Browse
さて。夏はいったいどこへいってしまったか、という天気だけれど、突如雨のガリチアから初夏のガリチアへ、記憶は飛ぶ飛ぶ。ベルリンは現在午後9時半で、小雨、17度か。肌寒い。今年の夏はめためたに暑いところにいってもいいのでは、と思ったりもしている。というとどこだ、アラビア半島か、それともアフリカか、中央アジアか。さて。(以下昨年8月アップのログ)
******************************
ダー,ダー。
ベルリンでもこのダー、ダーを良く耳にはしないだろうか。ダー、ダー、と大きな声が聞こえてきた先にいるのは、たいてい、大声で携帯電話にむかって喋りかけるロシア人。
ターク、ターク。
ベルリンでは、このターク、ターク、もよく耳にする。その先にいるのは、ポーランド人。ロシア人に負けず劣らず、声も図体もでかいし、同国人と集団 行動することが大好きなゆえ、彼らもよく目立つ。その上通称ポラーケ(独逸人のポーランド人に対する蔑称、チェコ語やポーランド語ではポラークという)にカテゴライズされる人々は独特の威風をほこる。
彼らはトルコ人やヴェトナム人とならんでベルリンの4大マイノリティーを形成している。この彼らのダー、ダーとターク、タークを耳にしない日はないぐらいだ。
このダー、ダーとターク、タークの二カ国にはさまれてあるウクライナでは、特に西ウクライナ、ガリチアとよばれている地方では少し異なる。
ター、ター。
先日ショークヴァを訪ねた日のことを書いたけれど、今回はその次の週の話。
暗く雨にぬれた春が始まりかけたガリチアから初夏のクリミアへ。そして、そのクリミアからまたしてもガリチアへ帰還。ショークヴァでの曇り空から一転、一週間後のガリチアの空には雲一つなかった。照りつけるような日差し。ガリチアの夏はかくもきびしいのかと思わせるような初夏の雰囲気ただよう一日。古くはサッハー・マソッホ、そして20世紀にはいってはヨーゼフ・ロートやブルーノ・シュルツ。彼らの描くガリチアは、曇り空の下の湿った隙間だらけの穴ぼこだらけの石畳の路地よりも、ぎらぎらと照りつける太陽とその下でひからびた埃まみれた大地を真っ先に思い起こさせる。
そのロートの生まれ故郷であるブロディへ小生は向かっていた。リヴィウから北東に約80㌔程の道程。
リヴィウからブロディへ向かう中型のマルシュルートゥカは毎度のことながら満員で、車内はあっという間にうだるような暑さになった。4月でこれほど暑さならば、夏はどれほど暑くなるのだ、と思わせるほどだった。クーラーなど、もちろん、ある場所は限られている。
ブロディは、ロートが1920年代にフランクフルター・ツァイトゥングに寄稿した「ガリチアを旅して Reise durch Galizien」に記した通りの憂鬱な軒の低い建物が連なる街並み、ユダヤ人が人口の多数を占めるかつてシュテーテルとよばれていたような典型的な田舎街だった。町並みは正直いって美しくもないし、そして、ロートが何度も強調していたように、なんの特徴もない。これで雲が低くたれ込め雨が降りしきれば 憂鬱この上なかろう。ロートにまつわる痕跡をこの街に期待していた小生は良くも悪くも予期していた通りの軒の低い建物が並ぶ、やはり埃にまみれた通りをくぐり抜けながら、過去100年にこの街でどれほどの変化があったのだろう、と想像した。
よくも悪くも期待していていたようなガリチアのシュテーテルの憂鬱を充分に感じることができたが。
この旅ではガリチア出身の作家、特にロートやシュルツの生まれ故郷訪問がテーマの一つだったのだけれど、よくも悪くも観光という言葉とはまるで縁がない中欧の東の果て、あるいはヨーロッパが果ててアジアがはじまるともいえるような地域を旅しながら、これから先、十年先、どれほどの変化がもたらされるのだろうと思う。
変化はあったのかもしれない。
けれど。ベルリンからやってきた日本人にとってはそこは地の果てでもあった。もちろんガリチアから広大なユーラシア大陸がはじまるといってもよいのだけれど。インゲボルク・バッハマンだったか、ドナウ川の向こう側からサルマチアが、そしてアジアが始まるといったのは。その伝説の国サルマチアがあったのは、そもそも現在でいうガリチアのあたりといわれている。
ブローディではその街の規模と比して、かなり大きなシナゴーグの廃墟に出くわした。シュルツの故郷であり、彼がナチによって突如路上でその命を奪われるまでの50年にも満たない一生の殆どを過ごしたドロホヴィツィにも巨大なシナゴーグの廃墟があった。どちらも街の只中にあるにもかかわらず、誰にも顧みられることもなく、静かに自然に帰ろうとしていた。
