この呪われたる「自由」の国に。

誰もが考えたくない結末だろうが、今やあらゆる可能性を思いめぐらせる必要がある状況に至ったのかもしれない。しかし、そのような危惧は実は別の意味で的外れということに気がついた。

「戦争は絶対にさけなければならない、あるいはおこしてはならない」ということを絶対的前提。なのに、「戦争がおこったときの備え」についてイの次に口するやつが背後にいるのは必ず、「戦争」という資本主義にとっての最高にスリリングなゲームが、そしてもっとも手っ取り早く甘い汁を据える方法であるがゆえだ。

もっともリスクマネージメントという言葉はあらゆる事態が起りるえる、そして起るというということが全体の対処法となる。そこでは緊急事態の「回避」と緊急事態が起った際の被害軽減は同レベルで行われるべきなのだ。今の日本ではどちら片方が必ずおざなりだ。

戦争という言葉が叫ばれる時、「平和」という言葉を口にすることは、ある種の免罪符だ、それを口にすることで「戦争」という緊急事態の背後で進行することになる数々の犯罪から一歩身をおく手段としては有効だ。

けれど。「平和」とて双方の合意なしにはあり得ない。

「戦争」は片方が一方的に始めることもあるが、実際はそうではない。それは、戦争以外に解決手段がない、という究極の状況下におけるある種の合意事項である。だから、どちらの側にも「戦争」をしたがる連中がいて初めて成立する。表立ってにしろ、当事者が「戦争」をやりたがる「誰か」に操られているにせよ。

だから理由はなんだっていい。資本主義が常に戦争をおこしてきた、なんて理由漬けは、結局の所おこぼれにあずかる連中がいるからそんな風に事後的に後づけされるのだ。戦争はてっとり早く甘い汁を据える連中が現れる一方で(しかもそんな連中ほど「戦争」の後も生き延びることになる)、てっとり早く、そうした連中に不都合な現実を最終的に「解決」あるいは「清算」することはうってつけなのだ。

「戦争なんか起るわけがない」は思い込みだ、という警鐘。小生だって「戦争」なんか望んじゃいない。けれど、このままでは本当に歯止めがかからない。

結局のところ今「戦争」をやりたがっている連中のなんと多いことか。そして、それに加担するメディア。メディアを背後であやつるのはだれだ。

そう。全てを解決するために?まさか。そんなに簡単にすべてをしかもそんな形で白紙にされてたまるか。

仮に「戦争」がおこったとしよう。例えば、尖閣諸島を巡る昨今のいざこぞの引き金を弾くことになった、かの勇ましき前東京都知事の老害が(かのように見えるが、やつとて死に損ないな上の「戦争の犬」どものさらなる走狗にすぎない)、かつて自らが賛辞しまくった方法で、最前線に立って自ら飛行機に乗って迫り来る敵艦隊に突っ込みにいくだろうか?まさか。あいつに限ってそんなことするわけがない。

BI6D2yFCYAAzk0j これが戦争の犬ども?

けれど、あの老害や現内閣総理大臣などの一派を含め、今やたらと「戦争」とかいう言質に走りがちな連中は、暗にそういう事態を望んでいる。やつらも必死だ。ヘタをすると自分すらも死に体だということがよくわかっているからこそだ。もちろんメディアは誰もそんなことを言いやしない、というのはやつらもグルだからだ。それでもって「戦争後」のタブララサをも生き延びようともくろんでいる。

戦争は結果としておこらないのかもしれない。現代の国家間の全面戦争は全てを御釈迦にすることなど、屁でもないのは誰の目にも明らかだ。

だが、その「危機」をあおることで、そこから自らの都合の良いように社会に、ある種の戦争という社会の「自由」に対する最大の脅威をでっち上げることによる、ある種の「例外状態」を作り出して、あるいはそうした事態への突入の予感、というような雰囲気を醸成することによって、あるいは今自民党がやろうとしているように、法律や憲法を「誰も」が気がつかないうちに作り替える。そうすることでひとつの社会全体の水も漏らさないコントロールを目論んでいるのは明白だ。もちろん、自民党なぞ、走狗に過ぎないのは明白だが。

危いとあおること、それは実に容易だ。なにがしらの脅威を煽ること、その上で敵を作り出すこと。それが何の為に行われるか。その仕組みをよく知っておかねばならない。

現実にその脅威はどこにあるのだろう。それは誰にもわからない。見えないし、聞こえもしない、そもそもあるのかどうかもわからない。

巷では、昨今の「戦争」や「政権転覆」の文字が飛び出すようなメディアの暴走ぶりに、そして中国を先ほど訪問した元首相のことを「国賊」と名指すような雰囲気を、第二次大戦突入直前の1930年代の日本のようだという。恐らくそうだったに違いない。

