スターリンかマイケルか − 歴史の大皮肉について。

最近話題の白井聡氏の「永続敗戦論」が今回の帰国後、まず手が伸びた本だった。昨年の春出版されて以降、今に至る迄版を重ね続けている話題の書。今年の秋いまさらながら小生もこの本を手にした。

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白井氏は本書の末尾に、彼がベルリンを訪れた際にブランデンブルク門横で目の当たりにした奇妙な記念碑について書いている。それは「対独戦戦勝記念碑」という。それが、なぜブランデンブルク門と戦勝記念碑(ジーゲスソイレ)の間、しかも旧西ベルリン側に建造されたのかは、未だに謎だが、その記念碑のその存在自体が大いなる皮肉ではある。つまり、俺たち(ソ連をはじめとした連合国)がきさまら非道なファシストに勝利したことを、永遠に忘れることなかれ、と。それに類した記念碑はオーストリアはウィーンのかつての南駅の近くシュヴァルツェンベルク広場の側にもある(公にはウィーン作戦で戦死した赤軍兵士1万6千人の追悼記念碑だが)。

日本ではそうした連合国による戦勝記念碑なるものの存在を知らない。日本では、しかし、未だ、アメリカによる事実上の占領状態が続いている。戦後70年がまもなく経過するのに、首都の上空の大半を、事実上の占領軍で在り続ける在日米軍の管制下におかれている状態だ(この事実関係は矢部宏治著「日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか」という今年下半期最大の問題の書にくわしい。必読)。沖縄や「原発」をめぐるこの一億綜アパシーといえるような状況も、ある種の「永続的敗戦」の結果としてある。それを僕らは、白井氏にならって、「侮辱」の歴史とその現実と呼んでよいだろう。

今のドイツがヨーロッパでどのような地位を築き上げてきたかを知らない人はいないだろう。過去との論争を躊躇わなかったこの国では、その論争自体を十全に重ねてきた歴史ですらを、現在の彼らのアイデンティティの一部としてきた。言うまでもなく、日本ではその論争すらまだ「途」についてはいない。その先送りが、この僕らが現在まみれている「侮辱」状態を今更ながらに強化し、そうして同時にそれをも隠蔽する。

だから、歴史修正主義が世の主流になるとき、そうした「侮辱」というものがある種の共同幻想としてスケープゴートとして捏造され、徹底的な破壊の対象にすらなる。ドイツではそうした記念碑がいまだドイツの首都の中心に立ち続けている、それこそが、ドイツという国の戦後を物語っている。

と同時に、同じ「ファシスト」側の敗戦国である日本との違いを特に顕著なものにする。今の日本でスケープゴートにされているのは、その白井氏がいうような「永続敗戦状態」ではなく、それどころか、戦後の「お遊び」民主主義を形だけでもまだ保つのに寄与しているともいえる日本国憲法、特にその「9条」であるといえるだろう。歴史修正主義者はそれを押しつけられたものと固執する。今後、その「9条」との私たちの関わり方というのは、改憲いかんにせよ、諸外国に対して、特にアジアの隣国に対しても、先の戦争の私たちの立ち位置を示すことになる。

そう思いながら、今年の10月までほぼ一年以上を過ごしたプラハのこと、そして、戦勝国であるチェコ(当時はチェコスロヴァキアだったが)にはそうした例をないものか、と考えを巡らせてみた。

プラハの旧市街のヴルタヴァ川の対岸、市街を見下ろす場所にあるレトナ公園をご存知の方もあるだろう。現在では、不可思議なメトロノームの巨大な置物が、もはや針を揺らすこと無くプラハ市内を見渡している。ここには、実は第二次大戦後の50年代から60年代にかけての十年程の期間、市街を見渡すかのごとく巨大なスターリンの像が屹立していた。

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このスターリンの像がプラハの市内を睥睨するかのように建つこと、それは、汝ら(チェコスロヴァキア人民)は、自ら自身によって、ナチス・ドイツからの解放を成し遂げたにあらず、スターリン同志率いるソビエト連邦によって、解放されたのである、という歴史的事実を、チェコスロヴァキア人民にしらしめる、ということにおいて他ならない。

