいたりして結構びっくり仰天だったりする。</p>
<p>デモの日はちょうどDFBPolkalことサッカーの独逸杯の決勝で、街はサッカーファン、ドルトムントファンやバイエルンファンであふれかえっていた。冒頭のドルトムントの香川のユニフォームをきたデモ参加者の写真のように、サッカーユニフォームを着たデモ参加者もその他にも見かけた。ただの冷やかしの可能性も高いが、デモは人が沢山いてナンボだから。</p>
<p>とりあえず雑多なデモだった。反資本主義的シュプレヒコールをするアンチファAntifa（反ファシスト連合、いわゆる極左の代表格）から、左翼党によるEUとドイツ政府による経済政策の批判やら、ベルリン水道の民営化批判やら（これは非常に由々しきテーマ）、反原発を叫ぶ人たちやら・・・。まあ主義主張が多いデモで結局のところ一つとして主張が一つにまとまっていないデモだった。まあデモは通りに出ないと始まらないから其れで良いと言う事にしておこう。</p>
<div id="attachment_500" class="wp-caption alignnone" style="width: 504px"><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_4492a.jpg"><img class="size-large wp-image-500" title="IMG_4492a" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_4492a-494x370.jpg" alt="" width="494" height="370" /></a><p class="wp-caption-text">ヤノヴィッツブリュッケを過ぎてアレクサンダー広場へ向う途上。いろんな旗が見える。特に反原発の旗の色が団地の色と・・・。</p></div>
<p>デモの後、帰って色々リンクをあさっていれば、この日から丁度一年前にスペイン中の都市で中心部の大広場を占拠するというアクションが始まった日でもあり、その一周年記念行動という意味をあって、この先週土曜日は国際的なアクションデーということであった。</p>
<p><iframe src="http://convocatorias.democraciarealya.es/?id_plan=5" width="100%" height="600"></iframe></p>
<p>この地図には日本での街頭行動についての予告はなかったようにみえるが、実際のところはどうだったのだろう。ところでモスクワでも行動が予告されていたが、反プーチンの動きと加速してロシア中でかなりどえらいデモへと発展していったと言う話だ。もちろん、今回のデモの発端となった一年前の大行動がおこったスペインでもマドリッドの中心部を占拠する試みがあったという。</p>
<p><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/536002_325588190845159_232639880139991_763020_1535879827_n.jpeg"><img class="alignnone  wp-image-496" title="536002_325588190845159_232639880139991_763020_1535879827_n" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/536002_325588190845159_232639880139991_763020_1535879827_n.jpeg" alt="" width="319" height="480" /></a></p>
<p>土曜日のベルリンでの行動はそれでも期待したよりも小規模に過ぎたような気がしなくもない。けれど、こういう試みを通じて繰り返し通りに出ることが重要なのだ。日本で経済産業省の前でテントを張る人たちや<a href="http://www.magazine9.jp/karin/120509/" target="_blank">５月５日に高円寺で原発全停止をパレードにて盛大にお祝いされた方々</a>（この祝い方はおおいにありと思います、かと思えばこのエポックメイキングな出来事に関する<a href="http://midori1kwh.de/2012/04/15/1706" target="_blank">こういう記事</a>もあったのでお読みあれ）の正当性とは一年目にしてはやくも「フクシマ」という言葉の意味のインパクトが失われていく様への警告であり「フクシマ」の犠牲になりつつある人々のことを常に人々の記憶にとどめおくということにある。</p>
<div id="attachment_444" class="wp-caption alignnone" style="width: 504px"><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0065.jpg"><img class="size-large wp-image-444 " title="IMG_0065" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0065-494x329.jpg" alt="" width="494" height="329" /></a><p class="wp-caption-text">Nigdy wiecej wojny (No more war)　グダンスクはヴェステルプラッテにて、５月１日。</p></div>
<p>今年小生は5月1日をベルリンはコトブス門ことKotti周辺ではなく、ポーランド、しかも、第二次大戦の発端の地となったグダンスクはヴェステルプラッテWesterplatteで迎えたので、これはよい機会と当地で厳粛に反戦祈願をして参りました。が、労働者もとい貧乏人のお祭りという雰囲気はグダンスクにはなかったので、少々のストレスところではありませんでした。が、まもなく再来週末はベルリンはカーニバルなのでその分おおいに飲んで騒ぎたいといと思っております。さあ、皆で通りにでて気が済むまで歌い踊り騒ぎましょう。</p>
<p>ではまた自戒。次回はポーランド／ウクライナ話のあらためて第一回目と初日の話。</p>
<div class="shr-publisher-404"></div><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetBottom Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetBottom Automatic -->]]></content:encoded>
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		<title>山が転がる。Rollberg, Berlin-Neukölln</title>
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		<pubDate>Mon, 14 May 2012 14:27:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[Berlin-Neukölln]]></category>
		<category><![CDATA[Kodography]]></category>
		<category><![CDATA[スクワット／占拠]]></category>
		<category><![CDATA[ベルリン]]></category>
		<category><![CDATA[団地]]></category>
		<category><![CDATA[社会運動]]></category>