しかしその先にあるのは、危ういと思われるものも、実際にそうでものないものでも、権力側の恣意によって、なんでもかんでも根こそぎ支配下に置こうとする監視社会だ。

でも、そこでは、誰も監視されているという実感はない、あるいは出来るだけないように仕組まれる。

もちろん、そんな社会になったのは昨日今日のことではない。

ジェレミ・ベンサムという思想家が、パノプティコンという近代の刑務所のコンセプトを考えだしたのは実に19世紀末のことである。

監視対象である僕らには、完全な「自由」を享受しているように思わせる、その仕組み。これを近代の権力体系ということを暴いたのが、そして、それが(ネオ・)リベラリズムというものの基本原理であることを見事に指摘してのけたのが、かのミシェル・フーコーであり彼のシンパたちだ。

もう少しわかりやすい例を持ち出すことにしよう。

日本は世界一監視カメラが配置されている国だという。

ベルリンから日本に戻ると、確かに特に鉄道の駅や公共施設の至る所にカメラが設置されているのに気がつく、まるで水も漏らさずように。ベルリンでだって、至る所に監視カメラが設置されているのに、最近よく気がつく。それでもだ。

日本にいれば、それが当たり前なのかもしれない。自分はやましいことをしていないから関係ない、ということで済むのかもしれない。

もちろんその事実には現前とした伏線がある。思い当たることはないか。

その契機になったのは、言うまでもない、あのオウムが起こした一連の事件だ。あの一連の「地下鉄サリン事件」とその後数年に渡って起ったオウムにまつわる大騒動だ。

心当たりはないか。日本で電車にのれば、そして駅で列車をまっていれば必ず聞く「危険物を見つけたら」のお題目、だ。それももはや9.11を経験したアメリカだけでなくヨーロッパでも一部の国では日常茶飯となりつつある。

どこでどう見張られているかわからいない、そのような感覚。日本から来た僕らはそれが当たり前すぎてわからなくなっている。ある意味、おりの中の猛禽類だ。だから、誰も、もはやそこら中にある監視カメラなぞ気にもとめない。そこら中でいつのまにかそのカメラを通じて四六時中見張られているにもかかわらず。

そう。だから恐らく今の日本ではその事実を口にすることなど、もはや世の中の大多数の失笑を買うようなことなのだろう。

ここで、オウムの起こした事件とその後の出来事を少し思い出してみよう。

オウムの問題を深く追った森達也氏の「A」、その続編「A2」はそうした日本社会の変化、しかも水面下で大多数の日本人の関知せざる所、あるいは無関心の彼岸で起こった変化を正確に捉えている。最近文庫化された「A3」ではオウム教祖と信者の裁判について追うと同時に、あの事件が社会になにをもたらしたかをとらえている。

まず、なぜ、あのような多数の多重の犠牲を強いることになったか、ということだ。一連の出来事がなぜおこってしまったか、ということを問う試みは今まで数限りなく行われきた。(その最高の成果ともいえる森氏のドキュメンタリー映画「A」と「A2」、まだ映像化されていないが、その続編である「A3」は、小生の駄弁よりも、その問題について饒舌に語ってくれているので、関心のある方はそちらを参照していただきたい。)

自分たちは進んでそうした自体を望んだのではない、多数の犠牲者を出してしまった以上、そうせざるをえなかったから、という意見が多数なのかもしれない。しかし、そこら中に危険があたかも潜在していることを危惧するような雰囲気を醸成することを容認したのは、他ならぬ僕らなのだ。

では、なぜあの事件では、その後の結末までも含めても、また別の「代償」を払わなければならなかったのか。その際、僕らは一見不可侵であるべきの「生」の一領域を差し出すことを要求されたのである。自らの「自由」と引き換えに。すべて。引き続き、なにも起らなかったように。

この「自由」の国の「自由」のために。

先ほど触れたミシェル・フーコーは、そのエイズによる早すぎる死の直前に、リベラリズムというある種の政治思想を、数あるうちの統治理性Governmentalityの一端であると、鮮やかに分析してみせた。

その(ネオ・)リベラリズムとは、フーコー曰く、そうした(経済あるいは市場原理至上のための)「自由」というものを成立させるための安全保障、つまりセキュリティという担保と引き換えに成立する、社会を統治するための技術の一つでありであり理性であるという。以上のことを頭に入れておく必要がある。

その(ネオ・)リベラリズムが今僕らが生きている社会の支配的な仕組みであると疑ってかかることは一見難しいのかもしれない。しかし、この社会の支配の仕組みの一つであればこそ、言い換えれば、社会の似姿の複数ある可能性の一つでしかありえないということでもある。

