記憶という往生際の悪さについて・・・Teplice v Čechách, Czech Republic, December 2011

人間の記憶などたかが知れている。知れているがゆえに、それを往生際悪くその消え去りかたをあらゆる算段を用いて引き止めようとする。時間の経過とともにあせていく、自分の脳裏から消え失せていくその様こそが、記憶そのものの絶対条件なのだから。僕らは、そうしたいかにしても揺るぎ難い前提に抗しながら、なんとか上から下から左から右から、なんとか引き止めようとする。

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記憶というそんな悪あがきはいったいなにを引き止めようとするのか?

記憶などというものは、決してつかみようもないもはやありえない出来事や自らの周りを息づいていた人々や生き物たちの存在と関わる。だから、唯一のよりどころは、現在にではなく、過去にしか存在しないし、つまり、「もはやない」場所にしか存在しない。僕らの生きる世界に同じ条件で存在するものなどは一つもない。だから、そんな「もはやない」という生存する上での絶対的条件を、永久永劫諦めきれないらしい。それがための、時間と空間なんていう箍なんかを作り出したのも、この地球上の生き物では僕たち人類だけらしい。そんな決して振り向いてくれなどしない記憶に対して僕たち人類は徹底してこだわり続ける。

そんな箍なるものを超越論哲学とか存在論なんて定義したのが、カントとかハイデガーといった人たちだ。この既に鬼籍にはいって久しいこういった先駆者の為に、実際は僕たちが生きる上で、特に考える必要もないのに、時間や空間だとかが超越論的に僕たちの世界を規定している、なんてほざく連中がわんさかいるのである。

僕は大学院を卒業するまで、美学という西洋の学問の一分野で、哲学の一部とされる領域についてずっと関心をよせていた。なんで同じ穴の狢というやつで、これまで、いろんなどうしようもない文章もかきちらしてきては、それを忘れ去ってきた。健忘症というやつだ。

それでも、時々、それを思い起こして、読み直したりする。自分の思考の過程を追うために。そして一定の過去を懐かしんだりするのである。

今ちょうどいったように、人間の記憶とは、気まぐれな運命の女性のようなもので、永久永劫僕たちのもとにはとどまってくれない。ムネモシュネ、というギリシャの神話に登場する女神は、僕たちのほうを一度たりとも振り向いてくれないだろう。

それでも、そうした気まぐれな女性に振り向いてもらいたいがためのおべんちゃらを常に僕らは弄する。それでも、僕らは過去やら美しい記憶などを語るために生きているのでは、どうにもならない。自分のもとを去ったような恋人のことをいつまでもぐだぐだいうのはいい加減避けたい。また自分の目の前に現れるかもしれない次の恋人になってくれるかもしれない人を迎えいれる為にこそ、そうした「もはやない」過去を振り返る。だから、時間と空間という箍に自分をあてはめて、これから何十年と生きられるかどうかわからないけれど、それをどうにか生き抜くための算段を弄するのだ。

文字だって、あるいはイコンだって、絵だって、視覚に関わる、今ではない時間と空間にかかわる痕跡を追いかけることとは、そうした単なる悪あがきでしかない。僕たちはそれなしに一時も過ごすことはできない。

僕たちはその意味では一時たりとも普通じゃないのだ。そういう箍から一度外れてみるのことも、いつだってできる。けれど、そう何度もおおっぴらにそうしたアナーキーに身をまかせてよいものでもない。僕たちが生きる場所は、精神病院の一棟ではなくて、大多数の人が、そうした箍におわれつつも、それを了解して生きざるを得ないこの或る種の大海に浮かぶ憂鬱な島のような場所が僕らがいきる世界なのだ。しかも、それ以外に選択肢はあたえられていない。

そもそも今日はこんなことをダラダラと前おきしながら、久々にBlogなどという或る種の自慰行為にふけろうと思ったのも、まあ、この一週間久々に自分自身長い間忘れていた未知との遭遇に大興奮するような出来事とふれあったからだ。

今日はその前座として、もう4年も前に撮った写真を久々に、しかもたまたま見返していたので、それについて思うところを書こうとおもったのだけれど、もう前置きが長過ぎて、いったいそもそも何を書こうか、なんてことは忘れてしまいそうだ。

そうだった。

自分の記憶なんてのは、こうやって、うっかりカメラの裏蓋を、フィルムを巻き取らずに明けてしまったとほほな体験の後に、現像して後に出て来た写真の数コマのようなものだということをいいたかったのだ。けれど、完全に感光しなかったフィルムには、こうしてなんとか人間の視覚でも充分に見るに耐えうる像が残っている。僕たちと記憶の関わりとは、そんなたわいもないうっかりと次から気をつけましょうの永久永劫の反復のようなものだということだ。

IMG_0001そのことを、この4年も間ほったらかしにしていた白黒のフィルムネガティヴ、というなにもそれ自体は語りはしない物質に思い起こさせてもらった。人間の記憶の仕組みとはそれぐらいどうしようもなく危うく根拠がないのだ。

IMGそんなものだ。だから書くことや見ることや過去の思考を辿ることが、別の意味で次の時間と空間を取り開くことに繋がることを肝に命じておこう。

と、また自戒。てか、もうこれもいい加減やめたほうがいいのかもしれないな、と。

なんでこれからは持戒にしましょうかね。

では。