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		<description><![CDATA[<img width="188" height="124" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMGa1-188x124.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMGa" title="IMGa" />小生の自宅の近く、ベルリンはノイケルンにRollbergという界隈がある。 ここにはかつてのベルリナーキンデルの醸造所があって、長い間、といっても、その跡の再利用をめぐっていろいろ試験的に文化的な催しが開かれたり、またはクラブとして使われていた時期があったりした。自前の醸造タンクをもったビアハウスもキンデルが北ベルリンのヴァイセンゼーに引っ越してからかつての醸造所の中にできたが、もう５、６年前になるだろうか。 Größere Kartenansicht ところが、最近そのかつてのキンデルの地下倉庫がCubeというクラブとしてオープンしたのだけれど、ノイケルンで（まさか毎晩そんな値段であるわけもないが）20€もする（らしい）入場料のせいで、ヒップスタークラブもしくはジェントリフィケーションの権化とか小生の周辺では皮肉られてもいた。実際小生もまだそのリニューアル後のキンデル地下倉庫にはまだ足を踏み入れていない（というかいっても仕方が無いと思っている）。 キンデルの醸造所の側にはこれまたカオスなバルカンや東ヨーロッパの香ばしき蚤の市がでていることもあったが、その場所にも結局大手スーパーマーケットがオープンすることとなった。まあ、どこでもある工場跡の商業地域のようなものにできあがったのだが、その界隈も結局なんとなく特徴のない界隈になりつつあるとしている。 そんなものが瞬く間にできてくるノイケルンもまぎれも無くべルリンの一部なのであって、おそらくゲットーという言葉がささやかれていた時代がもはや過去のものになりつつある証なのだろう。それどころが、ヨーロッパ中からノイケルンへとヒップスターどもや（ってか一回その定義やっときましょう、次の御題として）やツーリストが殺到する昨今なのである。ますます貧乏人には住みづらい世の中になったものである。 そんな浮世ばなれしたベルリンはノイケルンのRollbergにはまだ他の世界と隔絶したような場所がある。それが通称&#8221;Rollbergsiedlung&#8221;（「ロルベルク団地」）と呼ばれる集合住宅街、つまり「団地」である。&#8221;Rollberg&#8221;といえば通常この団地のことをさすのだが、ここはノイケルンでもとりわけ悪名高い地域とされている。 RollbergはかつてはMietskaserneというベルリンが産業革命とともに発展をとげて19世紀後半に大量の労働者の居住させるためのアパートが乱立していた場所であり、時の経過とともに衛生状態も悪い、犯罪も多発する場所となっていた一方で、労働運動も活発化し、20世紀初頭にはベルリンを代表する労働者もとい左翼の拠点となった。1920年代や30年代には労働争議のこじれと反ナチ運動によって、警察との衝突も多発し、バリケードを築いて労働者がたてこもるという自体も頻発したという。 そんなRollbergも戦後50年代から60年代にかけて住居状態はさらに悪化し、地域全体を一度更地にして、そこに新たな住居や施設をたているという通称&#8220;Flächensanierierung&#8221;という再開発の対象となり、現在そこにみられるような「団地」が出来るに至った。 もちろん、地域を解体してなおもそれよりそこに留まることになった人たちは少数派で、新しくできた「団地」へと入居したの人々の大半は大量のGastarbeiter、移民労働者とその家族だった。現在もそこの居住者の三割強は外国籍あるいは国外にルーツをもつ人たちで、そして、人口の四分の一は18歳以下だとか。 もちろん、これはこのRollbergだけのトレンドではないし、ノイケルン全体でも特に珍しいケースでもない。そもそもベルリンにおける「団地」とはそうした人々のために建てられたもの、あるいはうがった言い方をするならば、「収容」するために建設されたともいえる。こうした「団地」はベルリン、特に西ベルリンではベルリンの壁周辺の地域に大量に建造された。 ところで、この&#8221;Flächensanierung&#8221;は、しかし、1970年代以降のヨーロッパの大都市でおこった社会運動を語る上でもキータームともいえることを指摘しておきたい。この再開発の名のもとの&#8221;Flächensanierung&#8221;は同時の西ベルリンでも計画されて、その結末の一端はWeddingのBrunnenstr.沿い(もちろん当時は壁沿い、現在も移民系人々が集中して住む「団地」ともいえる住宅街がある）やクロイツベルクはコトブス門Kottbusser Tor近辺に見られる。 クロイツベルクに関していえば、Kottbusser Tor周辺、Skalitzer Str.沿いの界隈だけでなく、いわゆるSO36というクロイツベルクの東側、シュプレー川とSkalitzerstr.の間の区域の大半が&#8221;Flächensanierung&#8221;の対象となったという。当時のその界隈もトルコ系のガストアルバイターとその家族や低所得者などが集中して住む界隈で、空き家も多く、その地区の家屋の大半の荒廃ぶりも極限をきわめていたというが、そうした家屋に移ってきたのがいわゆるHausbesetzter、つまりスクワッターなのである。その中にはアナーキストや68年世代なども多く含まれていただろうが、そういった&#8221;Flächensanierung&#8221;の対象となった区域（ベルリン以外ならばハンブルクのアルトナやザンクト・パウリといった地域など）が70年代以降の社会運動や文化活動の拠点となっていった。Hausbesetzung、家屋占拠あるいはスクワットはそういった行政による都市空間の均質化の企みとしての&#8221;Flächensanierung&#8221;へのプロテストという意味もあったといってもいいのだろうか。そんなこともあり、警察とパンク、アナーキスト、Antifa(アンチファシスト連合という極左）などが、近年まで、特に壁の崩壊後は東ベルリン中心部に舞台をうつして、自主自営による居住空間と文化活動の空間を求めて、絶え間なく衝突を繰り広げることになっていったのである。その名残は毎年5月1日のメーデーの日に垣間みることができる。ここ数年来すっかりストリートフェストのようになってしまったけれど・・・。 ベルリンで「団地」（ドイツ語ではPlattenbausiedlung、あるいは&#8221;Die Platte&#8221;ともいうが）とは非常にネガティブな意味合いがつきまとうことが多いけれど、小生の目にはこの&#8221;Rollberg”も普通の団地だ。移民系の人たちも多く見える。 夕方時々、近くにあるかつてのテンペルホーフ空港の跡へと散歩に出かける時に側をよく通る。世間的にはProblemkiez、いわゆる犯罪や社会的な問題を多く抱える地域などといわれるが、この季節の夕方には広場で人々が談笑したりや建物と建物と間では子供たちがボールで遊び回っているのが見える。人の気配が全くしない時間帯も一方である。ただの通行人にはみえないものがあるだろう。それでも、無機質にも写るいわれるそんな団地の中にも普通の人々の普通の営みがあるのだけはわかる。 ここ二年程ベルリンのそういった団地といわれる界隈やその団地がある郊外をよく歩いて来たが、うわついたベルリン中心部を離れ、そうした場所に赴くと、なにがしらこの街の深い「襞」に触れられるような気がする。むしろ解消しきれない深い混乱か。いや、それはどこにでもある大都会の「襞」の深部なのではなかろうか。 そろそろそういった話もしたいと思う。それなりに普段見知ったものとは違ったベルリンの顔、あるいは他のヨーロッパあるいは世界中の大都会とそうはかわらないベルリンの顔が見えて来ることだろう。 というわけで又自戒。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<img width="188" height="124" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMGa1-188x124.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMGa" title="IMGa" /><p></p><br /><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>小生の自宅の近く、ベルリンはノイケルンにRollbergという界隈がある。 </p>
<p>ここにはかつてのベルリナーキンデルの醸造所があって、長い間、といっても、その跡の再利用をめぐっていろいろ試験的に文化的な催しが開かれたり、またはクラブとして使われていた時期があったりした。自前の醸造タンクをもったビアハウスもキンデルが北ベルリンのヴァイセンゼーに引っ越してからかつての醸造所の中にできたが、もう５、６年前になるだろうか。<span id="more-269"></span></p>
