日常生活の冒険は、自己責任で。

リモノフについて書こうとして・・・

今日の御題はロシア人作家あるいは活動家のエドゥアルド・リモノフについて。というよりも、エドゥアルド・リモノフについて書いたログを再投稿しようとして介入してきた雑念が実はお題である。

もうこのテクストをはじめてネットに投稿したのも、相当前(このテクストの最初のパブリッシュはこのブログの前身であるSecondguessだった)なのだけれど、なんどかホームページがクラッシュするたびに、内容に手を加えて再投稿してきた。

Eduard_Limonovこのログのお題である、このロシア人作家であり政治家でもあるエドゥアルド・リモノフは、極東の我が祖国でもドイツのメディアでも、せいぜい新聞の政治欄の末尾にも乗る程度。最近はその名すらもメディアを通して聞くことはない。

彼は長らく反プーチンを旗印に掲げているけれど、政治的には極右であるといってもよいが、小生としては、現代ロシアを代表する重要人物ならび作家であるという認識にいささかの曇りはない。なので、テクストを見直しがてら再度投稿することにした。

小生の日常生活の冒険のその実。

ところで。今このテクストを読みなおすと、「日常」や「冒険」という言葉を多用しているのが、目に付く。このテクストを書いた2008年はいわゆる「ゼロ年代」もあと1年を残すところとなったあたりだった。ベルリン在住5年目の小生は、もはや、極東の我が祖国の思想界のみならず、市井からも遠く離れて久しいにもかかわらず、あたかもその同時代の空気を吸っているかのような文章を書いている印象を受けた。

31+cG2WncZL._SX343_BO1,204,203,200_そのあたりは、ゼロ年代が終焉したあたりに、宇野常寛の「ゼロ年代の想像力」(2008)や「リトル・ピープルの時代」(2011)、最近読了した東浩紀の「ゲーム的リアリズムの誕生」(2007)あたりを読んで、ベルリンも日本も地理的差異や多少の時間差はあれど、同じような文化の空気や生活の条件が支配していたことを事後的に確認することになった。

ベルリンでも、当時は、若者のプレカリアート化や高学歴プアが公然と語られ始めた時代で、例えばアーバン・ボヘミアンUrbane Bohemeなる、ベルリンの中心部のWiHiのあるカフェ(例えば、ミッテのRosenthaler PlatzにあるSt.Oberholzなど)あたりでアップルロゴのついたノートパソコンを持ったフリーランサーの存在があたかもトレンディであるかのように、語られ始めた。極東の我が祖国では、今では、ノマド・ワーカーとかいうらしいが。

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ウルリッヒ・ブレックリングの「企業する自己」(ズールカンプ社・2007年)などは今から思うと、ゼロ年代末期に読んだ本の中ではいまいましい本の一つだ。

つまりは、当時のベルリンは、ようやく、グローバルリズムの一環としての新自由主義の大波が訪れ始めた頃だった。ドイツではGeneration Praktikum、つまりインターンでただ働き、あるいは安月給で長期間こき使われるないことには仕事にも溢れるという、若い世代の労働条件が悪化の一途を辿った。その余波を直接被った世代の若者の中に、当時の小生も含まれていたことだったろう。そんな中、皆でフリーランサーSelbstständigeになって、そしてそうした箍から逃れよう、と新しい労働形態が喧伝された。同時に、ある種の独り立ちのための「決断主義」が大っぴらに称揚され始めたのだ(例えば、今も活躍中のブロガー/アクティヴィストのSascha Loboとか)。日本では、ゼロ年代早々には、90年代末から21世紀初頭にかけてよく言及された「ロスジェネ世代」など、30代に差し掛かるぐらい若者までを含めた若年の労働者層が、「自己責任」のお題目のもと、そうした生存の仕方を余儀なくされていった時代の端緒が訪れていた。

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かつての小生はベルリンにおけるこうしたアーバン・ボヘミアン第一世代の一人だった。リンク元: https://digitalbohemian.wordpress.com/

ベルリンに移住してしばらくしてから、極東の我が祖国からは、「勝ち組」「負け組」という言葉が聞こえてきた。日本にいる友人からは、そうしたお題目を耳にタコができるほどまで聴かされた。 「自己責任」が個人の生活の隅々まで微細に噴霧されたサバイバル時代の始まりだったのだ。

「小生」らベルリンの若者たちがその波を迎えたのは、5年かもう少し時間が経ってからのことだと考えられる。そのSascha Lobo共著の„Wir nennen es Arbeit“などはそうしたアーバン・ボヘミアンあるいはデジタル・ボヘミアンdigitale Bohèmeの勃興に際して、ある種のバイブル的な扱いを受けた。Zittyなどをはじめとしたベルリンを主題にした情報誌などでも、そうした新しい都会での若者の労働形態について、盛んに特集が組まれたのもその頃だった、と記憶している。