そして、これらの記念碑は、ドイツ(あるいはオーストリア)ならびに、チェコスロヴァキア両国の戦後の立ち位置を象徴している。すなわち、ドイツは、ナチスによる歴史的蛮行とその破滅的敗北を、現在にいたるまで、そして永久永劫、自らの歴史として背負わねばならないという事実。そして、チェコスロヴァキア(オーストリアも実は自らをナチより解放された考えている)は、ナチスによって味あわれた、ミュンヘン会談の屈辱、そして、それに続く国家の解体という隷属、そして、第二次大戦におけるナチスの「敗北」によって回復した独立も、もはやソ連の助けなしには、成し遂げられなかったという歴史的事実を物語っている。

ちなみにその別名はFronta na maso、意訳して「肉の配給に並ぶ列」である。チェコ人のネーミングセンスにはさすがに恐れ入る。野郎ども、「肉」がほしければ、おいどんに続くのじゃ、とスターリンが煽り、その後ろにビールのつまみの「肉」に飢えた人民が続いているように、当時のチェコスロヴァキア人は見えたのであろうか。確かに、チェコでの生活では、「肉屋」にならぶのはある種の儀式のようなものである。

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今は、そのスターリンと肉屋にならぶ愉快な仲間たち、の影は跡方もない。しかし、その像がプラハの旧市街を見渡す高台の上に一度は屹立したという事実。そして、その後のこのレトナの高台が巡った歴史が物語るのは、このチェコの歴史においては、日本やドイツとは対称的に第二次大戦の戦勝国であるというこの動かしがたい事実においても、その二度あるいは三度にわたる「屈辱」は癒されることはなかった、という事実だろう。

即ち、チェコスロヴァキアがナチス・ドイツによってまぎれた「屈辱」、そして、その後、プラハの春の結末において、今度はかつての解放者たるソ連に対しても強いられることになるある種の「陵辱」。それは消しがたい外傷となった。その「敗北」の屈辱にまみれることを拒んで自らの軀に火を放ったヤン・パラフら、その「敗北」記憶は、彼らの肉体のみならず、その「敗北」によって消しがたく刻み込まれた精神的外傷トラウマとして、その同時チェコスロヴァキア人に刻み込まれた、といってよいだろう。(この辺りのテーマは実際自身プラハの春を体験したアグニェシュカ・ホランドのBurning Bush(Hořící keř)に詳しい。あるいは正常化以降に西ドイツに渡ったリブシェ・モニーコヴァーの作品なども参照のこと。)

ビロード革命後の体制変換、そして、ハヴェルの後、十年間大統領を務めたヴァーツラフ・クラウスの存在こそが、チェコ人の無意識のようなものを物語っている。なにをもって、チェコの「屈辱」の歴史からの名誉を回復するか、ということにその国家としての意地とプライドが注ぎ込まれる。一つにそれは、チェコがEU加盟後も頑として譲らなかったユーロ・スケプティズム(欧州懐疑主義)として表れた。ある種、自国通貨の維持は彼らのプライドがもっとも注ぎ込まれた政治的課題の一つであったことは疑いがない。チェコはEU加盟後も経済政策においては非常に堅実に巧妙にたちまわる。経済学者が大統領なればこそであった。無論、クラウスこそが、中欧におけるネオリベラリズムの伝道師の一人であったことを差し置いてもだ。

にもかかわらず、チェコスロヴァキアの場合、自らが戦勝国であることを誇るような記念碑は、国中さがしてもそれほどみつからない。チェコを歩いて、其処彼処に見出すは、むしろ、第一次世界大戦後のチェコスロヴァキアとしての独立後に建立された、戦没者慰霊碑か。

しかし、逆説的に露見するのは、「屈辱」の記憶とそれを抑圧しようとする仕草だろう。

ミュンヘン会談の帰結として、第三帝国に割譲されたドイツ系住民が多く住まうズデーテン地方は、戦後、ベネシュ布告によって、ドイツ系住民の大多数が強制移住の対象になった。その当時の、痕跡は至る所に見出すことができる。