それゆえ、ヨーロッパではこの手の「安全そしてセキュリティ」なるお題目に対して違和感を覚える人は、日本に比べればかなり多い。

今年の冬、ベルリンのアナーキストたちの連中の間でプロテストも兼ねて、街中の監視カメラを叩き潰すあるいはスプレーで塗りつぶすというゲームが流行っていたらしい。特に公共機関や施設でランクが高い場所のカメラをぶっつぶすほど得られる点は高い、ということだったそうだ。

このヴィデオの地下鉄の乗客のようにこんな現場に居合わせたら、小生とて、ただ凍り付いてその場で彼らがバシバシ壊しているのを見ていただけだったろう。

良い子は絶対に真似をしてはいけません。

ただ。小生だって最近の監視カメラの多さにはどうしたって眉をひそめる。先日日本にかえったときは、あまりものカメラの量に辟易としたものだった。ときには、そんなカメラに向かってアッカンベーぐらいはしたくもなるし、実際しょっちゅうする。

もっと手短かにまとめよう。

いうまでもなく「自由」とは無条件に与えられているものではない。

その「自由」を享受するために、その自らの自由なるものの内実、すなわち、自らの自由を行使するための空間への参加を通して、「自由」が行使されるべきその場所へ、自らをさらし出さねばならない。そのプロセスを、それを「主体化」という哲学の問題に引きつけてひとまず定義しよう。一つの「主体」であるということ、そして「主体」が生きる上での一つの条件としての自由。その自由なるものを享受するために様々な代償を払う。

同時にその「自由」という概念も、人類が、一人一人のホモサピエンスという動物が自由であるために長い血みどろの戦いとその長い歴史を経て獲得されたものである、ということをここに強調しておかねばならない。そのテーマと真剣に格闘し始めたのが、ギリシャ人だ。それが「哲学」というものであろうか。

勿論、「主体」としての自由の神聖不可侵性、それはある一人のホモサピエンスという動物が、その彼や彼女が参加する「社会」というシステムに一つの「主体」として参加することによって発生する、一つの概念に過ぎない。それは、一見見えるように贈与されるものではなく、その「社会」というシステムへの他の参加者、すなわち「他者」との関係上発生することになる、あくまでも対他的なものとしてだ。

その意味では、自由とは形而上的に存在するものではない。といって、それは国家や君主などによって制限されるものでもない。

インターネットにおける匿名性とそこでの自由に関する議論を思い浮かべてみよう。

フェイスブックのようなインターネットにおけるSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)の急激な普及で顕在化したのは、インターネットにそれまで可能であった「プライヴェート」に自由を行使するという自由というものが急激に制限されようとしていることだ。匿名であることは、ところが、この「自由」な社会におけるある一つの「主体」であるということと、とどの頭から両立しえつつなっているということ。このことを「自由」な社会は、こうしてインターネットという空間にも持ち込みつつある。もはや、それはどうあがいても避け難いことだろう(とはいえ、現行のネット空間ではまだ「偽装」というトリックもまだ通用しうる、と同時に、ネットの世界によるアイデンティティの定義の自由は、ネットに海賊という人たちが出現して以来のテーマだ)。

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オランダ海賊党のポスター『監視するやつらを監視するべし」

インターネットというヴァーチャルな空間において、実際問題として、社会における一つの主体がもつ「生」ようなものが成立しうるか、という議論は今まで数多くなされてきたし、これからも壮大な実験が様々な形でとり行われることになるだろう。この問題へは、当論の枠を越えてしまいそうなので、これ以上突っ込むことはひとまず脇においておこうと思う。

さて。そのようなある主体がそうした自由を行使する空間にそれぞれ様々な形で参加することになる以上、その社会と言う場所にはある種の取り決めが必要となる。それが法というものだ。

「リベラル」というシステム(リベラリズム/ネオ・リベラリズム)には、それゆえ、一つのかかせない生命維持装置が必要とされることになる。それこそが、安全、保障、そしてセキュリティ、という権力がもちいる一つの装置である。と同時にそれらの装置が「リベラル」という一つのイデオロギーを維持するがための最低条件なのだ。

翻ってみると、今日本で進行中の企てとはこの20年弱の出来事の総決算とでも言えるような類いのことだ。

思い起こしてみると、全てはあの前世紀末95年3月のあの出来事から始まった、と言えなくもなかろうか。

オウムの事件にしろ、2年前のフクシマの原発の事故にしろ、条件が整いさえすれば、世界中のどこの社会にも起こりうるヒューマンエラーだ。もちろん、なぜ昨今の重大事故がよりによって日本という国でおきたのかということを、僕たちが自分自身の問題として議論する必要はあるだろう。

