ベルリンからまた別の「ベルリン」へ

ベルリンなる無縁の地をあとに 僕が14年の時を過ごしたベルリンとは無縁の地ではないか、という思いが京都に帰還して一年経とうとする今になって首をもたげてきた。 合計2年間に及んだチェコでの日々を挟みながら、合計7年弱の時を、つまり、ベルリンで過ごした時のほぼ半分をほど、ノイケルンというベルリンの中心部の南東の一角を占めるその場所で過ごした。ノイケルンはベルリンの中でも最も「ドイツ」国外に自らのルーツを持つ人が多い界隈で、その割合は40パーセント以上にも登るという。 そのノイケルン区の歴史的中核をなすベーミッシュ・リックスドルフBömisch-Rixdorfという場所は、そもそもは、17世紀に起こった30年戦争後のボヘミアの再カトリック化の波の中で、そうした故郷を追われ信仰の自由を求めてやってきたフス派の新教徒の難民たちが作った居住区だった。 時が経ち、ベルリンがプロイセンの首都となったときに、ノイケルンはこの都市でも屈指の労働者街となった。労働者とはプロレタリアとは近代以降における無縁の人々たちの異称であるのかもしれない。そして、冷戦期にはノイケルンは外国人ガストアルバイターが集住する場所となり今に至る。ここ数年の変化も色々にある。けれど、現在にいたるまで民族色豊かなこの街はその地に「縁」を持たない人々が集う場所であり続けている。 世界中から様々なバックグラウンドを持った人々が、無縁たることを求めて集う栖。いうまでもなく、世界中の大都市と呼ばれる場所にはそうしたアジールに比肩されるべき所がゴマンとあるだろう。そのベルリンを世界都市たらしめるのは、こうした街角を無数に内包しているからこそだ。 ベルリンという都市はそもそもの始まりからこうした移民や難民たちが方々から集住して成った場所だ。シュプレー川という北海に注ぎ込むこの川が澱んで作られた中洲に築かれたこの街。凡そ人の住むにも難渋した沼沢地であったことの街には自らの故郷を追われた人々が歴史的に多く集住してきた。 前述の今のノイケルンの礎を築いたボヘミアからやってきたフス派の人々だけでなく、同じく新教徒でも、ほぼ同じ時期にフランスを追われたユグノー教徒、それに加えて各地を信仰の理由だどで追われた人々が、当時難民として、まず都市としての形をなす初期のころの18世紀初頭のベルリンに辿り着いた。同時にベルリンが世界都市となったこの頃、この後の世界都市の礎を築く上で大きな役割を果たしたのはそうした人々であったと言っても過言ではない。 20世紀に入って、ベルリンはさらに混乱を極めた欧州の縮図としての似姿をその都市としての現れの中に特徴づけていった。 戦間期のベルリンはロシアをはじめとした東ヨーロッパからの亡命者たちの群を迎える。その中には多くのユダヤ人が含まれていた。そして、1930年代に入ると、ナチスによって追われた人々の群れと故郷を失った人々の列を目の当たりにすることになった。その中で、多くの人命が失われた。多くの人々が住処を追われた。 以来、20世紀の歴史の中でも例にもれず、そうした悲劇の只中にあったベルリンからは世界各地へと人が去っては、また別の場所からベルリンへは人が到達する。この21世紀のこの時代においてもこの街の似姿はなにも変わらない。ベルリンでここ数年見かけた難民の人の群れのことを忘れようはない。ベルリンという無縁の地を目指してやってくる人々に生まれた場所や出自は関係ない。 それでも、都市として形を成してくるのに費やしてきたこの300年そこそこの時間がもたらした都市の厚みというものは一見、京都やプラハといった都市に比べれば、平板なものに見える。が、年月は問題ではない。都市それ自体の厚みとは時の流れとは関わりがない。その流れがいかに澱むか、そこから何かが生まれるか、そこに都市の本質はある。今だ街のそこここにある虫食いのように穿たれた空白が空き地がこの街で流れる時間の澱みのようなものであると同時にこの都市の本性を象徴していると僕はずっと考えていた。 それがこの街に惹きつけられる理由のようなものとずっと思ってきた。 ベルリンは停滞などしない 20世紀の半ばごろのことだ。冷たい戦争という世界体制だった頃、この都市の中心部に突如として街を東西に分割する壁が作られた。ベルリンの壁のことだ。 その壁の周りには誰も住みたがることもなかった。一晩で壁の此方と彼方に住む同じ都市の住民が二つの異なるイデオロギーを信奉して相対することになってしまった。 