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プラハにいた一年間の間、北ボヘミアに足を向ける機会が多かった。ウースチー・ナド・ラーベムやリベレツといった街中のみならず、野原を歩いていると、時折、ドイツ人がいた時代を思い起こさせる様な痕跡を、建物のファサードや記念碑などに見出せる。建造物の場合、かつての持ち主の大半は、すでに、この国に居らずこの世にもいない。多くは、戦後、手も入っておらず朽ちるにまかされているか、記念碑の場合は、意図的に破壊されてもいる。

ところで、そのプラハはレトナに君臨していたスターリン像は、建造後十年を経た1965年、時のスターリン批判の渦中、そしてチェコスロヴァキアプラハの春の名の下の自由化の時代の流れの中で爆破によって撤去されることになる。

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そもそもこの「スターリン」は曰く付きも曰く付きのモニュメントであった。

この彫刻スターリン像の製作者であるオタカル・シュヴェツOtakar Švecは完成お披露目間際に妻と自殺。65年の爆破の時の発破作業の責任者は、その後精神病院送り。同じように、発破後、その作業とその発破のときの衝撃の激しさに、彼同様精神に変調をきたらせた市民は数知れずという有様であった。

そしてその後、プラハの春が過ぎ、さらに20年の時が経ちビロード革命。

その後に建ったのは、なぜかメトロノーム。

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ところが、90年代の半ばごろ。そのかつてスターリンとその愉快な仲間たちが肉屋に並んでいたその高みに、マイケル・ジャクソンの巨大な像が突如あらわれた。

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彼のヨーロッパツアーのプロモーションの為にたてられたハリボテのマイケル像が、かつてスターリンが君臨したレトナに、短い期間とはいえ君臨したことは、ある意味80年代以降の自由主義が共産主義に最終的に勝利したという事実の裏返し以外のなにものでもない。

最も、アメリカによるグローバリズムあるいは文化帝国主義の象徴ともいえるマイケル・ジャクソンが、かつてのスターリン記念碑の跡、プラハの市街を見渡す場所に建てられた、ということはただの偶然ではない。実際に、旧チェコスロヴァキアを含めたかつての共産主義国は、そうしたマイケルを世界中に輸出していったグローバル資本主義もといネオリベラリズムの草刈り場となっていったという事実は覆い隠しようがない。ネオリベラリズムとはある種の密教で、顕在することはないが、マイケル・ジャクソンのハリボテの人形は、ある種の「現れ」であったことはいうまでもない。その資本主義の一派であるネオリベラリズムという宗教は、実際、共産主義への不信感もあいまち、今日のヨーロッパでもっとも宗教と無縁といわれるチェコ国民には、多いに受けいられることになったのである。

その後も、メトロノームがレトナのプラハ市街を望む高台にある光景は大きく変わってはいない。

それにしても、その大きな針が、実際ふれているのをみたことは一度もないのだが。

かつてスターリンが十年にも満たない無い期間プラハ市街を睥睨したその記念碑跡ではスケートボーダーが日々集う。恐らく、彼らの多くはそこにスターリン記念碑が戦後十年間にわたって屹立していたことなど知る由もないだろう。そのそのメトロノームには今では大量の履き古されたスニーカーがぶら下がっている。西側からやってきたツーリストやそれに影響をうけた若者達が使い古したスニーカーを投げつけたのである。そいつらのことを、プラハで、ココロあるものはこういう連中のことを、西からやってきた、つまりアメリカ文化の手先、強いては昨今のネオリベの文化征服者の手先、言い換えると、ヒップスターたちと読んでいる。プラハでもはや彼らを見ない日はもはやない。ベルリンほどでもないけれど、それも一年後、いや半年後に再訪したときにはまた別の印象を抱くことになるだろう、そう確信している。

ではまた自戒。

参考
Stalinův pomník: https://cs.wikipedia.org/wiki/Stalin%C5%AFv_pomn%C3%ADk
Podzemí Stalinova pomníku se po dvaceti letech otevírá. Je plné trosek: http://praha.idnes.cz/stalinuv-pomnik-se-po-dvaceti-letech-otevira-verejnosti-pkq-/praha-zpravy.aspx?c=A140429_130210_praha-zpravy_bur
Sowjetisches Ehrenmal (Tiergarten): https://de.wikipedia.org/wiki/Sowjetisches_Ehrenmal_%28Tiergarten%29