<p><iframe width="440" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.de/maps?f=q&amp;source=s_q&amp;hl=de&amp;geocode=&amp;q=Rollbergstra%C3%9Fe,+Berlin&amp;aq=0&amp;oq=Rollberg&amp;sll=52.477082,13.431001&amp;sspn=0.015134,0.037165&amp;t=h&amp;ie=UTF8&amp;hq=&amp;hnear=Rollbergstra%C3%9Fe,+Neuk%C3%B6lln+12053+Berlin&amp;ll=52.483669,13.433018&amp;spn=0.018294,0.037766&amp;z=14&amp;iwloc=A&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.de/maps?f=q&amp;source=embed&amp;hl=de&amp;geocode=&amp;q=Rollbergstra%C3%9Fe,+Berlin&amp;aq=0&amp;oq=Rollberg&amp;sll=52.477082,13.431001&amp;sspn=0.015134,0.037165&amp;t=h&amp;ie=UTF8&amp;hq=&amp;hnear=Rollbergstra%C3%9Fe,+Neuk%C3%B6lln+12053+Berlin&amp;ll=52.483669,13.433018&amp;spn=0.018294,0.037766&amp;z=14&amp;iwloc=A" style="color:#0000FF;text-align:left">Größere Kartenansicht</a></small></p>
<p>ところが、最近そのかつてのキンデルの地下倉庫がCubeというクラブとしてオープンしたのだけれど、ノイケルンで（まさか毎晩そんな値段であるわけもないが）20€もする（らしい）入場料のせいで、ヒップスタークラブもしくはジェントリフィケーションの権化とか小生の周辺では皮肉られてもいた。実際小生もまだそのリニューアル後のキンデル地下倉庫にはまだ足を踏み入れていない（というかいっても仕方が無いと思っている）。 </p>
<p>キンデルの醸造所の側にはこれまたカオスなバルカンや東ヨーロッパの香ばしき蚤の市がでていることもあったが、その場所にも結局大手スーパーマーケットがオープンすることとなった。まあ、どこでもある工場跡の商業地域のようなものにできあがったのだが、その界隈も結局なんとなく特徴のない界隈になりつつあるとしている。 </p>
<p>そんなものが瞬く間にできてくるノイケルンもまぎれも無くべルリンの一部なのであって、おそらくゲットーという言葉がささやかれていた時代がもはや過去のものになりつつある証なのだろう。それどころが、ヨーロッパ中からノイケルンへとヒップスターどもや（<strong>ってか一回その定義やっときましょう、次の御題として</strong>）やツーリストが殺到する昨今なのである。ますます貧乏人には住みづらい世の中になったものである。 </p>
<p>そんな浮世ばなれしたベルリンはノイケルンのRollbergにはまだ他の世界と隔絶したような場所がある。それが通称&#8221;Rollbergsiedlung&#8221;（「ロルベルク団地」）と呼ばれる集合住宅街、つまり「団地」である。&#8221;Rollberg&#8221;といえば通常この団地のことをさすのだが、ここはノイケルンでもとりわけ悪名高い地域とされている。</p>
<p>RollbergはかつてはMietskaserneというベルリンが産業革命とともに発展をとげて19世紀後半に大量の労働者の居住させるためのアパートが乱立していた場所であり、時の経過とともに衛生状態も悪い、犯罪も多発する場所となっていた一方で、労働運動も活発化し、20世紀初頭にはベルリンを代表する労働者もとい左翼の拠点となった。1920年代や30年代には労働争議のこじれと反ナチ運動によって、警察との衝突も多発し、<a href="http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5c/Bundesarchiv_B_145_Bild-P046278%2C_Berlin%2C_Blutmai%2C_Sta%C3%9Fenbarrikade.jpg" target="_blank">バリケードを築いて労働者がたてこもる</a>という自体も頻発したという。 そんなRollbergも戦後50年代から60年代にかけて住居状態はさらに悪化し、地域全体を一度更地にして、そこに新たな住居や施設をたているという通称<a href="http://de.wikipedia.org/wiki/Fl%C3%A4chensanierung" target="_blank">&#8220;Flächensanierierung&#8221;</a>という再開発の対象となり、現在そこにみられるような「団地」が出来るに至った。 もちろん、地域を解体してなおもそれよりそこに留まることになった人たちは少数派で、新しくできた「団地」へと入居したの人々の大半は大量のGastarbeiter、移民労働者とその家族だった。現在もそこの居住者の三割強は外国籍あるいは国外にルーツをもつ人たちで、そして、人口の四分の一は18歳以下だとか。</p>
<p>もちろん、これはこのRollbergだけのトレンドではないし、ノイケルン全体でも特に珍しいケースでもない。そもそもベルリンにおける「団地」とはそうした人々のために建てられたもの、あるいはうがった言い方をするならば、「収容」するために建設されたともいえる。こうした「団地」はベルリン、特に西ベルリンではベルリンの壁周辺の地域に大量に建造された。 </p>
<p>ところで、この&#8221;Flächensanierung&#8221;は、しかし、1970年代以降のヨーロッパの大都市でおこった社会運動を語る上でもキータームともいえることを指摘しておきたい。この再開発の名のもとの&#8221;Flächensanierung&#8221;は同時の西ベルリンでも計画されて、その結末の一端は<a href="http://g.co/maps/9ky7h" target="_blank">WeddingのBrunnenstr.沿い</a>(もちろん当時は壁沿い、現在も移民系人々が集中して住む「団地」ともいえる住宅街がある）や<a href="http://g.co/maps/ner9e" target="_blank">クロイツベルクはコトブス門Kottbusser Tor近辺</a>に見られる。</p>
<p>クロイツベルクに関していえば、Kottbusser Tor周辺、Skalitzer Str.沿いの界隈だけでなく、いわゆる<a href="http://de.wikipedia.org/wiki/Berlin_SO_36" target="_blank">SO36</a>というクロイツベルクの東側、シュプレー川とSkalitzerstr.の間の区域の大半が&#8221;Flächensanierung&#8221;の対象となったという。当時のその界隈もトルコ系のガストアルバイターとその家族や低所得者などが集中して住む界隈で、空き家も多く、その地区の家屋の大半の荒廃ぶりも極限をきわめていたというが、そうした家屋に移ってきたのがいわゆるHausbesetzter、つまりスクワッターなのである。その中にはアナーキストや68年世代なども多く含まれていただろうが、そういった&#8221;Flächensanierung&#8221;の対象となった区域（ベルリン以外ならばハンブルクのアルトナやザンクト・パウリといった地域など）が70年代以降の社会運動や文化活動の拠点となっていった。Hausbesetzung、家屋占拠あるいはスクワットはそういった行政による都市空間の均質化の企みとしての&#8221;Flächensanierung&#8221;へのプロテストという意味もあったといってもいいのだろうか。そんなこともあり、警察とパンク、アナーキスト、Antifa(アンチファシスト連合という極左）などが、近年まで、特に壁の崩壊後は東ベルリン中心部に舞台をうつして、自主自営による居住空間と文化活動の空間を求めて、絶え間なく衝突を繰り広げることになっていったのである。その名残は毎年5月1日のメーデーの日に垣間みることができる。ここ数年来すっかりストリートフェストのようになってしまったけれど・・・。</p>