いつしか、その壁の周辺は文字通りの空白が広がりを見せていった。 この街に住む人たちの共同幻想。空白がいつかこの都市全体を埋め尽くす、という。本来は澱みであるはずのものが全てを覆い尽くす。その空白には蓄積され充填される一見澱みのような何か積み重なる。そうした物質的な一見何もないような空白ががいつかは無縁の人々を繋ぐ栖となること。それがベルリンに集う人たちの夢であったのだろうと。その夢の只中に今も人は集う。一晩だけの祭りと知りつつ。だが、その祭りは随分長く続くことになった。誰もが永久に続くとを願うような。 その中で執り行われていた祭は、政治的空白の中に生じた澱んだ空白の中で生じた出来事だった。それでも、そうした一見ただの澱みに見える空白を繋ぐ栖へとするようなついの住処へと変えてしまうような大掛かりな転覆装置の一つであった。だから、祭のないベルリンとはいったいなんだというのだろう。 祭のない京都という街が考えられるだろうか。僕は今はその京都にいる。時はうつろえど、日々のカレンダーをめくるたびに祭が其処彼処にあることがわかる。夏の最中の祇園祭。山や鉾が京都の市中の路上に立ち上がるのを目の当たりに、間近に迫った祭りの高揚感が呼び醒まされていく。 ベルリンという都市の本能が目覚める場所とは、それは有象無象の無縁の人々が集うことで自ずから起る祭にこそあるとずっとおもっていたし、今も思っている。だから、僕もそうした時と場所の澱みの中に、つまりは祭の日々へと、嬉々として身を躍らせた。こうして、有象無象といた数え切れない無縁たろうとした人々のうちの一人となった。ベルリンという街に起こる出来事で最も人を呼び起こす出来事とはいわゆるパーティーと呼ばれるものを指すことは言うまでもない。それは一つの政治的な出来事ですらある。それは無縁の人々を結びつけるような鎹のようなものでもあったろうか。 ベルリンには本来何もない。いつもそう思っている。この街は本来的には物質的文化は似合わないし、縁遠いはずでもあった。 ところが、物質文化漬けになった人々がこうした目に見えない有象無象のベルリンという都市にただ与えられたられた恵みを収奪ひいては根絶やしにしてしまう。本来、祭は誰からも奪えないし、特定の誰かのものですらない。ただそこに生じ与えられるのみだ。だから、それを徹底してコントロールしようとする権力やその無償の贈与とその出来事と恩恵を脅威に思う資本主義はそれを弾圧する。あるいは、自らの都合の良いよう改竄しようとする。 残念ながらそれが21世紀初頭のベルリンの現在である。無論、それは多くの人が誤解しているようだが、自然の摂理でも何でもない。邪な意図を持った人為がそうさせたとのだ、と断言しよう。 「中欧」の中のベルリンでの日々 ベルリンとその周辺の中欧での過ごした14年程の時間、過ごした旅の日々と出会い、出来事。今、中欧を遠く離れていればこそ、自らが習得してきた言葉が紡ぎ出す綾なるものを通じて、何かを明るみにもたらしたいと自ら熱望する記憶と出来事との遭遇が今もなお頭をよぎる。 僕の脳内にあったヨーロッパ地図は無論ベルリンを拠点としていたが、周りの友人たちはこぞって、やつの脳内地図にはベルリンから西側が存在しない、と揶揄した。それぐらい小生はベルリンから東の方角へ足を向け続けていた。14年間ヨーロッパに住んでいた間、結局パリはおろかロンドンにも行くことはなかった。だが、ベルリンから東へ列車を走らせて数時間のプラハやワルシャワには幾度となく、そのさらに東に位置するキエフやブカレストにも何度足を運んだことか。 ベルリンにやって来ても、小生はドイツという国にはまるで関心がなかった。無論、ドイツ語圏の文化については中学高校時代から音楽や文学を通して払い続けてきたとはいえ。日本の大学時代の専攻はロシア文学だったこともある。だが、実際はロシア語に関しては落第寸前だったのが実情だった。結局ベルリンという街にやってきたのは、ドイツという国や文化への関心というよりも、ベルリンという街への愛ゆえに他ならなかった。 ところが。ベルリンにやって来てすぐに、東京での大学での4年間ではついぞ使う機会はおろか習得の意志すらもなくなっていたロシア語を話す機会がやってきた。ベルリンで当初通い始めたノイケルンにあるドイツ語学校はトルコ人やアラブ語圏からの学生だけでなく、中東欧からの留学生も多かった。彼らのうちにロシア語圏からの留学生がいるとわかった時、恐る恐る口をついて出てきたロシア語は周りを驚愕させたことは言うまでもない。