最も、小生はそうした時代の変化を嬉々として楽しもう、としていなくもなかった。自分のことを一匹狼であると自認していたし、まだ当時それほど普及もしていなかったMacBookを持って、ベルリンはミッテのWiHi接続のあるカフェで作業をすることを自慢げに吹聴し、加えて、大学院での専攻(美学とチェコ文学)とかけて電脳派チェコ文学者ことデジタルニー・ボヘミスタdigitalní bohemista(ドイツやチェコではチェコ文学・文化専攻のことをBohemistikという)を自称していたほどだった。

だから、染まろうと思えばこうしたお題目は小生にとっては非常に都合の良いものであっただろう。けれど、このネオリベ的な自己責任社会に対して疑問を呈するようになったのは、その次の年に起こったドイツやオーストリアの大学を中心にして起こった、こうした社会の傾向に対して疑問を呈するような、といって、これまでとは非常に毛色の異なった、学生運動のその只中に置かれてからのことだった。その件については、また別の機会をいただければと思う。

なればこそ、そうしたベルリンの「日常」はある種の冒険の日々の連続ではあったかもしれない。そうみてみれば、以下の文章は、祭の時代の終焉にふさわしい転換の時代の雰囲気に染め上げられている、とも読めなくはないだろう。

(以下2008年にSecondguessに投稿した本文

ファック・オフ、アメリカ!

2008年は4月上旬、ベルリンはローザ・ルクセンブルク広場Rosa-Luxemburg-PlatzのフォルクスビューネVolksbuehneで、Fuck off, Amerikaをみた。(その後、2010年頃にも同劇場にて同作品の再上映を見る機会に恵まれた。)

この作品はエドゥアルド・リモノフEduard Limonowが1979年に書いた自伝Fuck off, Amerika、原題«Это я, Эдичка エタ、ヤー。エジーチカ。»(ロシア語あるいはドイツ語や英語でよみたい強者は次のリンクから作品リストの一番下にあるリンクよりダウンロード可能、ロシア人はこういう事を平気でしおるから信じられん)をもとに、これまたベルリンもといドイツの演劇界の鬼才フランク・カストルフFrank Castorfが演出した。

ちなみに、邦題は「俺じゃ、エディーじゃあ」にしておこう、ちなみに小生の尊敬するロシアもといポーランド文学者のひとりである沼野充義御大は「おれはエージチカ」と訳しておいででしたが。作品の詳細は沼野御大の解説を御覧あれ。

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アメリカからロシアへ帰還直後のリモノフの写真。

この演劇がネタにするのは、当時のソ連で、人民の敵扱いされ、半ば追放される形で、自由の国アメリカにきた、かなり自意識過剰な「俺様」のお話、つまり、リモノフの、 おそらくフィクションも多分に混ざった半自伝。自由の国「あめーりか」にやってきたものの、ここのものはなにからなにまで自分にあわないし、ろくな仕事は ないし、故郷ではちょいとアングラなシーンで有名になりかけて女の子にももてもての新進作家でも、自由の国「あめーりか」では全くの無名。で、誰にも一顧だにされず、敵国ソ連から野良犬のようにやってきたただの一亡命者でしかない。アメリカでは誰も文学なんか読みやしない現実にとほほなありさま。

一方で、当地のロシア人コミュニティーの中でも、なんじゃあいつは、と際物変人扱いで、亡命して自由を満喫する予定だったのだけれど、結局、現実は全 くの逆。故郷にもかえれず、亡命したアメリカを故郷とみなすことなんか到底できっこなく、どんづまりの境遇にあることにはかわりない。やはり、英語もろくずっぽ話せないで、似たような境遇の他の亡命者たちと、真昼間から酔っ払うしかない。そんでもって、故郷から一緒に亡命してきた美人の嫁さんには逃げられる、やけになって、黒人の野郎と寝てしまう、てという。

亡命とは失楽園か

20世紀は、戦間期から第二次大戦後にかけて、かつてなかったほどの地球的な規模で、人、物、政治、文化をめぐるあらゆる状況がシャッフルされた時代だった。その中で、大量の移民の波や亡命者の群れを生んでいった世紀だった。この大量の移民や亡命者の群れの中から、当然のごとく、亡命者文学、というジャンル付けされるほど多くの、亡命者たちによる文学がうみだされてきた。