それなのに、原発事故に関していえば、これから将来に渡ってさらなる犠牲を払うことになることはもはや明白であるし、オウムというひとつの「出来事」を、日本という社会は未だ解決してきたとはとてもいえない。

そこで生じるのは、僕たちは本当の意味での自由の国に生きているのだろうか、という疑問だ。自らが一つの「主体」として無数に存在するはずの同様の一つの「主体」としていきる他者たちと、自らの意志で自主的に生きる国に。

それなのにだ。歴史は繰り返されるのか。国民の言論を制限する憲法改正。そして、現実のもととなるのか、国防軍。

かと思えば、フクシマの事故は未だ収束せず、誰もその件に関して「責任」をとろうとはしない。「安全」「保障」原理主義者たちの視点から、この一件が完全に抜け落ちているかのように見えるのは、全くおめでたい話だ。

しかし、「リベラル」という社会システムを現行の日本社会が選択している以上、また世界の大多数の国がそれを選択している以上、これは当然の帰結ともいえる。

これもそれも現行の日本国という一つの国家が「自由」な国であることを維持しようとするがための担保としてとられているがためだ。それも、日本という国に住まう人々が安全で健康な生活を営む、という権利の一つとも引き換えにだ。それは日本国憲法という日本国が、国家たらんための箍に照らし合わせてもこの一件は合法とはとてもではないがいえない。

けれど、日本国とその国民が現行の政治と社会の制度を選択する限りは、決してこの一件に関しては責任はとられることはありえない、と思うしかないのだ。もちろん、「モラル」「倫理」というものにさかのぼっての責任の追求はありえるだろう。だが、それは「政治」という出来事の埒外に存在する。

そもそも「リベラル」とは「モラル」を顧みるであることはありえないし、とどのつまり、自らの存続、自らが「自由」であることにしか興味がない。そこには本来自由であるべき「主体」が必要とするところの「他者」とそれに関わるところの「責任」というものが限りなく希薄である、なのだ。

カール・シュミットらによれば、国家や政治は、結局のところ、そのような空白の中にこそ存在する。そのための「立法」という機能が存在するのは、そうした法が通用しない「例外状態」という事態を乗り越える必要が常にあるためだ。やがて、その「例外状態」は国家が作り出す「法」というものによって、乗り越えられることになる。である以上、究極的には、この件の責任がとられる折は、なべて「自由」の国のその「自由」というやつがなにか別の「自由」と名のつく物に取って代わられる時以外ありえない。それもいわば「例外状態」に含まれるだろう。

小生はある意味そんなカール・シュミットのシンパなのかもしれない、とふとここで思う。

もはやそれはナチス・ドイツや戦前の日本がおこなったこと、3.11以降のアメリカやヨーロッパでも世界中津々浦々で進行中の出来事を思い浮かべてみればよい。

だが、この「自由」をなにか別のものでとってかえる、そのことによって、問題の解決をはかることの帰結について考えをめぐらせてみればよい。だが、一歩間違えれば極めて危うい思考にも繋がりうる。それは歴史書をひもとけばわかるし、今この世界の津々浦々で進行中の出来事を思い浮かべればよい。

昨今のセキュリティ原理主義者にとって、原子力とは核武装というものを可能にするための安全保障のための手段の一つであり、ナショナリズムも国防軍もみなその手段の一つである。もちろん、現行の日本国が選択している社会システムとしてのリベラリズムも、つまるところその重要な一翼を担っている。

そう。全てはこの呪われたる「自由」の国の為だ。

ファシズムはいうまでもなく昨今大絶賛流行中の島国ナショナリズムは小生の肌にはあわない。

なので、デモクラシーなるものを信じてもよい。歴史の影に葬りさられたアナーキズムという思想はどうだ。様々な選択肢がある、その多数性だけは確かだ。そのことを信じるとしよう。

けれど、この「自由」の国はいま自ら招いた危機の只中で存続の可否を問われていることも確かなのだ。

そろそろその軛(くびき)から皆で逃れるための術を小生もそろそろ考えなければならない。

これからはその為のLüegenlernen(嘘のレッスン)となる。

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というわけで、本日の小生のお題目をここまで読んでくださった方への感謝のしるしとして、先着様一名ににつき話題の書、森達也著「A3」上下巻貸します。

条件・・・ドイツはベルリン・ノイケルンの小生宅までとりにこられる方。なんでベルリン周辺在住の方に限られますかな。現在貸し出し中なので、希望の方は事前に連絡あれ。

いうまでもなくこの御題は永久永劫続きます。

ほんではまた自戒。