その語学学校の教室の片隅で、ロシア人やウクライナ人、もとい旧ソ連圏からやってきた留学生たちは喜んで小生の全く大学の4年間では殆ど見につかなかったはずのロシア語に耳を傾けてくれた。こうやって、ベルリンでようやくロシア語を、そして中欧あるいは東欧と呼ばれる場所についてもう一度学び直そうというモチベーションがじわじわと湧いてきた。 ベルリンは東西ヨーロッパを見渡せばその全くの中心点にある。小生の関心がここで、ベルリンという場所と結びついた。この街にいる以上はこのメリットを生かさない手はないという確信となった。 ドイツに来てからも多少の紆余曲折はあって、最終的には、美学とメディア論が主専攻だったけれど、結局また元の鞘に収まったというやつで、修士を終わる頃には、西スラブ学の研究室に所属していた。そして、博士課程に行くようになってからは、多分ずっとこの世界で生きていくんだろうと思っていた。 ロマと呼ばれる人々との出会い こうして14年間ベルリンにいる間何度となくその東方、そのまたアジアとヨーロッパの間のような場所を旅してきた。その旅の途上で、ジプシーあるいは正しくはロマと呼ばれる人々に出会う機会が何度となくあったことは、今からするとある種の必然だった。常に彼らと遭遇した。僕がベルリンでの最後の年月を過ごしたノイケルンでも、プラハにも彼らはいた。 世間でジプシー、ドイツ語ではチゴイナー、チェコ語ではチカーニーなど呼ばれる人々との遭遇から、今に至るまでなにがしらの霊感だけでなく、世界の見方を変えるような契機を与えられたと思っている。彼らは、現在に至るまでにどんな苦難あってきたのか、そして今もこの世知辛いグローバリズムとそれに対するナショナリズムの間に揺れるこの世界の中で、僕らと同じスタートラインにすら立つことを許されない差別と偏見を受け続けている。斯様な事情を知るに従い、初めはそうした境遇に置かれる人々に対する同情から、ヨーロッパでの最後の5年間は彼らのことを追い続ける日々を過ごした。だから、一時チェコにまで拠点を移してその研究に身を入れようとした時期もあった。 何かを彼らに投影しようとしていようとしていたのだと思う。何を映しだそうとしていたか、は結局今の所わからず仕舞いで、その作業は何かの形を結ぶには未だ至っていない。手にあまる難題だったことは間違いない。そこまで、僕は人生を濃く生きてきたわけではなかったことをその現実を前に思い知らされることになった。 けれど、彼ら彼女たちが僕の人生に与えてくれた霊感こそが、京都帰還後の現在の僕をさらに生かし続けてくれていると思っている。ともすれば、怠惰に思考停止に陥りがちな日本での生活の中で彼らの存在を思い出すことはこの上ない刺激というほかない。だから、彼らの事を追いかけてまた欧州の地へと足を運ぶ日はまたそうは遠くもない、という確信すらある。是非また別の旅の道筋にて彼らと遭遇できればなどと思ったりしている。 ベルリンの倦怠は寧ろ自らの倦怠と怠惰 もう何度もこのブログ上でも書いていたが、チェコに一時的に拠点を移したのは、ベルリンへの幻滅が、一時期限界に達したこともあった。周りにはもうベルリンには戻ってこないと宣言してプラハに居を移した。けれど、何度も過去のログの中で書いたけれど、それから2年も経つか経たないうちに、結局、僕はベルリンに戻ってきてしまった。去年なんかはほぼ毎月最低一回はプラハに行って、1週間は過ごしていたぐらいなのだけれど。ベルリンとは、いつも旅立ち、あるいは旅の休息のために戻ってくる場所とぐらいに考えていたから、そうした生活は僕に取っては御誂え向きだった。 僕のベルリンでの生活は誰かにオカラを分けてもらってようやく暮らしていける程度のもので、だから、物質的世界とは全く無縁だった。けれど、豊かな人間関係にも恵まれて、その経済的不自由さを感じることはない自由な生活を満喫することをできていた。精神的には非常に健全な時間だった。僕の周りの世界各地からやってきてベルリナーになった人々が僕のそうした日々を支えてくれた。 京都に帰ってくるや否や、食扶持のことだけを日々考えるようになったのだから、やりにくいたら仕方がない。でも、もうベルリンでのそうした生活がなかったかのようにこなしている。自分も周りに容易に染まうのかと溜息もつくのみ。 けれど。ベルリンでの最後の数年の生活では、僕の生活の核のところで、何か特別な関心を引くことはほとんどなかった。本音をいうと、プラハから帰ってきた僕はベルリンでの退屈な日々に気が狂いそうだった。だから、今でも思う。