ソ連からも、例に漏れず、政治的理由で祖国 を追われた作家たちが、数々の作品が生残している。そのようなソ連を追われたロシア人作家のうちにリモノフももちろん数えられるのだが、そんな作家の中にもやっぱりいろいろいる。その中で有名なのは、たとえば、ノーベル賞を受賞したソルジェニーチンやブロツキーだろうけれど、リモノフはこの二人ともやはり違う。

前者は、彼らが亡命に追い込まれる前に、すでにソ連でも指折りの作家、あるいは教養人として扱われていた。だからこそ、後にノーベル賞を受賞するほど、亡命後、国際的な名声を得ることができたのだが、リモノフは、そういう「作家先生」ではなかった。彼が明らかにしているとおり、リモノフは 本当の無産階級出身で、少年時代は盗みや空き巣を繰り返して生きていたとかで、繰り返し豚箱ぶち込まれて出ての繰り返し。作家になるまでの過程だけをみるなら、まったくジャン・ジュネのようなのだけれど、当時のソ連は、そういうろくでなしに対して、寛容な場所なわけもない。半ば追放されるようにアメリカへの亡命に追い込まれ、こうしてアメリカにやってきた直後は、彼が書いたこの半自伝 にあるとおり、相当自堕落な生活をおくっていたらしい。

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ドイツ語版「エタ、ヤー。エジーチカ。」 Eduard Limonow: Fuck off, Amerika; Kiepenheuer & Witsch

ところが、79年にアメリカで出版されたこのЭто я, Эдичка(「俺じゃ、エディーじゃあ」、ドイツ語では「Fuck off, Amerika」で出版されている)がヒットすると、世界中で瞬く間に翻訳されて、彼自身世界的に有名になる。ちなみに、リモノフの作品は本邦未紹介で、未だ一冊も翻訳出版されていない。沼野御大が「徹夜の塊 亡命文学論」(作品社)でリモノフの作品をふくめたその時代のロシア人の亡命文学について詳細に書いておられるので、興味のあるかたは当書を御覧あれ。

ところが、リモノフは、ペレストロイカの後、ソ連が崩壊すると、とっととモスクワに帰ってしまう。そこで彼は国家ボリシェビキ党Национал-большевистская партия、通称Natibolナチボルなる、という要するにソ連のネオナチ組織をつくって、「毎日が冒険の現実へ御招待」みたいなことをほざいて、極右のかなりパンクな作家先生として名をはせることになる。爆発物違法所持みないな容疑で、3年近くも刑務所にほうりこまれていた。政治的には反プーチンの一連の流れにずっと組してい る。2005年にはリモノフ対プーチン、こんな大統領なんぞ、俺らには必要ねえ」とかいうエッセーも書いている。

日常の淵へ

ところで、彼の作品には、そんな状況をわらいとばすほど自らを戯画化して自伝にしてしまう滑稽さと奇妙さが同居している。しかし、リモノフの この作品に特有なのは、ただ故郷へのノスタルジアを哀愁をこめて語るという手段にはうったえず、ロシアも アメリカもどっちもくそったれだ、といういってはばからないところにある。そうして、自らを意図的に袋小路へと、「日常」の淵へと、追い詰める。そうすること に よって、作品自らに唯一無二の強度を付与しようとするのだが、同時にそこに垣間見ることになるのは、そう書かざるをえなかった、リモノフという個人のどうしようもない弱さである。社会の袋小路にぎりぎりに追い込まれた自らを道化とみなして戯画化することで、逆説的に文学作品としての強度を作品自体に与えることはこうして可能になる。

けれど、同時に自らを道化とみなすこと、そのこと自体についてふれること。このことは自らのどうしようもなさ、弱さ、そして、この作品にあるのは、故郷ロシアを遠くはなれて、希望を抱いてやってきた「自由の国あみぇーりか」でのくそったれた生活の中では、いくばくかましであったはずの、かつての故郷での時間も遥か彼方のことであって、もうほとんど取り返しのつかないという状態にあるという、どうしようもない底 なしの悲しみと、時には、絶望と隣り合わせであると いうこと以外にはやはりありえない。