<a href='http://luegenlernen.de/2012/05/14/rollberg-berlin-neukolln/imga-2/' title='IMGa'><img width="88" height="88" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMGa1-88x88.jpg" class="attachment-thumbnail" alt="IMGa" title="IMGa" /></a>
<a href='http://luegenlernen.de/2012/05/14/rollberg-berlin-neukolln/img_4605/' title='IMG_4605'><img width="88" height="88" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_4605-88x88.jpg" class="attachment-thumbnail" alt="IMG_4605" title="IMG_4605" /></a>
<a href='http://luegenlernen.de/2012/05/14/rollberg-berlin-neukolln/img_4628/' title='IMG_4628'><img width="88" height="88" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_4628-88x88.jpg" class="attachment-thumbnail" alt="IMG_4628" title="IMG_4628" /></a>

<p>ベルリンで「団地」（ドイツ語ではPlattenbausiedlung、あるいは&#8221;Die Platte&#8221;ともいうが）とは非常にネガティブな意味合いがつきまとうことが多いけれど、小生の目にはこの&#8221;Rollberg”も普通の団地だ。移民系の人たちも多く見える。</p>
<p>夕方時々、近くにあるかつてのテンペルホーフ空港の跡へと散歩に出かける時に側をよく通る。世間的にはProblemkiez、いわゆる犯罪や社会的な問題を多く抱える地域などといわれるが、この季節の夕方には広場で人々が談笑したりや建物と建物と間では子供たちがボールで遊び回っているのが見える。人の気配が全くしない時間帯も一方である。ただの通行人にはみえないものがあるだろう。それでも、無機質にも写るいわれるそんな団地の中にも普通の人々の普通の営みがあるのだけはわかる。</p>
<p>ここ二年程ベルリンのそういった団地といわれる界隈やその団地がある郊外をよく歩いて来たが、うわついたベルリン中心部を離れ、そうした場所に赴くと、なにがしらこの街の深い「襞」に触れられるような気がする。むしろ解消しきれない深い混乱か。いや、それはどこにでもある大都会の「襞」の深部なのではなかろうか。</p>
<p>そろそろそういった話もしたいと思う。それなりに普段見知ったものとは違ったベルリンの顔、あるいは他のヨーロッパあるいは世界中の大都会とそうはかわらないベルリンの顔が見えて来ることだろう。</p>
<p>というわけで又自戒。</p>
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		<title>ウクライナとポーランドへサッカーを見に行ってきたのだが。</title>
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		<pubDate>Mon, 14 May 2012 10:20:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[Kodography]]></category>
		<category><![CDATA[ウクライナ]]></category>
		<category><![CDATA[フットボール]]></category>
		<category><![CDATA[ベルリン]]></category>
		<category><![CDATA[ポーランド]]></category>
		<category><![CDATA[ユーロ2012／ウクライナーポーランド]]></category>

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		<description><![CDATA[<img width="188" height="140" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0197a-188x140.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_0197a" title="IMG_0197a" />先週月曜ワルシャワより帰還。 Twitterなどでフォローしていただいている諸賢には御存知のことかもしれないが、4月の初頭からウクライナを約二週間、そして今回ポーランドを十日間旅していた。まもなく開催される「はず」のサッカーのヨーロッパ選手権、通称ユーロ2012、を控えた両国の直前を視察してきた。という聞こえ方はいいが、そもそも小生のような貧乏人にユーロなどという金持ちの為のお祭りを現地のスタジアムで堪能する余裕などはない。 チケットが高値の花なのは当然として(ウクライナでは聞いた所によると余りに余りまくっているらしいが、地元不在の大会運営のため、さもありなんというところ）、大会中高騰するのは確実とみられる当地の値段に見合わない宿泊施設に大金を投じる暇やひたすら同じ風景を眺めるだけの列車移動に費やす時間があったら、普段ならいくはずのないイタリアとかスペインでもいってうまい物を食べてビーチでゴロゴロしてもいいぐらいである。 それでも、中欧あるいは東ヨーロッパ研究に携わる身としては、ユーロを控えた、ここ十年ほどうんざりするほど訪ねてまわった両国が、どれぐらい変化をとげたか、それだけを目の当たりにするだけでも、両国に赴く価値ありというものでもある。それに、ユーロ本戦でなくとも、すでに完成している「はず」の大会が開催されるスタジアムで行われるリーグ戦ならば見ることもできる、その時期ならば、地元民であふれかえった（もしくはがらがらの）スタジアム、あるいはその周辺、サッカーにまつわる日常を粒さに観察することはできる、それもまた一興なれば、というのが当初の目論みであった。 けれどそれはいろんな意味で裏切られることにもなる。一方で様々なクリシェにも遭遇することにもなる。 これからしばらくその体験を思い起こす意味でも、それからこれからユーロを観戦に極東から遥々やってこられる諸賢への有益な情報を提供するという意味でも、しばらく小生の駄文におつきあいいただこうと思う。これをよんでいただいて、我も彼もとユーロ期間中に極東から異国への地へと諸賢が殺到されることになるのであれば、小生の目的は半ば達せられたともいえることになるだろう。 さて。今回の旅のルートをここでたどっておこう。 Going in Poland and Ukraine, shortly before EURO 2012 Poland &#38; Ukraine, April-May 2012 恐らくウクライナ二週間とポーランド十日間、合計での走破距離は6000㌔(グーグルマップのルートの単純な距離計算では約５５００㌔）を越えているのではなかろうか。地図をみていただければおわかりいただけると思うが、ひたすら移動に移動を強いられた旅だったともいえる（夜行バス一泊、夜行列車泊二泊）。だが、旅に移動はつきもの、それも醍醐味なのである。ウクライナでは、極東の我が祖国はいうまでもなく独逸とも比較のしようがないぐらいとは時の流れ方が違うのだ。 さて。時は4月3日、独逸はベルリン東駅、午後2時50分頃へと時計の針を戻すことにしよう。 そんなわけできりがいいところでまた自戒。ごーん。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<img width="188" height="140" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2012/05/IMG_0197a-188x140.jpg" class="attachment-medium wp-post-image" alt="IMG_0197a" title="IMG_0197a" /><p></p><br /><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>先週月曜ワルシャワより帰還。</p>