あのまま、プラハに踏みとどまり、チェコやあるいはその近隣の諸国に出かける日々を続けていればと。毎日が冒険の日々過ごせたのだから。でも、その場合の生活はどうだったのだろう、とその危惧が頭からずっと離れなかった。 世界の縮図か ところが、実際はベルリンという都市の中で僕が退屈していたのだろうか、という疑問すら首をもたげる。あるいは、今でも時々思うのだが、ベルリンという都市が怠惰な僕に対して退屈してしまったのではないか、とも。 ベルリンは、その一部のノイケルンがなぜ世界の縮図のようなところかということに気がつかされるのは、いつも大体、長期に渡った旅行やベルリン以外のヨーロッパの街での滞在の後のことだった。 昨年の秋ごろなのだが、南東ヨーロッパでの2週間半に及んだ現在のところ最後のロマについてのリサーチ旅行を終えて帰ってきたばかりの次の日ことだ。朝、朝食を買い出しに家の玄関を出て、マーケットに買い物に行って、パン屋とコーヒー屋に寄って、家の玄関にまたたどり着くまでのせいぜい30分から40分の間に聞こえてきた言語を思いつく限り数え上げてみた。 ドイツ語、英語、トルコ語、アラビア語、セルビア・クロアチア語、ペルシャ語、ルーマニア語、ベトナム語、ヘブライ語、フランス語、ポーランド語、スペイン語、ブルガリア語、アルバニア語などだったか。つまり、その2週間の旅の間に聞いた言語の殆どがその僅かの間に僕の耳に飛び込んできた。 プラハに一時住んでいたおり、あるいは、京都からでの一時の休暇を終えてベルリンに戻ってきた時にも同じような体験をしてきた。全ては、現在の世界の縮図みたいな時間と場所の出来事の一つだったのだろうと今でも思う。 僕はそこまで考えてふと気付いた。遠く離れたここと彼処が一つの線で繋がれたことに。京都や大阪、いうに及ばず、この日本列島という場所がそのようなアジールの栖ではないか、という問いすら首を擡げたからだ。それは短絡的思考なのだろうか。僕たちのDNAの根底にあるのは、僕たちの遠い祖先たちが無縁たるモノたちの集合体であろうかと。それを考えると、日本という国家であり、その国家の根底であると考えられている天皇制などというものは、そうした僕たちの日本列島という太平洋という大海が澱むその場所にある島々に集った人びとのそもそもの本能を抑圧するためにばら撒かれた装置などではないか、そう思うようになった。結局のところ他の誰がなんといおうと、僕自身はそうした場所に生まれただけの雑種以上の何者ではないと考えている。 無縁は懊悩か。 だが。その前に一言付け加させてもらいたい。 無縁であること、そうした場所で生を営むこととは苦悩や悲しみと無縁であるはずがない。其の声が自分の中で日増しに大きくなっていくことに気がついたのはいつ頃からだっただろう。その中でも、ノイケルンやクロイツベルクを何気なく歩く其の日常は特別な時間で会ったことは言うまでもない。 いつからか、僕はベルリンという街に集う人ひとりひとりは、実は孤独であるのかもしれないと思った。だから、世界の様々な場所から来た人たちと出会う機会が其処此処に偏在している。そうした人々が集う祭の盛況が夜な夜なあり、様々な出会いがある。一度ついた祭の火は容易には消えない。でも、祭が終われば皆それぞれが孤独にそれぞれの栖へと帰る。長い夜が続く晩、日がつるべ落としのように短くなる時期、百鬼夜行の夜を過ごすのもまた一人。そんな時期、其処らに蔓延る鬼に取り憑かれるのもまた容易。それは苦悩であり悲しみ以外の何だろう。日も短い憂鬱な季節は気も狂いかねない。 そう考えると、ベルリンの街角の向こう側にあるのは、そうした無縁たちの苦悩そのものではなかったか、僕のベルリンの日々はそうした懊悩と隣り合わせではなかったか、と今からにして思わなくもない。そうした懊悩は、同時に、また別様の唄でなかったか。それを聞いていた日々は遠い過去ではない。そして、またその只中にあって、その唄を思い起こし共に聞き奏でる日が訪れると断言もする。 だが、そうした思いの数々へとどうしたらまた近づくことができるだろう。言うまでもなく、僕は今はもはや其処にはいない。それでも、いつかまた彼処にその中の一人となることもあるだろう。そんな自分を今やまた一つの別の日常の中にある労働の日々の最中に思い浮かべたりする。それを思い出しつつ、そこここで謳われるその声を書き留めめつつ、あるいはまた別の仕方で謳い続ける、裏声でも、あるいは、その仕草だけでも続けたい。 冬の始まりの京都・衣笠より。 […]

