ベオグラード発プラハ行き国際急行列車にて。パルドゥビチェープラハ。2013年12月9月。

半ズボン親父が出現したパルドゥビチェの場末のチェコ居酒屋を後にしたのは、月曜日も9時になろうかとするころだった。 小生たちはプラハ行きの終電に間に合うよう、足早にバスに乗り込みパルドゥビチェの中央駅へと向かう。 ホームにたつと、まもなく、プラハ行きのEuroCity国際急行列車がホームになだれ込んでくる。 そこで、小生をこの日のゼミに招待してくれた友人が食堂車に乗ろうと提案する。 プラハまで一時間。酔い覚ましの茶でもシバこうということになり、小生たちは列車の後方に位置する食堂車へ乗り込む。 すると、その食堂車の車体にはキリル文字でРесторан(レストラン)とあるではないか。

プラハの飲み屋の一人で佇む親父列伝Ⅱ。プラハ・ホレショヴィッツェ。2013年11月8日。

プラハの北の下町はホレショヴィッツェにある小生が昨今最も愛するチェコ飲み屋でのことだ。 前回紹介した半ズボン親父の隣には必ずといっていいほどいる親父の一人である。 タバコを燻らせ数独をひとりで繰り広げる親父のそばには手書きの伝票が。 そこにはすでに6つほどの縦線がひいてあるのみ。 これは大ジョッキ6杯飲んだという意味である。ジョッキが親父のそばに置かれるごとに、バーの親父がサクッと一本縦線をひいてゆく。 そして、勘定のときに、バーの親父がこれをみて清算する仕組みなのだ。   と思っていたらば、親父のそばに誰かが座ったのである。友人なのか、飲み屋仲間か。ただの相席か。 それにしても、一人で待つ間に6杯は飲むのだろうか。 なんで今度こそは親父と対決、そしてまた自戒。

半ズボン親父の伝説。パルドゥビチェ、チェコ共和国。2013年12月9日。

先週末は弾丸で、またしても、つかの間のベルリン帰還。 週が明けた月曜日は6時起床でプラハに正午ごろ帰還。息着く間もなく、一路東ボヘミアはパルドゥビチェへ。 当地の大学にてチェコ人の知り合いが受け持っている社会学のゼミにゲストで登場。 そこで、小生の博士論文のリサーチ内容について一時間程プレゼンをした後、ゼミの学生との交流を兼ねて、近くの飲み屋へ。 それは実に香ばしき飲み屋であった。

偉そうな犬に親父と。プラハ、2013年9月末。

プラハにきて一週間がたって、今住んでいるヴィノフラディでも、ようやく住んでいるという感覚が伴ってきた。ここは実に生活感溢れる場所で、プラハの中心部とも隔絶されているがゆえ、ここまでは旧市街やプラハ城周辺を賑わす観光客はさすがにここまではやってこず、日も傾く夕方となると、人通りも絶え、物音すら聞こえなくなる。 ここ三年程居を構えていたベルリンはノイケルンという場所が、いかにカオスで、けれど、様々な音に満ちていたかが分かる。あれは多分世界の縮図のようなところで、あれはベルリンをベルリン足らしめているというばかりというほかない。 そんなノイケルンの喧噪もやはり、ノイケルンを離れてわずか一週間で恋しくてたまらない。とはいえ、プラハでの生活はまだ一週間がたったばかりである。 あと3日程でノイケルンの喧噪とカオスの中へのつかの間の帰還となるのだが。それもまたよし。プラハでの生活はまた始まったばかりで、まだなにも見てやしない、聞いてもいないのだ。その事実がこの街へと小生をまだまだ引き止めることになるのだろう。

リベレツ(チェコ共和国)-チッタウ(ドイツ・ザクセン)、2010年5月。

年の大半を異国の地で過ごしている故か、ハラハラドキドキの冒険や旅の夢でもよく見たいとも思っている。 実際の夢の内容は金輪際記憶にはないのだけれど、実によく見る夢の大半は、しかも、あまりにも繰り返してみる故に、目覚め後も非常に記憶に残るのだが、それは、是から旅に出ようとして駅や空港行く途上、あるいはその駅と空港での旅立ちの時を迎えるその刹那、なにかによって、その旅立ちが妨げられる、というような不条理なものばかりである。 よく小生が旅にでると予告しても、なかなか諸事情によって、実際に旅立てない、あるいはその旅立ちの日を遅らせるということも実に実際よくある。その現実によくある小生の大言不実行ぶりに対して、昨年の4月と5月にポーランドとウクライナをめぐった写真家のMクンはその名も「行く行く詐欺」なる痛烈なる皮肉を小生に賜われたのであった。

