パルドゥビチェの火葬場。2014年10月15日

先週半ば、カメラバックの奥底からカラーのブローニーフィルム2ロール、一年ぶりぐらいに発掘された。特に何を撮ったのか思いを巡らせることもせず、そのまま、他のフィルムと一緒にそのブローニーフィルムを現像に出したのが、一昨日ぐらいに戻って来た。

ひょんなことからその存在をすっかり忘れていたそのネガティヴには、ちょうど去年の今頃、プラハを去る前ごろに撮った絵が写し込まれていた。

昨年の今頃はまだプラハに住んでいたのだ。

この春から夏にかけて博士論文の執筆とリサーチで図書館に住むような生活が続いていたその多忙さから、昨年の今頃の話など、遥か彼方の昔である。

論文の進捗具合ははかばかしくなく、いざ書こうとしても躓き、牛歩のような展開が続き、自分のドイツ語の能力がいかに足らないか、いかに、そうした鍛錬を怠ってきたかを痛感させれる日々で、くどいぐらいこれまでの十年以上一体自分はなにをしてきたのか、自分の怠惰を呪うのみの日々だった。

そういう鍛錬は遅き逸したのか、それとも挽回可能な類いのものであるのか、早晩知れ渡るだろうが、書くことの愉楽、なるものを思い出した。これを一年間続ければ、毎日のように続ければ、まだ先があるのではないか、という期待のみを抱いている昨今だ。

とはいえ、ドイツ語で論文を書くのはつまらない、そう思うのは、まだこの言葉が自分の軀の一部にはなり得ていないから、と思う。無論、日本語ですら、ままならないのだから、習い始めが18歳の時の言葉の不自由さを愚痴るのは止むをえない。けれど、ドイツ語で暮らす以上、ある程度の生活の糧を稼がねばならぬ以上は、弱音を吐く暇はないだろうが、そうした認識をなぜ今の今まで、火急的な緊張感を抱かずに生きてきたのか、不思議でならない・・・。言葉の鍛錬は、その意味では、達成点がないのだろう。そんなことは、自分の母語における貧困さからとうの昔にしれていたはずなのにだ。遅きに越したことはない、と鍛錬することにす。

閑話休題。その現像から帰ってきたカラーのブローニーフィルムの話に戻る。

その10コマ程度のネガの像の中で、とりわけ目を引いたのは、去年の今頃尋ねたプラハからほぼ真東に100キロ、列車でちょうど一時間もウィーンあるいはブダペスト行きの国際特急列車に乗れば辿り着く、パルドゥビチェという街にある火葬場だ。

確か、その日は東ボヘミアのリトミシュルLitomyšlという街を訪れた際の帰り道にふと思いついて足を運んだのであった。

この写真に写っている建物は見る人には見覚えがあるはずだ。少なからずチェコ映画のファンならば。

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この建物は、第一次世界大戦後、チェコスロバキア第一共和国時代の1922年から23年に書けられた建てられた非常に奇妙な様式でもしられている。機能主義的でありつつ、火葬場という場所にふさわしい雰囲気を醸し出すような天井や柱の形状と建物を覆う緑の横縞がアクセントとなっている。

なぜこの建物が知る人ぞ知るのかというと、昨今日本語でも翻訳上梓されたラディスラフ・フクスRadislav Fuksの「火葬夫」Spalovač mrtvolを原作としたスロヴァキア人の映画作家ユライ・ヘルツ監督による同名の映画作品の舞台となった場所であるからだ。プラハを去る前に是非訪れておきたかった。

このシーンは、主人公が自ら殺した妻の葬式で悼辞を語るうちに、ナチス的なタナトロジーへと、突如ヒトラーを思い起こさせる弁舌でもって、演説が傾斜していく部分で、この映画のハイライトの一つでもあるが、曰く、このシーンは火葬場の内部で撮影されたとのことだ。小生はこの建物の内部には入れなかったので、その意味では中を伺うにはよいカットではある。

IMG_0001この火葬場を設計した建築家はパヴェル・ヤナークPavel Janákといって、プラハには彼が設計した建物が多く現存している。特に建築におけるチェコ・キュビズムの名匠として知られている。

代表作はプラハの旧市街と新市街の境目にあるNárodníとJungmanovaの角に在るPalác adriaだろうか。恐らくプラハにいったことのある方はこの奇妙な形状の建物を目にされた方もおられることだろう。この中には、この建物の外装に劣らず奇妙な内装でも知られるカフェも入っている。といいつつ、まだ一度もはいったことがない。次回、プラハを訪れた際の行くべき場所の再優先順位にリストアップしておく。

ちなみにプラハ中央駅下の電停前にあるキオスクもヤナークの設計であるとのことだ。
ヤナーク設計の建物で小生にとってもっとも思い出深きは、懐かしさのあまり涙することも多きほぼ一年間を過ごしたヴィノフラーディは水道局Vinohradská vodárna横のフス派教会Husův sbor na Vinohradech(1930年)である。

この教会の横の公園は、かつての小生がプラハに居りしころ、小生の一時的な「飼い主」であらせられたビーバ嬢Bíba(下の写真、背景にあるのがその教会の鐘楼)との散歩とお守りにあけくれた日々を思い起こさせてくれる懐かしき場所でもある。

その側には、小生が毎晩、当時の同居人と毎晩のように就寝前のビールを最低二杯は嗜んでいたバーとビアガーデンがある。このビアガーデンは夏になると、この界隈に生息する多数の犬が、自らが「飼う」吞ん兵衛の近辺住民を引き連れて、文字通りのドックファイトを繰り広げる場所としても知られている。

IMAG0299こうやって午後の一時をこの二枚の写真から眺めることに始まった小生の記憶を辿る旅は、こうして、この午後中あてど無く続くことになった。写真とは真に恐るべきメディアであるものだ。一度ボヘミアでの一年間の写真を整理しておく必要があるだろう。いうだけでなく、始めねばならんことだ。

ではまた引き続き自戒してばかりでないで持戒することにします。

ではまた。