パルドゥビチェの火葬場。2014年10月15日

先週半ば、カメラバックの奥底からカラーのブローニーフィルム2ロール、一年ぶりぐらいに発掘された。特に何を撮ったのか思いを巡らせることもせず、そのまま、他のフィルムと一緒にそのブローニーフィルムを現像に出したのが、一昨日ぐらいに戻って来た。 ひょんなことからその存在をすっかり忘れていたそのネガティヴには、ちょうど去年の今頃、プラハを去る前ごろに撮った絵が写し込まれていた。 昨年の今頃はまだプラハに住んでいたのだ。 この春から夏にかけて博士論文の執筆とリサーチで図書館に住むような生活が続いていたその多忙さから、昨年の今頃の話など、遥か彼方の昔である。

ビールを飲みに駅にいこう。プラハ・デイヴィツェ駅、2015年5月14日。

チェコの駅ナカ飲み屋は小生のチェコにおける最大のツボの一つである。 駅とは、内田百閒がかつてのたまったように、「なんにも用事はないけれど、列車に乗つてどつかへいつてこよおとおふ」というように、用事があるにしろないにしろ、列車に乗ってどこかへ旅立つ場所でもあり、かつて小生が幼きころそうであったように、列車を見にいくような場所であり、カメラとヘビーな三脚を抱え方々を飛び回る鉄男にとっては聖地も同然の場所である。 ところが、この国には、駅に「飲み」にいく、という、極東の我が祖国にはまず存在しない言い回しが存在する。そのような言い回しが存在するぐらい、この国の駅という駅には、飲み屋が、鉄道の駅のあるところ必ずといってほど存在する。