とはいえ、帰国後のパンクな極右と化したリモノフをみていると、また、カストルフによって、そんなノスタルジーなど表面的には感じさせないほど異化されまくった舞台をみていると、僕がいっていること自体が 少しあほらしくなったりもするんやが、ところが、僕がフォルクスビューネで見たカストルフ演出の演劇の最後のシーンをみて、少し笑えなくなってしまった。 その最後のシーン。

serveimage宇宙船らしきカプセル、例としては相当に古いが、ドラゴンボールにでてきたようなタイムマシーンのようなカプセルに主人公が無理やり乗せられて、ピカピカ光るカプセル宇宙船のよ うな物体の中で、うぎゃー、と絶叫して舞台に幕、それで、暗転した舞台の中で、カプセルがピカピカ光ってて、こちらは思わず大爆笑してしまった。とはい え、これは後から思ったのだけれど、実際にはまったく笑えない話。というのは、こうやって、宇宙以外にこんなちっぽけなカプセルに乗せられて飛んでいく以外にいくところが俺にはねえんだ、といってるようなもので、これは究極の自己戯画、イロニーの極地だ。

毎日が冒険というイロニー

そういう意味では、ソ連崩壊後のロシアに帰還したあとのリモノフも、 こういう滑稽さを超越して、こうやって、どこかへとんでいきかねない過激さは相変わらずなのだろう。よくよく考えれば、冷戦後の、特に90年代のロシアという場所は、特にソヴィエト崩壊後のあの混乱の中では、僕ら西側世界の人間にとってみれば、ソ連時代にまして、かなりくそったれた世界だったわけで(今で もかつての西側の人々はそう思っていることだろう)、仮にアメリカがリモノフに とって、Fuck offといいたくなるような場所であったとしても、作家として名を成した今や、望めば安堵としていられたはずのアメリカという「パラダイス」をあえて飛び 出していくということは、フォルクスビューネのカストルフの演出の中の最後のシーンのように、それこそ漆黒の宇宙ヘ、「毎日が冒険」であるような世界へ飛 び出していくこと、一方で、再び毎日がくそったれた世界への帰還以外にやはりありえないはずなのだ。

実際、90年代のロシアが、そして現在のロシアがどういうところかということを、僕ら、西側世界の側から想像すれば、さもありなん、リモノフ自身も、アメリカもロシアも似たり寄ったりのくそったれた場所だ、ということを自伝の中でも繰り返している。

そんななかで、ナショナル・ボルシェビキなるネオナチまがいの反時代的錯誤を行うこと自体は、もちろん、僕らの目には破格にうつる。けれど、「毎日が冒険」であるようなソヴィエト連邦崩壊直後のロシアという「日常」ならぬ「非日常」ような場所を生き抜くためのごく自然な知恵であり戦略のひとつであったはずなのだ。

今のロシアが行き着こうとする状況を目をやれば、プーチンあるいは形だけのポストプーチン体制の現在のロシアには、やはり、そこで彼らの彼らなりの破格さを永久永劫保障してくれる「非日常」などはやはりない。それどころか、クソだといいつつも、長い間恋焦がれて、やっとのことで帰り着いた祖国 で、よりによってかつてのソ連時代のような半鎖国状態へと逆戻りしつつあるようなロシアで、三度際物扱いされるどころか、反社会的反国家的として非合法化(リモノフの国家ボリシェヴィキ党はロシアでももちろん非合法)されてしまう現実が、彼らの破格さ、今にも世界の外へと飛び出していきかねない過激さとそして、どこの現実と日常にも属することのでき ない根無し草な様、を逆説的に語ることになる。リモノフが逆説的に焦がれるような「非日常」なるパラダイスなんてものは、どこにもない。

自らを滑稽な道化として表現することは、時には、どうすることもできない哀愁さをおびるし、やはり、自らがどこに属することのできないという悲しみ やどこかへ自らが帰り行けるような場所への憧憬をどこかにちらつかせることになる。どこへいっても、アウトサイダー扱いされてしまうというこの現実、しかし、平凡な「日常」を生き延びる上で、アウトサイダーたることを戦略的に選び取ろうとすることは、究極の選択肢としては存在する。僕らは時に、 その平凡な「日常」に我慢ならないときもあるわけだから。だが、そこで根無し草であろうとすること、あるいは、アウトサイダーたることを戦略的に選び取っ て、社会から際物の烙印を押されることになる現実に耐えうるには相当の強度が自らに要求されることになることを忘れてはいけない。そんなことは誰にでもできるというものではない。

むしろ、そんなことを選び取っても無為にすぎるような「世界」にいるし、そうした「日常」から逃れる すべなどはほとんどないに等しいのだ。それについて語ろうとした文学作品はいくらでもある。サドにはじまって、ロートレアモン、セリーヌ、ゴンブローヴィッチ、ヘンリー・ミラー、ジュネ、バロウズ、トーマス・ベルンハルトなどなど。しかし、そんなことを現実に試せるわけではない。彼らの語る事柄は、やはりフィクションであり、文学作品なのだ。

