最後のパサージュ。スペイン、ポルボウ、2012年10月23日。

忙しいことにかこつけて、なんでも言い訳が許されるように思うと、そのうち自分の日々の作業自体が滞りはじめるようになる。

今年は、第二次大戦集結70年の年でもあったが、大戦勃発からも今年で4分の3世紀が過ぎ去ったことについてはなかなか人々やメディアの言葉の端にのることはなかなかない。

そうする中、先月末の9月26日、20世紀前半を代表する思想家であるヴァルター・ベンヤミン没後75年という節目を迎えた。

今日の御題はこの節目の日の為に用意していたのであったが、うっかり、亡失、そのうち二週間も過ぎてしまった。遅きに越したことはないが、今日小生が語る内容は、ある程度、昨今の難民の問題とリンクする、アクチュアルなテーマと考えているので、今日改めてこのLügenlernenに更新することにした。

よく知られている通り、ベンヤミンは75年前の9月の末に、スペインの小さな港町ポルボウでモルヒネの大量服毒により自死に至ったとされている。(「されている」としたのは、先頃このベンヤミンの死について様々な人々とのインタビューから検証するあるドキュメンタリー映画“Who killed Walter Benjamin?“の存在を知ったからであるが、まだこの作品自体は未見の為、内容に言及するのは控えたい。また、日本語でも翻訳が出ているリーザ・フィトコによる「ベンヤミンの黒い鞄」という、ベンヤミンと亡命を共にした著者による回顧録も興味深い。)

第二次世界大戦が勃発しフランスがナチスに進行されるに及び、ユダヤ人として当時パリに亡命していたベンヤミンはナチスのパリ占領直前までパリに踏み止まったことが、彼のポルボウでの運命を決したともいわれている。彼にも、アドルノらフランクフルトの社会学研究所の同僚と、アメリカへ移住する機会はいくらでもあった。その機会を得ることができれば、彼自身新大陸にて生きながらえることもできたことだろう。

(注・昨今そのような前提のもと、デイヴィッド・キシニクDavid KishikによるThe Manhattan Project-A Theory of a Cityという、パサージュ論を書いたベンヤミンならば、マーハッタンに対してかのような都市論を物したであろうという視点のもとに書かれた一冊が今年の上半期に上梓された。是非一度目を通してみたい。)

当時パサージュ論を執筆中であった彼の知的な探究心が、おいそれと、当地を去ることを許さなかったのだろうか。ナチスがパリへとせまる直前、彼の7年に及ぶパリでの亡命生活の成果である原稿をジェルジュ・バタイユに託し、ようやくベンヤミンはパリを離れる。

だが、ユダヤ人たるベンヤミンは、当時ヴィシー政権下にあったマルセイユにおいて、アメリカへの亡命へのための出国ヴィザを手に入れることもままならず、やむをえず、フランスとスペインの国境を徒歩で越えスペインに入る。だが、現地の官憲に拘束されたベンヤミンは、不法入国の角でスペイン川の最初の街ポルボウにて、フランス送還及び当地の官憲への引き渡しを言い渡されモルヒネの大量服毒によって自ら命を絶った。1940年の9月25日の深夜から26日にかけてと言われている。

小生こと、2012年は、ヨーロッパ在住10年目にして初めてスペインの地を踏んだ年でもあった。フランスはボルドーの友人を訪問したその足で、バスクから陸路でスペインでのはじめての一歩を記すというなかなかマニアックなスペイン入りに満足した小生はサン・セバスティアンとビルバオで数日を過ごした後、ベルリンへと空路帰還することになった。スペインにも、というよりもバスクだったのだが、それなりに満足すべきものはあったのだが、翌年にチェコ行きを控えていた小生には、当分くることもあるまい、とその時は鷹をくくっていたのであった。が、ちょっとしたツテから、バルセロナとマドリッドに行く機会が生まれて、その僅か一ヶ月後にはスペイン再訪を果たしていたのであった。

バルセロナにいるうちに、ふとおもいたってポルボウを訪れることになったのは、そこがベンヤミンという20世紀にキラ星のごとく存在する思想家の一人の終焉の地であること、小生が10代のころから読み続けていた思想家の1人であるという理由からであるのと、ポルボウには、1994年にお披露目されたダニ・カラヴァンというイスラエル人の作家によるベンヤミンへのオマージュである“Passages“があることを予々承知していたということもあった。と、10月半ばの天気の良い午前中バルセロナから一路列車で一時間半程にあるポルボウに向かった。

トンネルのカーヴの連続する旅路が唐突に終えた場所、そこがポルボウであった。バルセロナからの列車の終着駅でもあるポルボウは国境の駅だ。ヨーロッパ標準軌道とのイベリア半島での線路幅の違いから、スペインから、あるいはフランス側からは、国境を越えてゆく列車は多くはない。

駅前に立ち、狭い谷間に家々が密集している様が、駅がある高台から手に取るように見える。小さな湾内にはボートが何台が停泊している程度で、砂浜も見えるが手狭。10月の半ばに、人気があるわけも無い場所であった。実際小生と終点のこの駅で降りた乗客も数えるほどで、バルセロナより、お昼前にわざわざこの街までやってくるような観光客は、小生のようなベンヤミン詣を目的とした物好きぐらいだ。