ロートとシュルツの故郷を尋ねた日は折しも4月にしては夏を思わせる日差しが照りつけていた。雨が降りしきるより遥かにまし。もちろん、ガリチアとメランコリー、そういった小生のステレオタイプとはまるで違った日差し。
そんな初夏のブローディを後にして、小生は再びリヴィウへと向かうマルシュルートゥカの車上にあった。リヴィウから10分ほど車をはしらせて左手の丘に大きな城を思わせる建物が目にはいった。すでにブロディへの途上その城を目にしていた。
ピドヒルツィ、とバスの停留所にあった。その停留所に止まったバスから迷わず飛び降りた。停留場のある道の左右両側は満開になった菜の花に包まれていた。その城のある丘のある方にむかって畑の間の小道を歩き出した。
あいもかわらず初夏の日差しは厳しかった。それでも、雲一つなく晴れ渡ったガリチアの初夏の大地を歩む足は軽く、その美しい風景を楽しみながら、いつしか城がある丘の下の小さな村にたどり着いた。
ふと小生は直観から道を左にとったが、いつのまにかコルホーズらしき農場の中に入ってしまった。ふと横をみると、コルホーズの従業員と思しき兄貴が小生をみている。とっさに、城へは、と訪ねる。すると、兄貴は反対側の出口をでて左だ。まっすぐだ。簡単だ。まちがえんな。という。
しかし、コルホーズをでて東側へ向かう道は確かに丘の上に向かうようではあったけれど、実際は穴ぼこでだらけですぐ先からは薮の中でとても道とよべ るようなものではない。しばし、左右を見渡すと、側にある家の庭には大勢人が見える。庭でパーティーでもやっているようだった。道を尋ねるべくそちらのほうに足をむけようとすると、すると、背後から車が一台やってきて小生の背後でとまる。そのドライバーの若い兄貴に道を訪ねるが要領をえない。城はたしかにもう真上に見えるのだが。
ここで女の子達をまってるんだがね、城のほうからくるはずだから、この道で間違いないはずなんだけどさ、とかいう。その兄貴が喋っていたのはウクライナ語ではなくてロシア語だった。
そうこうするうちに庭にいた一人が小生たちに気がついてこちらへ向かってきて、あんちゃんたち、城へいきたいのか。だったら、もどって、コルホーズの向こうにある道が城の正面へ通じとるぎゃ、と。
しかし、そんな遠回りをするのか、といぶかしんだ小生は、いやいや、城に上がるのは僕だけで、この道歩いて城にいけますんかいな、と尋ねると、ほんだらこの道ずっとあがっていくだけだぎゃ、という。prjama(ロシア語でまっすぐ)でんなと、いう小生に対して、おっさんは、そうだぎゃ、 prosto(ウクライナ語とポーランド語でまっすぐ?)だぎゃ、という。
ロシア語とウクライナ語の短いやりとりを経て、小生は城に向かう坂道へととりかかる。穴ぼこだらけで道の勾配は険しい。
すると目の前から背の高いブロンドの女性が鶏のようにひょこひょこと小刻みに足を前に運びながら道をくだってくるのが見えた。ものすごい高いハイヒールをはいているのが遠目にもわかった。
ウクライナ美女とハイヒール。クリシェともいえる組み合わせ。
とはいえ、正面から歩いてくるのはものすごい美女だった。ウクライナでもこのガリチア近辺でしかみかけない。正直なところ西ヨーロッパではほぼお目にかかることはないスタイルと美貌が完璧な形でそろった女性が高い割合でこのガリチアにはいるような気がする。独逸人などとは比べ物にならぬ。
ガリチアはヨーロッパでも指折りの美男美女の地なのかもしれないと思う時がある。
マゾヒズムの語源となった独逸語作家のレオポルド・サッハー・マソッホもガリチアの首都リヴィウの生まれだ。その彼もカルパチアの山の麓のガリチアは絶世の美女を産する地とあちこちで書いている。そんな彼が「毛皮を着たヴィーナス」をはじめとした、ガリチアの美女をテーマにした哲学的(!)妄想小説 の数々を書いたのもさもあらん、と納得するぐらいの美女が時々やはりこの地にはいるのかもしれない。
すれ違い際、城へいくにはこの道で間違いないね、と小生は尋ねる。するとすれ違い際の美女は顔をあげて小生を見て微笑みながらこう言う。
ター、ター。
あの「ター、ター」を今頭の中で反芻しながら、あれは天使が小生の際を通り過ぎた一瞬のささやきではないか、と今でも思うことがある。
ではまた自戒。
13年前にはじめてプラハからポーランドへ向かった列車の中はとてつもなく暑かった、と記憶している。
プラハからヴロツワフへ向かう列車の中。ハンガリーからスロヴァキアを経て、プラハにやってきた小生は当時、夜のプラハを夢遊病者のようにさすらう。あの夏の夜のプラハは日本の夏の夜を思い起こさせるぐらい湿っていたと記憶している。すでに90年代の末だったか。