<p>Twitterなどでフォローしていただいている諸賢には御存知のことかもしれないが、4月の初頭からウクライナを約二週間、そして今回ポーランドを十日間旅していた。まもなく開催される「はず」のサッカーのヨーロッパ選手権、通称ユーロ2012、を控えた両国の直前を視察してきた。という聞こえ方はいいが、そもそも小生のような貧乏人にユーロなどという金持ちの為のお祭りを現地のスタジアムで堪能する余裕などはない。<span id="more-253"></span></p>
<p>チケットが高値の花なのは当然として(ウクライナでは聞いた所によると余りに余りまくっているらしいが、地元不在の大会運営のため、さもありなんというところ）、大会中高騰するのは確実とみられる当地の値段に見合わない宿泊施設に大金を投じる暇やひたすら同じ風景を眺めるだけの列車移動に費やす時間があったら、普段ならいくはずのないイタリアとかスペインでもいってうまい物を食べてビーチでゴロゴロしてもいいぐらいである。</p>
<p>それでも、中欧あるいは東ヨーロッパ研究に携わる身としては、ユーロを控えた、ここ十年ほどうんざりするほど訪ねてまわった両国が、どれぐらい変化をとげたか、それだけを目の当たりにするだけでも、両国に赴く価値ありというものでもある。それに、ユーロ本戦でなくとも、すでに完成している「はず」の大会が開催されるスタジアムで行われるリーグ戦ならば見ることもできる、その時期ならば、地元民であふれかえった（もしくはがらがらの）スタジアム、あるいはその周辺、サッカーにまつわる日常を粒さに観察することはできる、それもまた一興なれば、というのが当初の目論みであった。</p>
<p>けれどそれはいろんな意味で裏切られることにもなる。一方で様々なクリシェにも遭遇することにもなる。</p>
<p>これからしばらくその体験を思い起こす意味でも、それからこれからユーロを観戦に極東から遥々やってこられる諸賢への有益な情報を提供するという意味でも、しばらく小生の駄文におつきあいいただこうと思う。これをよんでいただいて、我も彼もとユーロ期間中に極東から異国への地へと諸賢が殺到されることになるのであれば、小生の目的は半ば達せられたともいえることになるだろう。</p>
<p>さて。今回の旅のルートをここでたどっておこう。</p>
<p><iframe src="http://maps.google.de/maps/ms?msa=0&amp;msid=200472668000339509701.0004bf973719abaed8feb&amp;hl=de&amp;ie=UTF8&amp;t=h&amp;ll=52.375599,27.333984&amp;spn=18.834405,33.398438&amp;z=4&amp;output=embed" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" width="455" height="350"></iframe><br />
<small><a style="color: #0000ff; text-align: left;" href="http://maps.google.de/maps/ms?msa=0&amp;msid=200472668000339509701.0004bf973719abaed8feb&amp;hl=de&amp;ie=UTF8&amp;t=h&amp;ll=52.375599,27.333984&amp;spn=18.834405,33.398438&amp;z=4&amp;source=embed">Going in Poland and Ukraine, shortly before EURO 2012 Poland &amp; Ukraine, April-May 2012 </a></small></p>
<p>恐らくウクライナ二週間とポーランド十日間、合計での走破距離は6000㌔(グーグルマップのルートの単純な距離計算では約５５００㌔）を越えているのではなかろうか。地図をみていただければおわかりいただけると思うが、ひたすら移動に移動を強いられた旅だったともいえる（夜行バス一泊、夜行列車泊二泊）。だが、旅に移動はつきもの、それも醍醐味なのである。ウクライナでは、極東の我が祖国はいうまでもなく独逸とも比較のしようがないぐらいとは時の流れ方が違うのだ。</p>
<p>さて。時は4月3日、独逸はベルリン東駅、午後2時50分頃へと時計の針を戻すことにしよう。</p>
<p>そんなわけできりがいいところでまた自戒。ごーん。</p>
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		<title>ベルリンを聴く。Weinerei, Fehrbelliner Straße, Berlin-Mitte, 2010年3月1日。</title>
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		<pubDate>Mon, 11 Jul 2011 10:26:02 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[Listen to Berlin]]></category>
		<category><![CDATA[ベルリン]]></category>

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		<description><![CDATA[最近聞いてみたらおもしろかったのでアップ。これも一年以上前のホームページがクラッシュする以前の記事。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 昔日本にいるころ良く集音マイクとMDをもってよく東京都内津々浦々をサンプリングと証しながら色々音を集めてまわっていたのだけれど、そんなこと もベルリンに来て以来、いつしかしなくなって久しい。最近、いつももって歩いていたフィルムカメラが二台とも壊れて、すでに2ヶ月くらいになるのだけれど、そんなわけで写真もとらなくなった。デジカメは相変わらず持ち歩いているのだが、当然のことながら満足のいく像はえられないし、最近はやたら動画をとることにしか使っていない。 とった動画の映像をみていると、（いうまでもなくデジカメの動画機能でとったものだから像の質は当然のことながらよくはない）、意外や意外、録音された音 の方にこそむしろ関心がゆく。人間の目とカメラとの関係同様、人間の耳とはまた別の音をカメラは録ったりもする。そしてその録った音からその音が録れれた 場所の像をイメージする、そして、ロゴスから出力する、という作業を今、バルカンでとったビデオを見ながら行っている最中なのだけれど、それを突然ベルリンでもやってみたくなった。 音から実際その音が録られた場所をイメージするには、実際に聞こえたこと、そして、録られた場所などの限られた情報から推理するしかない。それこそ、自分の想像力の随を総動員しなくてはならない。あたられたイメージからではあたられたイメージ以上のことを膨らませることはできない。聴くということからイメージを形象するには相当の想像力が必要なはずだ。しかし、音も、ある一つの場を織りなすひとつのイメージの構成要素となる。そんな人間の知覚のうちのひとつから一つの街の像なるものを作りだす、そんな試みをいつかはやってみようとおもってなかなか実現しなかった、あるいは、そういう機会にめぐまれなかったいうべきか、技術的な問題もあって、そんなわけで録った素材もで忘却の淵。そういう素材もそのうち復活させることも考えながら、ここのところ肌身欠かさず持ち歩いているipodtouchについているヴォイスレコーダーで試しにそのカフェの音を録ってみれば、おもった以上にかなり音がひろえることがわかり、今日のベルリンの日常初サンプリング。場所はMitte最後のDigital Bohemienの拠点のひとつ、もといこの界隈の古典ともなりつつあるWeinerei Cafe。なにが聞こえるだろう？どんなカフェを想像する？ 1. March 2010, Weinerei, Fehrbelliner Straße, Berlin-Mitte by Luegenlernen ではまた自戒。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p></p><br /><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>最近聞いてみたらおもしろかったのでアップ。これも一年以上前のホームページがクラッシュする以前の記事。<br />
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊</p>