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とはいえ駅前にはすでにベンヤミンのモニュメントに至る道筋を示した看板が誰に尋ねるまでもなく目に入る。小生はその看板が示すルートに従って、徒歩15分程のルートをその記念碑があるという湾内を見下ろす高台へと足を向ける。

その途上ベンヤミンが自死を遂げたというホテルの前を通る。小さな間口の狭いそのかつてのホテルは、今は個人宅のようで、その建物の壁には、ヴァルター・ベンヤミンという思想家がこの家で自殺した、と書かれたとおぼしきカタロニア語の記念札がかかっていた。考えていたよりもずっと小さな建物だった。

記念碑のある場所は、ポルボウの街が終わる入り江の入り口の方の高台の上の墓場の横にあった。ベンヤミンの墓石もそこにうちすてられるようにおかれていた。

ヴァルター・ベンヤミンという人について。

彼のことは多くの人々の記憶に残されている。今更言うまでもなく、彼の残した数多くの著作は20世紀上半期の精神的営為の大いなる遺産であるだけにとどまらず、今日尚多くの人を精神的に鼓舞しづける。カラヴァンという世界的な芸術作家によるモニュメントまでこの思想家の為に存在する。ヴァルター・ベンヤミンという固有名は、他の何者とも換えられないその存在と所業を語る。そのことを、彼が成し遂げた精神的営為によるものであることは、誰もが知っている。

ベンヤミンの自死、と同様の悲劇は、歴史上今に至るまで繰り返されてきている。しかも、同じような状況において。或る種の越えようしても越えられない敷居、そこを越えられずに力尽きた人々のこと。だからこそ、ベンヤミンという固有名を記憶する記念碑は、ベンヤミン個人の為のみならず、その他多数の名も無き人たちのことを追悼するためにこそある。翻って、そうした人々はそれ以来、現在に至る迄、この地球上に多数存在する。そうした人々のことを想起するために。

当時、ベンヤミン以外にも多数のユダヤ人をはじめとした政治亡命者がこのポルボウの地を越えて、スペインからまたはポルトガルから大西洋を越えて新大陸へと逃れていった。一方で、当時フランコ政権下にあった当地で、ベンヤミン同様の運命あるいはフランスに送還され、やがて強制収容所送りになった人たちは数多くいたことだろう。そして、ベンヤミン同様に自ら命を絶った人々も。

現在、ヨーロッパは、シリア、アフガニスタンやアフリカの政治的に不安定かつ当地での生活自体が生存への直接的な危機となりうるような場所からの難民との対処に追われている。欧州連合の外縁に位置する国へ、イタリアへ、ギリシャへ、ハンガリーへ、そしてクロアチアへ、難民が殺到する様をメディアを通じて眼の当たりにするのはその氷山の一角に過ぎない。あたかも、突如勃発した問題のように受け取られがちであるがあるが、スペイン、イタリア、またはギリシャへと多大な生命に関わるリスクを犯してやってくる難民はこれまで数多くいた。

portboubenjamin12そう、ベルリンならば、クロイツベルクはオラニエン広場に一昨年キャンプを張っていたいた人々、そして、昨年夏以来未だに続くオーラウ通りの学校跡の建物の占拠も、彼ら難民の人々やそれを支持する人たちによる自らの生存をかけた戦いの結果としてあった。

僕らはそうした出来事のことを忘れがちである。シリアの危機がこの難民の波の火種であったことは間違いはない。200万人とも言われる人々が国外に自らの身の安全を求めて、難民としての生活を余儀なくされている。言うまでもなく、昨今僕らがメディアを通して目の当たりにするクロアチアやハンガリー国境にて立ち往生を余儀なくされている人々はその200万人のほんの僅かでしかない。ましてや、ドイツやオーストリアといった国に辿り着くことの出来た人々などは更に限られてくる。

そして、昨今、ある難民の少年の溺死体を写した一枚の画がメディアを駆け巡るに至って、人々は重い腰をようやくあげるに至った。批判的な知性は、遅きに逸した、というのかもしれない。ただ、メディアを通じて、第二第三のそうした溺死体を見ることはなんとしても避けたい、という思いを人々が持ったことは確かなのだ。いや、これまでにそうした写真や映像は数多く私たちの目の届きうるところへとあったはずなのだ。けれど、なぜか届かなかった。

メディアを通して飛び交うイメージは常に意図された通りの宛先へとは常に届くとは限らない。その中の一通が私たちにようやく届いたのか。小生たちの日々で、こうした難民のことが人々の言葉の端に上らない日はない。

その一方で、非寛容も吹き荒れている。一年前の今頃、ペギーダがドレスデンであれだけ多くの人々を集めた。この一年今なお定期的に行なわれる非寛容は、そこかしこで報じられているが、これはドイツならば東ドイツ、その中でもザクセンだけの問題でもない。メディアはあたかもそう報じる。そうしたイメージや映像が飛び交う。