スターリンかマイケルか − 歴史の大皮肉について。

最近話題の白井聡氏の「永続敗戦論」が今回の帰国後、まず手が伸びた本だった。昨年の春出版されて以降、今に至る迄版を重ね続けている話題の書。今年の秋いまさらながら小生もこの本を手にした。 白井氏は本書の末尾に、彼がベルリンを訪れた際にブランデンブルク門横で目の当たりにした奇妙な記念碑について書いている。それは「対独戦戦勝記念碑」という。それが、なぜブランデンブルク門と戦勝記念碑(ジーゲスソイレ)の間、しかも旧西ベルリン側に建造されたのかは、未だに謎だが、その記念碑のその存在自体が大いなる皮肉ではある。つまり、俺たち(ソ連をはじめとした連合国)がきさまら非道なファシストに勝利したことを、永遠に忘れることなかれ、と。

肉屋の二階。プラハ・ヌスレ、チェコ共和国、2014年3月。

1年住まうこととなったプラハもといチェコという地での生活を振り返るにあたり、貴様はなぜそれほどまでにチェコという国に惹かれるのかという問いが、執拗に、小生の単細胞な脳内で繰り返されるのだが、そもそも、2009年から定期的にこの国を訪れるように至って、その答えは結局のところ、まだ見つけ出すにはいたっていない。 恐らく以前とプラハを見る小生の眼差しはそれほど変わっているとも思えないのだが、それでも、この街における小生の行動レイヤーが新たに形成されたということは、疑いがない。

11. Neisse Film Festivalのための忘備録

個々4年ほど、ドイツはザクセン、ポーランド、チェコ共和国との国境地帯に5月の第二週に開催されるこのナイセ映画祭に参加するのが、この皐月の始まりの恒例行事になりつつある。まだ11回目と歴史の浅い映画祭ではあるが、毎年10月に行なわれるコトブス映画祭と並んで、中東欧各国からの作品を焦点にしていることでも知られている。

最強のビール注ぎ職人はポニー。ブルノ、チェコ共和国、2014年4月12日。

この4週間で三回目の訪問となったモラヴィアの首都はブルノでのことであった。(その一回目のストーリーはここから、英語) そこにいたこれまで小生が見て来た中で最強のビール注ぎ職人の話である。 あほーい、今おいどんはブルノじゃけんど、ちょっくらモラビアくんだりまでこやしまへんか、とその前日の金曜日の深夜前に小生のダチより連絡が。 なんで、土曜日の午前中に、ブルノへいくだ、と手帳と読みかけの本を一冊とカメラだけをもって近所のパン屋に出かけるような格好で、プラハの中央駅に向かったのであった。

プラハの飲み屋の一人で佇む親父列伝Ⅲ。プラハ・マラー・ストラナー、2014年3月25日。

プラハの飲み屋で1人で佇む親父はいつでもミステリアスである。 かなり近寄り難いオーラを発しているが、なかなか愉快な親父であることも多い。 豪快親父の武勇伝を店がカンバンになるまで語ってくれることだろう。 ちなみに、この飲み屋は、プラハではまだ大量増殖する手前にあるヒップスター占有率80%程度の店なのだが、それでもこの親父が、店内衆目の中、ヒップスターとギャルの間を大行進する様、豪快に突撃してくる様が、素晴しく痛快であった。

Bio-Oko, プラハ・ホレショビチェ、2014年2月23日

ベルリン映画祭などで滞在が思いのほか長引いて3週間の長きにおよび, プラハ帰還はついこの日曜日の正午ごろにずれ込んででしまった。 家に帰れば、マヌケチェック同居人が3週間の間まるで家の掃除をした形跡もなく、 小生の部屋のベットではあの雌犬が昼寝をしていたらしく、ベットは犬の毛まみれという大惨事。 帰宅の午後中を家の掃除に費やすはめに。