<p>昔日本にいるころ良く集音マイクとMDをもってよく東京都内津々浦々をサンプリングと証しながら色々音を集めてまわっていたのだけれど、そんなこと もベルリンに来て以来、いつしかしなくなって久しい。最近、いつももって歩いていたフィルムカメラが二台とも壊れて、すでに2ヶ月くらいになるのだけれど、そんなわけで写真もとらなくなった。デジカメは相変わらず持ち歩いているのだが、当然のことながら満足のいく像はえられないし、最近はやたら動画をとることにしか使っていない。<span id="more-55"></span><br />
とった動画の映像をみていると、（いうまでもなくデジカメの動画機能でとったものだから像の質は当然のことながらよくはない）、意外や意外、録音された音 の方にこそむしろ関心がゆく。人間の目とカメラとの関係同様、人間の耳とはまた別の音をカメラは録ったりもする。そしてその録った音からその音が録れれた 場所の像をイメージする、そして、ロゴスから出力する、という作業を今、バルカンでとったビデオを見ながら行っている最中なのだけれど、それを突然ベルリンでもやってみたくなった。</p>
<p>音から実際その音が録られた場所をイメージするには、実際に聞こえたこと、そして、録られた場所などの限られた情報から推理するしかない。それこそ、自分の想像力の随を総動員しなくてはならない。あたられたイメージからではあたられたイメージ以上のことを膨らませることはできない。聴くということからイメージを形象するには相当の想像力が必要なはずだ。しかし、音も、ある一つの場を織りなすひとつのイメージの構成要素となる。そんな人間の知覚のうちのひとつから一つの街の像なるものを作りだす、そんな試みをいつかはやってみようとおもってなかなか実現しなかった、あるいは、そういう機会にめぐまれなかったいうべきか、技術的な問題もあって、そんなわけで録った素材もで忘却の淵。そういう素材もそのうち復活させることも考えながら、ここのところ肌身欠かさず持ち歩いているipodtouchについているヴォイスレコーダーで試しにそのカフェの音を録ってみれば、おもった以上にかなり音がひろえることがわかり、今日のベルリンの日常初サンプリング。場所はMitte最後のDigital Bohemienの拠点のひとつ、もといこの界隈の古典ともなりつつあるWeinerei Cafe。なにが聞こえるだろう？どんなカフェを想像する？</p>
<p><object height="81" width="100%"><param name="movie" value="http://player.soundcloud.com/player.swf?url=http%3A%2F%2Fapi.soundcloud.com%2Ftracks%2F1835644&amp;show_comments=true&amp;auto_play=false&amp;color=c86ce0"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param> <embed allowscriptaccess="always" height="81" src="http://player.soundcloud.com/player.swf?url=http%3A%2F%2Fapi.soundcloud.com%2Ftracks%2F1835644&amp;show_comments=true&amp;auto_play=false&amp;color=c86ce0" type="application/x-shockwave-flash" width="100%"></embed></object>   <span><a href="http://soundcloud.com/luegenlernen/1-march-2010-weinerei-invalidenstr-berlin-mitte">1. March 2010, Weinerei, Fehrbelliner Straße, Berlin-Mitte</a> by <a href="http://soundcloud.com/luegenlernen">Luegenlernen</a></span></p>
<p>ではまた自戒。</p>
<div class="shr-publisher-55"></div><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetBottom Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetBottom Automatic -->]]></content:encoded>
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		<title>ター、ター。</title>
		<link>http://luegenlernen.de/2011/07/03/%e3%82%bf%e3%83%bc%e3%80%81%e3%82%bf%e3%83%bc%e3%80%82/?utm_source=rss&#038;utm_medium=rss&#038;utm_campaign=%25e3%2582%25bf%25e3%2583%25bc%25e3%2580%2581%25e3%2582%25bf%25e3%2583%25bc%25e3%2580%2582</link>
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		<pubDate>Sun, 03 Jul 2011 19:47:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[ウクライナ]]></category>
		<category><![CDATA[ベルリン]]></category>
		<category><![CDATA[ポーランド]]></category>

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		<description><![CDATA[さて。夏はいったいどこへいってしまったか、という天気だけれど、突如雨のガリチアから初夏のガリチアへ、記憶は飛ぶ飛ぶ。ベルリンは現在午後９時半で、小雨、17度か。肌寒い。今年の夏はめためたに暑いところにいってもいいのでは、と思ったりもしている。というとどこだ、アラビア半島か、それともアフリカか、中央アジアか。さて。（以下昨年８月アップのログ） ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ ダー，ダー。 ベルリンでもこのダー、ダーを良く耳にはしないだろうか。ダー、ダー、と大きな声が聞こえてきた先にいるのは、たいてい、大声で携帯電話にむかって喋りかけるロシア人。 ターク、ターク。 ベルリンでは、このターク、ターク、もよく耳にする。その先にいるのは、ポーランド人。ロシア人に負けず劣らず、声も図体もでかいし、同国人と集団 行動することが大好きなゆえ、彼らもよく目立つ。その上通称ポラーケ（独逸人のポーランド人に対する蔑称、チェコ語やポーランド語ではポラークという）にカテゴライズされる人々は独特の威風をほこる。 彼らはトルコ人やヴェトナム人とならんでベルリンの4大マイノリティーを形成している。この彼らのダー、ダーとターク、タークを耳にしない日はないぐらいだ。 このダー、ダーとターク、タークの二カ国にはさまれてあるウクライナでは、特に西ウクライナ、ガリチアとよばれている地方では少し異なる。 ター、ター。 先日ショークヴァを訪ねた日のことを書いたけれど、今回はその次の週の話。 暗く雨にぬれた春が始まりかけたガリチアから初夏のクリミアへ。そして、そのクリミアからまたしてもガリチアへ帰還。ショークヴァでの曇り空から一転、一週間後のガリチアの空には雲一つなかった。照りつけるような日差し。ガリチアの夏はかくもきびしいのかと思わせるような初夏の雰囲気ただよう一日。古くはサッハー・マソッホ、そして20世紀にはいってはヨーゼフ・ロートやブルーノ・シュルツ。彼らの描くガリチアは、曇り空の下の湿った隙間だらけの穴ぼこだらけの石畳の路地よりも、ぎらぎらと照りつける太陽とその下でひからびた埃まみれた大地を真っ先に思い起こさせる。 そのロートの生まれ故郷であるブロディへ小生は向かっていた。リヴィウから北東に約80㌔程の道程。 リヴィウからブロディへ向かう中型のマルシュルートゥカは毎度のことながら満員で、車内はあっという間にうだるような暑さになった。4月でこれほど暑さならば、夏はどれほど暑くなるのだ、と思わせるほどだった。クーラーなど、もちろん、ある場所は限られている。 