プラハも眠らない。

プラハ移住を来月に控えて当地にて現在家探し中であります。読者諸賢におかれましては、プラハ市内の間貸しなど耳にされましたら是非お知らせあれ。 先週この5月以来久々にプラハ入りを果たしたが、家の見学なども含めてたった16時間程の滞在だった。まあ、これから一年程住むわけだから、それでもいいわけだが。とはいえ、これからしばらくこの状態がなんども続くとなると骨が折れるに違いはあるまい。 今回は久々に中央駅に東側の界隈Žižkovジジュコフに宿を取った。宿の近くにあるジジュコフ最強の飲み屋の一つU vystřelenýho okaで久々のプラハ帰還を祝う。天気もよかったこともあり、飲み屋の前のビアガーデンの人ごみの中で一人でビールジョッキを傾けた。その週はプラハだけでなくベルリンを含めた中欧界隈で連日30度前後越えの天気で、その日の晩も夜半過ぎになっても飲み屋の前に人があふれた。

シェニャフカ、一時間弱。並びにSieniawka。(下)

先日した中央ヨーロッパの国境地帯の話の続きをいたそう。 ポーランドの南西の最果てにあるシェニャフカという小さな村。ここは小生が訪れたポーランドもとい中央ヨーロッパの場所の中でいまだかつてなく強烈な印象を残してくれた場所である。 前回も紹介したが、このポーランドの最果て、独逸とチェコ共和国の国境三角地帯に存在する、この香しき地を訪れたのは同名のSieniawkaなるドキュメンタリー映画を見たがゆえであった。

ヴァーンスドルフ、二時間。

電脳派チェコ文学者などという不遜な自称を奉じておきながら、あるまじきことに2011年の12月以降、一年半以上もチェコ共和国の地を踏まない日々が続いていたが、久々に彼の共和国の一部であるボヘミアの地へと再上陸を果たしてきたのは5月の初頭のことであった。 といっても、独逸から国境を跨いですぐの場所にある小さな街に、たった二時間程の間であったが。 独逸はザクセン自由州Freistaat SachsenはツィッタウZittauからザクセンとボヘミアをまたぐローカル線に揺られて15分程にあるヴァーンスドルフVarnsdorf。かつてはWarnsdorfと綴っていたのは、オーストリア・ハンガリー帝国の時代からチェコスロヴァキア第一共和国の時代を経て第二次世界大戦の終焉まで独逸人人口が街の多数派を占めていたが所以だ。

突如写真展のお知らせ。

突然ですが、展覧会のお知らせ。 小生所属のベルリン・ノイケルンはWerkStadt e.V.にてこれから二週間、同僚のAnette Blumと展示をさせてもらえることになりました。今日の19時からオープニングをとり行いますゆえ、ビールでも飲みながら始まったばかりの春の夕べを過ごしませう。 場所:Emserstr.124, 12051 Berlin-Neukölln 最寄り駅:U-Hermannstr. あるいはU&S-Neukölln

リヴェンジか。

小生的にはサッカーのヨーロッパ選手権の行方にはあまり興味がなくなってきたのだけれど、それでも今日のチェコ対葡萄牙戦には俄然力がはいる。それは小生がDigitalní bohemsitaを自称しているからではない。 96年のユーロではネドヴェド、ポボルスキーを擁するチェコがフィーゴとルイ・コスタ率いる黄金世代の葡萄牙を撃破、決勝で独逸にやぶれたものの、チェコサッカーの質を世界に知らしめた大会となった。

ベルリン-ドネツク-エクスプレス: 2012年4月3日午後4時。オーデル川越え。

オーデル川越えは小生にとってはいつも特別な瞬間である。 ドイツ側のフランクフルト・アン・デア・オーデルからポーランド側のスウヴィッチェへ、またその逆へ。これまで何度となくこの川を越えてきた。それはポーランドという国の旅の始まりであり、同時にそこでの旅の終わりでもあった。 初めてこの川を越えたのは、もう10年以上も前になるから、20世紀末のことだ。

ポーランドへはまた。

13年前にはじめてプラハからポーランドへ向かった列車の中はとてつもなく暑かった、と記憶している。 プラハからヴロツワフへ向かう列車の中。ハンガリーからスロヴァキアを経て、プラハにやってきた小生は当時、夜のプラハを夢遊病者のようにさすらう。あの夏の夜のプラハは日本の夏の夜を思い起こさせるぐらい湿っていたと記憶している。すでに90年代の末だったか。 ここ二年程、ベルリンとプラハの間を行き来するような生活になり、プラハもかつて10年以上前に訪れた時のような目眩がしたような小道の連続する旧市街やマラーストラナーに滅多に足が向かなくなってからもう久しい。それでも、あの時のプラハの小道にまとわりつくような湿気と夜の温みはまだ小生の体が記憶している。