それでも、それは、いままで語ってきたような本来自らが所属すべき共同体や社会に対するノスタルジーなる感情を、そして、さらにそれを乗り越えるための自己戯画とそこに現れる弱さなるものを逆説的にさらに乗り越えていこうとするような力業なのだろう。それは、この「世界」を生き延びる上でのひとつの 究極的な戦略であるともいえるだろう。

ヴィトゲンシュタインが、「論理哲学論考」執筆後の長きにわたる沈黙を破って、1928年のケンブリッチでの倫理学講義で語ったような、この僕らの日常を支配する倫理や言語、すなわち、「世界の限界である『壁』に限りなくぶつかり続けること」と比較しえるような様、むしろ、ヴィトゲンシュタインがいうよりもよりラディカルな様なのかもしれない。彼は、 むしろ、そこでは、常にその壁の前でためらっているようにもみえる。

「生」の軽さを嘆く前に

こうしてみずからを道化として振舞わせる様やFuck off!とわめき散らす様は一見軽そうに滑稽にうつる。しかし、それは見かけとは逆にとてつもなく重いのだ、その個々人の、常に「壁」に跳ね返されてしまうような存在の軽さと比較して。それは、「存在の耐えられない軽さ」を語る、フランス人になってしまった生まれはモラヴィアの旧チェコスロヴァキア出身の作家の身振りとは、比較の仕様がないほど重い。

自らのあるべき生の空間からの追放劇、それこそが、20世紀という時代に何度も繰り返された悲劇なのだ。だからこそ、この時代に非常に頻繁に文学的主題として取り組まれたテーマであり、今なお重要な主題の一つであることには代わりはない。

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Emmanuel Carrèreによるリモノフ伝記: Limonow (ドイツ語訳)

そのこと自体はとてつもなく重い。そして、その中にある「生」は、そのあるひとつの「生」の場所から追い出された事実に比して、とてつもなく軽過ぎ、些細なものとして扱われない。リモノフがこの世界に ぶちまけた呪詛の念といま自身のいる「生」の彼方を思うこと心は、何千数万といたはずの、無名のリモノフたちの存在ゆえに、とてつもなく重く現れる。そこで現れるノスタルジアという、あるべき自分の「生」の場所への、そしてその場所で幸せであったはずの過去、そしてそれより過ぎ去った時間、それに対する情念が、ここではコレクティヴなものとして現れる。リモノフの生き様は、その何千何万とあったはずのひとつの例なのだ。

だからこそ、それは、やはり破格なのだ。なによりも、誰も口にしない現実の核心をつくからこそ。誰も彼もがリモノフの ように振舞ったのではないし、振舞うわけではない。むしろ、そう振舞うことは、それはひとつの社会的な、自らの属する「日常」においては不可能に近いし、その「日常」におけるひとつの 生の放棄に比肩すべきことに他ならない。

不可能なのだ、誰にも真似できないのだ。そのことは、僕らの生そのものが、そう振舞うように決められた一定の枠内以外にあることは到底ままならないという事実を如実にかたっている。文学作品がかたる破格な生とは、僕らが生を営むところとはまた別のどこか別の場所にあるだろうひとつの生の形なのだ。それを模倣したところで、ただの茶番に過ぎない。

むしろ、そう振舞わざるを得ない現実に僕らの生はあるということ。そこ以外に僕らの生が向かうところはないし、それ以上に行き場はないということなのだ。無論、あるひとつの生の中にとどまることができるということは本来幸せなことなのだろう。それゆえ、ここでの僕の語り口とは、やはり自らの生が今いる場所において、幸福であるということのひとつの証差であるともいえるのだろうが・・・。

当時、ゼロ年代末期のカストルフはセリーヌの 「北」に続いて、奇抜な、しかも、政治的にはかなり右に位置するような作家の作品を演出していた。カストルフの演出作品も最近はとんとご無沙汰であった。彼自身も今の 2015/16年シーズンの終わりをもって、フォルクスビューネの芸術監督を退くとのことで、舞台演出家としての彼の今後にも注目である。

ではまた持戒。

参考;
ベルリン・フォルクスビューネホームページ; http://www.volksbuehne-berlin.de/
沼野充義 : 仮死と再生−亡命ロシア人作家の見たアメリカ: http://src-home.slav.hokudai.ac.jp/sympo/Proceed97/numano.html
北大スラブ研究センター 現代ロシア文学 REFERENCE GUIDE-ON-LINE:
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/literature/limonov.html
その他:http://de.wikipedia.org/wiki/Eduard_Limonow

追記

今年の5月にエマニュエル・キャレールEmmanuel Carrère著土屋良二氏による訳でリモノフの伝記小説が出版されていました。是非ご一読あれ!

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