ブロディは、ロートが1920年代にフランクフルター・ツァイトゥングに寄稿した「ガリチアを旅して Reise durch Galizien」に記した通りの憂鬱な軒の低い建物が連なる街並み、ユダヤ人が人口の多数を占めるかつてシュテーテルとよばれていたような典型的な田舎街だった。町並みは正直いって美しくもないし、そして、ロートが何度も強調していたように、なんの特徴もない。これで雲が低くたれ込め雨が降りしきれば 憂鬱この上なかろう。ロートにまつわる痕跡をこの街に期待していた小生は良くも悪くも予期していた通りの軒の低い建物が並ぶ、やはり埃にまみれた通りをくぐり抜けながら、過去100年にこの街でどれほどの変化があったのだろう、と想像した。 よくも悪くも期待していていたようなガリチアのシュテーテルの憂鬱を充分に感じることができたが。 この旅ではガリチア出身の作家、特にロートやシュルツの生まれ故郷訪問がテーマの一つだったのだけれど、よくも悪くも観光という言葉とはまるで縁がない中欧の東の果て、あるいはヨーロッパが果ててアジアがはじまるともいえるような地域を旅しながら、これから先、十年先、どれほどの変化がもたらされるのだろうと思う。 変化はあったのかもしれない。 けれど。ベルリンからやってきた日本人にとってはそこは地の果てでもあった。もちろんガリチアから広大なユーラシア大陸がはじまるといってもよいのだけれど。インゲボルク・バッハマンだったか、ドナウ川の向こう側からサルマチアが、そしてアジアが始まるといったのは。その伝説の国サルマチアがあったのは、そもそも現在でいうガリチアのあたりといわれている。 ブローディではその街の規模と比して、かなり大きなシナゴーグの廃墟に出くわした。シュルツの故郷であり、彼がナチによって突如路上でその命を奪われるまでの50年にも満たない一生の殆どを過ごしたドロホヴィツィにも巨大なシナゴーグの廃墟があった。どちらも街の只中にあるにもかかわらず、誰にも顧みられることもなく、静かに自然に帰ろうとしていた。 ロートとシュルツの故郷を尋ねた日は折しも４月にしては夏を思わせる日差しが照りつけていた。雨が降りしきるより遥かにまし。もちろん、ガリチアとメランコリー、そういった小生のステレオタイプとはまるで違った日差し。 そんな初夏のブローディを後にして、小生は再びリヴィウへと向かうマルシュルートゥカの車上にあった。リヴィウから10分ほど車をはしらせて左手の丘に大きな城を思わせる建物が目にはいった。すでにブロディへの途上その城を目にしていた。 ピドヒルツィ、とバスの停留所にあった。その停留所に止まったバスから迷わず飛び降りた。停留場のある道の左右両側は満開になった菜の花に包まれていた。その城のある丘のある方にむかって畑の間の小道を歩き出した。 あいもかわらず初夏の日差しは厳しかった。それでも、雲一つなく晴れ渡ったガリチアの初夏の大地を歩む足は軽く、その美しい風景を楽しみながら、いつしか城がある丘の下の小さな村にたどり着いた。 ふと小生は直観から道を左にとったが、いつのまにかコルホーズらしき農場の中に入ってしまった。ふと横をみると、コルホーズの従業員と思しき兄貴が小生をみている。とっさに、城へは、と訪ねる。すると、兄貴は反対側の出口をでて左だ。まっすぐだ。簡単だ。まちがえんな。という。 しかし、コルホーズをでて東側へ向かう道は確かに丘の上に向かうようではあったけれど、実際は穴ぼこでだらけですぐ先からは薮の中でとても道とよべ るようなものではない。しばし、左右を見渡すと、側にある家の庭には大勢人が見える。庭でパーティーでもやっているようだった。道を尋ねるべくそちらのほうに足をむけようとすると、すると、背後から車が一台やってきて小生の背後でとまる。そのドライバーの若い兄貴に道を訪ねるが要領をえない。城はたしかにもう真上に見えるのだが。 ここで女の子達をまってるんだがね、城のほうからくるはずだから、この道で間違いないはずなんだけどさ、とかいう。その兄貴が喋っていたのはウクライナ語ではなくてロシア語だった。 そうこうするうちに庭にいた一人が小生たちに気がついてこちらへ向かってきて、あんちゃんたち、城へいきたいのか。だったら、もどって、コルホーズの向こうにある道が城の正面へ通じとるぎゃ、と。 しかし、そんな遠回りをするのか、といぶかしんだ小生は、いやいや、城に上がるのは僕だけで、この道歩いて城にいけますんかいな、と尋ねると、ほんだらこの道ずっとあがっていくだけだぎゃ、という。prjama（ロシア語でまっすぐ）でんなと、いう小生に対して、おっさんは、そうだぎゃ、 prosto(ウクライナ語とポーランド語でまっすぐ？）だぎゃ、という。 ロシア語とウクライナ語の短いやりとりを経て、小生は城に向かう坂道へととりかかる。穴ぼこだらけで道の勾配は険しい。 すると目の前から背の高いブロンドの女性が鶏のようにひょこひょこと小刻みに足を前に運びながら道をくだってくるのが見えた。ものすごい高いハイヒールをはいているのが遠目にもわかった。 ウクライナ美女とハイヒール。クリシェともいえる組み合わせ。 とはいえ、正面から歩いてくるのはものすごい美女だった。ウクライナでもこのガリチア近辺でしかみかけない。正直なところ西ヨーロッパではほぼお目にかかることはないスタイルと美貌が完璧な形でそろった女性が高い割合でこのガリチアにはいるような気がする。独逸人などとは比べ物にならぬ。 ガリチアはヨーロッパでも指折りの美男美女の地なのかもしれないと思う時がある。 マゾヒズムの語源となった独逸語作家のレオポルド・サッハー・マソッホもガリチアの首都リヴィウの生まれだ。その彼もカルパチアの山の麓のガリチアは絶世の美女を産する地とあちこちで書いている。そんな彼が「毛皮を着たヴィーナス」をはじめとした、ガリチアの美女をテーマにした哲学的（！）妄想小説 の数々を書いたのもさもあらん、と納得するぐらいの美女が時々やはりこの地にはいるのかもしれない。 すれ違い際、城へいくにはこの道で間違いないね、と小生は尋ねる。するとすれ違い際の美女は顔をあげて小生を見て微笑みながらこう言う。 ター、ター。 あの「ター、ター」を今頭の中で反芻しながら、あれは天使が小生の際を通り過ぎた一瞬のささやきではないか、と今でも思うことがある。  &#8230;]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p></p><br /><!-- Start Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><!-- End Shareaholic LikeButtonSetTop Automatic --><p>さて。夏はいったいどこへいってしまったか、という天気だけれど、突如雨のガリチアから初夏のガリチアへ、記憶は飛ぶ飛ぶ。ベルリンは現在午後９時半で、小雨、17度か。肌寒い。今年の夏はめためたに暑いところにいってもいいのでは、と思ったりもしている。というとどこだ、アラビア半島か、それともアフリカか、中央アジアか。さて。（以下昨年８月アップのログ）</p>
<p><span id="more-28"></span></p>
<p>＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊</p>
<p>ダー，ダー。</p>
<p>ベルリンでもこのダー、ダーを良く耳にはしないだろうか。ダー、ダー、と大きな声が聞こえてきた先にいるのは、たいてい、大声で携帯電話にむかって喋りかけるロシア人。</p>
<p>ターク、ターク。</p>
<p>ベルリンでは、このターク、ターク、もよく耳にする。その先にいるのは、ポーランド人。ロシア人に負けず劣らず、声も図体もでかいし、同国人と集団 行動することが大好きなゆえ、彼らもよく目立つ。その上通称ポラーケ（独逸人のポーランド人に対する蔑称、チェコ語やポーランド語ではポラークという）にカテゴライズされる人々は独特の威風をほこる。</p>
<p>彼らはトルコ人やヴェトナム人とならんでベルリンの4大マイノリティーを形成している。この彼らのダー、ダーとターク、タークを耳にしない日はないぐらいだ。</p>
<p>このダー、ダーとターク、タークの二カ国にはさまれてあるウクライナでは、特に西ウクライナ、ガリチアとよばれている地方では少し異なる。</p>
<p>ター、ター。</p>
<p>先日ショークヴァを訪ねた日のことを書いたけれど、今回はその次の週の話。</p>
<p>暗く雨にぬれた春が始まりかけたガリチアから初夏のクリミアへ。そして、そのクリミアからまたしてもガリチアへ帰還。ショークヴァでの曇り空から一転、一週間後のガリチアの空には雲一つなかった。照りつけるような日差し。ガリチアの夏はかくもきびしいのかと思わせるような初夏の雰囲気ただよう一日。古くはサッハー・マソッホ、そして20世紀にはいってはヨーゼフ・ロートやブルーノ・シュルツ。彼らの描くガリチアは、曇り空の下の湿った隙間だらけの穴ぼこだらけの石畳の路地よりも、ぎらぎらと照りつける太陽とその下でひからびた埃まみれた大地を真っ先に思い起こさせる。</p>