ここ二年程、ベルリンとプラハの間を行き来するような生活になり、プラハもかつて10年以上前に訪れた時のような目眩がしたような小道の連続する旧市街やマラーストラナーに滅多に足が向かなくなってからもう久しい。それでも、あの時のプラハの小道にまとわりつくような湿気と夜の温みはまだ小生の体が記憶している。
4週間前にプラハにいたおりの天気は不安定で、雨が降ってはやみ、夏の太陽が照りつけるという、気温の上がり下がりはともかく、時折降り募る雨のせいでとにかく湿気だけはもの凄い一週間だった。日が暮れた午後10時でもプラハ中心部は汗ばむような湿った空気で、家の中は蒸し風呂状態とはいわないまでも、気温の割には過ごしづらい夜が続いた。
そんなときには城に登る。小生がいつも滞在する友人宅はスミーホフとマラーストラナーの境目付近。プラハ城の上へ向かうマラーストラーナーの城へ向かう小道では10時を過ぎれば殆ど誰とも出会わない。城の上に上がって初めて誰かに出会う。城に上がったころにはまた小雨がぱらつき出し、また家へと向かって階段を下っていく。
これがプラハにいる時の、誰もが知っているプラハとの、小生なりの付き合い方だ。しかし、それでも、初めて夜のプラハの小道を夢遊病者のように歩いた時に覚えたあの湿ったまとわりつくような空気の重みは、この時は思い出すにはいたらなかった。
さて。 3週間前の金曜日の朝は曇り空だったか。次の週の月曜にベルリンでの用事に会わせて早々にプラハ滞在を切り上げて家路につくことにしたのは、今が観光客であふれ帰ったプラハの喧噪が面倒になったからか。それでも、なんとなしにベルリンに直接帰る気にもならず。中央駅へ向かうトラムの中でも決心はつかず、結局中央駅まで結論は持ち越されることに。
ヴロツワフ経由、ベルリン。
これは90年代末小生がポーランドをはじめて訪れた時、かつベルリンを初めて訪れた時のルートでもある。
結局、出発まで15分に迫っていたベルリン行きのユーロシティに乗るのはやめ、プラハから東に向かう列車に文字通り飛び乗った。列車は小生が飛び乗り扉を手動でしめるとゆっくりと動き出した。その時点ではじめて、昨今のチェコにしてはやけに古風な車両であることに気がついた。
一時間程してパルドゥビチェでモラヴィア方面に行く列車を降り、クウォズコ行きの列車に乗り換える。
かつてはヴロツワフ行きの直通列車があったはず、プラハ中央駅の、いまやドイツの駅のように明るく見通しのよいオープンカウンターになったインフォメーションで、小生はそう尋ねた。それに答えるインフォメーションのおばさんは、昔はと、答えた。けれど、行くのは面倒ではないから、と時刻表と接続をプリントアウトして、プリントアウトした時刻表を見ながら説明してくれるサービスぶり。時代は変わったもの。
そもそも、そのヴロツワフに向かう列車だって、誰に聞いても、しらない、そんな列車はない、と窓口をたらい回しにされ、当時チェコ語はいうにおよばずドイツ語もままならなかった小生は、やっとの思いで駅の中にある筒状の時刻表と小一時間格闘して、ようやくヴロツワフ行きの直通列車の時間を突き止めたのだった。確か、朝7時前出発だった、と記憶している。
ところが今回探そうとして見つからなかった筒状の時刻表。筒状の時刻表があったであろうところには、タッチパネル式の端末がおいてあるという変貌ぶり。アナログさが懐かしいのは小生だけだろうか。
パルドゥビチェから乗ったクウォズコ行きの列車は込み合っていた。バックパックを廊下において、全開になった窓の外へ向きながらビール瓶を傾け談笑する若者たちの一群もあり。雨が時折ぱらつきつつも、晴れ間も見える奇妙な天気であったが、天下のチェコビールを飲むのに天気など関係ない。チェコをしばらく、といっても一ヶ月程度だろうけれど、ご無沙汰になるというのに、プラハを出る前日にビールを一杯も飲んでいないのに気がついた。
その一群も、国境が近づき、山間を走るようになると、一つまた一つと降りてゆき、結局国境のリヒコフにたどり着くころには車内には空いているコンパートメントが目につくようになってきた。しばらく国境の駅に停車しているうちに、車内はあっという間に暗闇を覆れはじめた。なにごとか、と廊下の窓から顔を出すと、あっという間の雷雨。駅員が小生の顔を出すその下を雨にうたれながら走り行く。そして雨の中を列車はゆっくり歩みだす。
またしても雨だ。
ポーランドに行くとすると必ずに雨になる、記憶にある限り。