ドレスデン、ハイデナウ、フライタールなどでみられた不寛容の暴発は、現在の欧州連合の加盟各国のどこでみられても、おかしくない日常なのかもしれない、ということだ。この一年で50にも及ぶ難民関連施設への放火や襲撃事件が起こっているのも、このドイツという国で現在進行中の出来事の一端でもある。

ブロガーとして名を馳せるサーシャ・ロボはこうした昨今のセノホビー(外国人に対する不寛容)に関連した暴力の出現を「新たなテロリズムの誕生」とシュピーゲル・オンラインに書いていたのも記憶に新しい。

それはなにもヨーロッパだけの問題ではない。残念ながら、ペギーダが闊歩するザクセン以上に憂慮すべきなのは、昨年僅か「12名」の難民しか受け入れら無かった極東の我が祖国ともいえる。醜悪な姿をさらし出す(思い出すべきは、先だって、日本国内閣総理大臣といわれている人物の、国連での、難民問題を人口問題とすり替えあるいは勘違いするという大失態)憂慮すべき人々の存在はそこここにこそいる。

歴史は繰り返される。最近、ミシェル・フーコーが1979年に「週刊ポスト」(!!!)に掲載された「難民問題は21世紀民族大移動の前兆だ」というインタビューの英訳(フランス語からの訳)に目を通す機会があった。その中で、21世紀は難民の時代になると、ヴェトナムあるいヴェトナムの内戦とその難民について触れながら、現在に至るまでの情勢を鋭く予言している。

同時に、第二次大戦と同時勃発したユダヤ人をはじめとした政治的難民の存在についてもふれながら、当時ヴェトナムやカンボジアから大量に発生した難民について、ナチスに追われ誰にも保護されることもなく、絶滅収容所へと送り込まれたユダヤ人難民同様、生命の危機迫る場所へと彼らを送り返してよいものなのか、と鋭く問いかけている。

昨今の難民問題を巡る言説は、無論、その一点に収斂する。その原因を作り出したのは、西側諸国であるのだから、という言説に触れる迄もない。

ベンヤミンも、そのフーコーが言及するナチスに追われた政治的難民として、祖国を追われ、ヨーロッパからの脱出を図る途上、今後彼を待ち受けていたであろう運命に対して絶望し自ら命を絶ったとされる。フーコーがそのインタビューで言う通り、それはその時代、誰もそうした難民のことを考慮しえなかったが故の悲劇であったといえる。その中で、現在にいたるまで、そのような境遇の人々を救うことに勇気をはらった人たちがいたこと、その中から救い出された人たちがいたこと、そこに希望を見出されるべきだろう。

一体、26年前のベルリンの壁の崩壊に前後して、どれだけ多くの東ドイツ市民が、事実上の政治難民としてハンガリー国境からオーストリアへと雪崩こんだか、あるいはプラハのドイツ大使館へと政治亡命を求めて殺到したか、ペギーダのデモに参加するような人々は気にとめたことはあるだろうか。小生の記憶の中でも、ほんのこの間の事と思えるような出来事を、あっさりと忘れ去る人々は非常に多い。

全ては名もなき人々の為でなくばならぬ。一人の名を追憶することとは、その背後にあって同じ運命に逆らえ得ずに命果てた数多くの名も無き人々の存在を憶うが故の所作であるはずなのだ。カラヴァンの、パサージュ、と名付けられた記念碑にもほぼ同じ内容のベンヤミンの遺作である「歴史の概念について」からの一節が捧げられていた。

»Schwerer ist es, das Gedächtnis der Namenlosen zu ehren als das der Berühmten. Dem Gedächtnis der Namenlosen ist die historische Konstruktion geweiht«

「名も無き人々の思い出を尊ぶこと更に困難なるかな、祝福されし人々を憶うよりも。名も無き人々への追憶こそが歴史が築き上げるところの捧げたもうものならぬ。」

カラヴァンによるベンヤミンの記念碑には、小生がいる間中誰一人として現れなかった。小一時間をその記念碑の周辺で過ごした後、街中へ戻るも、今はピレネー山脈が地中海へと直接その影を落とす狭間にある小さな街は、今やなにも起こらない静かな入り江にあって、依然として、フランスとスペインの国境の街ではあるが、かつてのように人の行き来すらないと見えた。シェンゲン条約発効後、当地での国境検問はいまはなく(現在はどうなっているんだろうか?)、今や、誰もそこを越えていくことを拒みもしない。駅ホームには警察官の影すらない。

手持ち無沙汰の小生は、駅のバーでようやくありついた一杯のコーヒーを飲み干すや、バルセロナ行きの列車に乗り込んだ。結局、僅か二時間ほどの滞在で小生はポルボウを後にした。

portboubenjamin13以来ポルボウの記憶とも、それきりであった。ベンヤミンの75回忌に先立って、この写真をもう一度見直すまでは。結局、今からして思うのは、この記念碑で眼の当たりにしたのは、現在の私たち自身の影であり、それがそうした記憶や無数の無名の他者と常に向き合わせる、ということなのだろう。

ではまた持戒。