<p>そのロートの生まれ故郷であるブロディへ小生は向かっていた。リヴィウから北東に約80㌔程の道程。</p>
<p>リヴィウからブロディへ向かう中型のマルシュルートゥカは毎度のことながら満員で、車内はあっという間にうだるような暑さになった。4月でこれほど暑さならば、夏はどれほど暑くなるのだ、と思わせるほどだった。クーラーなど、もちろん、ある場所は限られている。</p>
<p>ブロディは、ロートが1920年代にフランクフルター・ツァイトゥングに寄稿した「ガリチアを旅して Reise durch Galizien」に記した通りの憂鬱な軒の低い建物が連なる街並み、ユダヤ人が人口の多数を占めるかつてシュテーテルとよばれていたような典型的な田舎街だった。町並みは正直いって美しくもないし、そして、ロートが何度も強調していたように、なんの特徴もない。これで雲が低くたれ込め雨が降りしきれば 憂鬱この上なかろう。ロートにまつわる痕跡をこの街に期待していた小生は良くも悪くも予期していた通りの軒の低い建物が並ぶ、やはり埃にまみれた通りをくぐり抜けながら、過去100年にこの街でどれほどの変化があったのだろう、と想像した。</p>
<p>よくも悪くも期待していていたようなガリチアのシュテーテルの憂鬱を充分に感じることができたが。</p>
<p>この旅ではガリチア出身の作家、特にロートやシュルツの生まれ故郷訪問がテーマの一つだったのだけれど、よくも悪くも観光という言葉とはまるで縁がない中欧の東の果て、あるいはヨーロッパが果ててアジアがはじまるともいえるような地域を旅しながら、これから先、十年先、どれほどの変化がもたらされるのだろうと思う。</p>
<p>変化はあったのかもしれない。</p>
<p>けれど。ベルリンからやってきた日本人にとってはそこは地の果てでもあった。もちろんガリチアから広大なユーラシア大陸がはじまるといってもよいのだけれど。インゲボルク・バッハマンだったか、ドナウ川の向こう側から<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%A4">サルマチア</a>が、そしてアジアが始まるといったのは。その伝説の国サルマチアがあったのは、そもそも現在でいうガリチアのあたりといわれている。</p>
<p><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/07/IMG_9829.jpg"><img class="alignnone size-medium wp-image-165" title="Synagogue, Brody, Ukraine" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/07/IMG_9829-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>ブローディではその街の規模と比して、かなり大きなシナゴーグの廃墟に出くわした。シュルツの故郷であり、彼がナチによって突如路上でその命を奪われるまでの50年にも満たない一生の殆どを過ごしたドロホヴィツィにも巨大なシナゴーグの廃墟があった。どちらも街の只中にあるにもかかわらず、誰にも顧みられることもなく、静かに自然に帰ろうとしていた。</p>
<p>ロートとシュルツの故郷を尋ねた日は折しも４月にしては夏を思わせる日差しが照りつけていた。雨が降りしきるより遥かにまし。もちろん、ガリチアとメランコリー、そういった小生のステレオタイプとはまるで違った日差し。</p>
<p>そんな初夏のブローディを後にして、小生は再びリヴィウへと向かうマルシュルートゥカの車上にあった。リヴィウから10分ほど車をはしらせて左手の丘に大きな城を思わせる建物が目にはいった。すでにブロディへの途上その城を目にしていた。</p>
<p>ピドヒルツィ、とバスの停留所にあった。その停留所に止まったバスから迷わず飛び降りた。停留場のある道の左右両側は満開になった菜の花に包まれていた。その城のある丘のある方にむかって畑の間の小道を歩き出した。</p>
<p><a href="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/07/IMG_9858.jpg"><img class="alignnone size-medium wp-image-166" title="Pidhirsti, Ukraine" src="http://luegenlernen.de/wp-content/uploads/2011/07/IMG_9858-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" /></a></p>
<p>あいもかわらず初夏の日差しは厳しかった。それでも、雲一つなく晴れ渡ったガリチアの初夏の大地を歩む足は軽く、その美しい風景を楽しみながら、いつしか城がある丘の下の小さな村にたどり着いた。</p>
<p>ふと小生は直観から道を左にとったが、いつのまにかコルホーズらしき農場の中に入ってしまった。ふと横をみると、コルホーズの従業員と思しき兄貴が小生をみている。とっさに、城へは、と訪ねる。すると、兄貴は反対側の出口をでて左だ。まっすぐだ。簡単だ。まちがえんな。という。</p>
<p>しかし、コルホーズをでて東側へ向かう道は確かに丘の上に向かうようではあったけれど、実際は穴ぼこでだらけですぐ先からは薮の中でとても道とよべ るようなものではない。しばし、左右を見渡すと、側にある家の庭には大勢人が見える。庭でパーティーでもやっているようだった。道を尋ねるべくそちらのほうに足をむけようとすると、すると、背後から車が一台やってきて小生の背後でとまる。そのドライバーの若い兄貴に道を訪ねるが要領をえない。城はたしかにもう真上に見えるのだが。</p>
<p>ここで女の子達をまってるんだがね、城のほうからくるはずだから、この道で間違いないはずなんだけどさ、とかいう。その兄貴が喋っていたのはウクライナ語ではなくてロシア語だった。</p>
<p>そうこうするうちに庭にいた一人が小生たちに気がついてこちらへ向かってきて、あんちゃんたち、城へいきたいのか。だったら、もどって、コルホーズの向こうにある道が城の正面へ通じとるぎゃ、と。</p>
<p>しかし、そんな遠回りをするのか、といぶかしんだ小生は、いやいや、城に上がるのは僕だけで、この道歩いて城にいけますんかいな、と尋ねると、ほんだらこの道ずっとあがっていくだけだぎゃ、という。prjama（ロシア語でまっすぐ）でんなと、いう小生に対して、おっさんは、そうだぎゃ、 prosto(ウクライナ語とポーランド語でまっすぐ？）だぎゃ、という。</p>
<p>ロシア語とウクライナ語の短いやりとりを経て、小生は城に向かう坂道へととりかかる。穴ぼこだらけで道の勾配は険しい。</p>
<p>すると目の前から背の高いブロンドの女性が鶏のようにひょこひょこと小刻みに足を前に運びながら道をくだってくるのが見えた。ものすごい高いハイヒールをはいているのが遠目にもわかった。</p>
<p>ウクライナ美女とハイヒール。クリシェともいえる組み合わせ。</p>
<p>とはいえ、正面から歩いてくるのはものすごい美女だった。ウクライナでもこのガリチア近辺でしかみかけない。正直なところ西ヨーロッパではほぼお目にかかることはないスタイルと美貌が完璧な形でそろった女性が高い割合でこのガリチアにはいるような気がする。独逸人などとは比べ物にならぬ。</p>
<p>ガリチアはヨーロッパでも指折りの美男美女の地なのかもしれないと思う時がある。</p>
<p>マゾヒズムの語源となった独逸語作家のレオポルド・サッハー・マソッホもガリチアの首都リヴィウの生まれだ。その彼もカルパチアの山の麓のガリチアは絶世の美女を産する地とあちこちで書いている。そんな彼が「毛皮を着たヴィーナス」をはじめとした、ガリチアの美女をテーマにした哲学的（！）妄想小説 の数々を書いたのもさもあらん、と納得するぐらいの美女が時々やはりこの地にはいるのかもしれない。</p>
<p>すれ違い際、城へいくにはこの道で間違いないね、と小生は尋ねる。するとすれ違い際の美女は顔をあげて小生を見て微笑みながらこう言う。</p>
<p>ター、ター。</p>
<p>あの「ター、ター」を今頭の中で反芻しながら、あれは天使が小生の際を通り過ぎた一瞬のささやきではないか、と今でも思うことがある。</p>
<p>ではまた自戒。</p>
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