いや、13年前にたどったはずのこのルートではうだる程の暑さだった。けれど、うだるような暑さであったことはいつもなかった、小生の記憶の中でのこの国の風景は。
ともあれ、まだポーランドにはたどりついていない、その中途だった。列車は雨にぬれた野原の只中を右へ左へと揺れながら走る。
小生のいるコンパートメントの中にはポーランド語の本をめくる初老の男性とロシア語の本をめくるリュックザックを傍らに置いた青年がいる。雨はいつのまにか上がっていた。しかし、国境地帯を走る列車の車窓からは雨雲たれ込める黒い空のみ見える。この車窓と湿った大地と森の間を走る列車には黙々と本のページを繰る乗客が似合っている。
忙しないのは13年ぶりにこの路を行く小生だけか。それ以外はなにもかもがそのままなのだろう。
いつのまにか列車は駅に止まっっていた。ホームにはただMiędzylesieとあった。森の只中という名の駅。ということは、そこはもうポーランドだった。
ホームに降りる。雨上がりの後の肌寒さ。13年ぶり戻ってきたこの駅のホームにたってもなんの感傷もなかった。その場にたっても、13年前のことなど結局何も思い出せはしなかった。
今思い出せるのは4週間前にホームに降り立った時のその湿った肌寒さ、只其れだけ。
これが意外にも今年はじめてのポーランド帰還であった。何度もいうが、ベルリンからポーランドまではただの100キロも離れていない。
それに引き比べプラハは遠い。ポーランドへは行こうと思えばベルリンから毎日でもいける距離であるのに。
ではまた自戒。
ベルリンを聴く。Weinerei, Fehrbelliner Straße, Berlin-Mitte, 2010年3月1日。
最近聞いてみたらおもしろかったのでアップ。これも一年以上前のホームページがクラッシュする以前の記事。
***********************
昔日本にいるころ良く集音マイクとMDをもってよく東京都内津々浦々をサンプリングと証しながら色々音を集めてまわっていたのだけれど、そんなこと もベルリンに来て以来、いつしかしなくなって久しい。最近、いつももって歩いていたフィルムカメラが二台とも壊れて、すでに2ヶ月くらいになるのだけれど、そんなわけで写真もとらなくなった。デジカメは相変わらず持ち歩いているのだが、当然のことながら満足のいく像はえられないし、最近はやたら動画をとることにしか使っていない。
とった動画の映像をみていると、(いうまでもなくデジカメの動画機能でとったものだから像の質は当然のことながらよくはない)、意外や意外、録音された音 の方にこそむしろ関心がゆく。人間の目とカメラとの関係同様、人間の耳とはまた別の音をカメラは録ったりもする。そしてその録った音からその音が録れれた 場所の像をイメージする、そして、ロゴスから出力する、という作業を今、バルカンでとったビデオを見ながら行っている最中なのだけれど、それを突然ベルリンでもやってみたくなった。
音から実際その音が録られた場所をイメージするには、実際に聞こえたこと、そして、録られた場所などの限られた情報から推理するしかない。それこそ、自分の想像力の随を総動員しなくてはならない。あたられたイメージからではあたられたイメージ以上のことを膨らませることはできない。聴くということからイメージを形象するには相当の想像力が必要なはずだ。しかし、音も、ある一つの場を織りなすひとつのイメージの構成要素となる。そんな人間の知覚のうちのひとつから一つの街の像なるものを作りだす、そんな試みをいつかはやってみようとおもってなかなか実現しなかった、あるいは、そういう機会にめぐまれなかったいうべきか、技術的な問題もあって、そんなわけで録った素材もで忘却の淵。そういう素材もそのうち復活させることも考えながら、ここのところ肌身欠かさず持ち歩いているipodtouchについているヴォイスレコーダーで試しにそのカフェの音を録ってみれば、おもった以上にかなり音がひろえることがわかり、今日のベルリンの日常初サンプリング。場所はMitte最後のDigital Bohemienの拠点のひとつ、もといこの界隈の古典ともなりつつあるWeinerei Cafe。なにが聞こえるだろう?どんなカフェを想像する?
1. March 2010, Weinerei, Fehrbelliner Straße, Berlin-Mitte by Luegenlernen
ではまた自戒。
小生の小言
Posting tweet...
Powered by Twitter Tools
Letzte Artikel
Kategorien
Seiten
Archive