おいどんもドリフの一員になりたい。(再)

最近自分がノマドになりたいと強く思う時が多くなった。ここ一ヶ月実際に二度もベルリンとプラハの間を行き来しているので。いっそのことプラハに移ればいいのに、と友人たち及び両親にもいわれることがあるし、自分でもそう思わなくもない。

でも、そうはいかないのは自分でもよくわかっている。ベルリンが小生にとっての本拠地だからだ。それ以上でもそれ以下でもない。ベルリンは小生にとり、いつも旅立つ場所であり、そして旅の終わりに、次の旅立ちへのつかの合間をすごすために舞い戻ってくるための場所なのだ。

結局ノマド向きではないということなのだろうか、小生は。

それでも自分がすごく根無し草だと感じる時がものすごくある。

だから、自分の田舎が京都だとうそぶいたりしたくなったりするのだろうか。まあ、これまでの人生の大半、20年程をあの街ですごしているということはまぎれもない事実なのだけれど。

以下の記事は、一昨年(2009年)の9月、ベルリンでの滞在がこれまで一カ所にすんだ場所の期間としては最長記録を更新したことへの記念の意味をこめてかいたもの。ベルリンにたどりついたのが、2003年の5月3日だったので、すでにベルリン在住は8年を過ぎたということか・・・。ちなみに小生のこれまで住んだ居住した場所のリストと期間は母親曰く正しくない、しかも、もっと他の場所にも住んでいるという。ということは赤ん坊のころもっと他の場所にもすんだことがあるということらしいが。

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生まれながらのノマドなどとあちこちで吹聴しておきながら、すでにベルリン在住まもなく6年半。ベルリンに来てから数年旅行にもいかなくなってしま うぐらい、全く動きがなくなってしまった現状にイライラし始めたのが、ここ2年程で、それ以来、年の2ヶ月ぐらいは長期の旅行にでていたりしている。

実は今日とある事実に気付いて自分でも唖然としてしまった。小生の人生の一つの街の連続在住記録を半年ほど前にとっくに更新してしまっていたのだ が、不覚にもそのことにこの半年全く気がついていなかった。あちこちで自分は京都人といっておいて普段からだれかれかまわず少々奇妙な京都弁でしゃべりたおしているつもりでいるが、実は生まれは東京築地。8歳まで、2年半弱神戸に住んでいた以外は、東京都下と横浜に住んでいた小生は、実は関西弁ネイティヴ ではないし、それどころか生まれながらの関西人もとい京都人などでも全くない。今、日頃からあたかもネイティヴのように喋り倒している関西弁京都方言もど きも実は後天的にまなんだものでしかない。

それはともかくそれまでの最長記録は実は京都の5年8ヶ月。もちろん、京都には小生がはじめて京都に移ってからも両親が住み続けている上、母親の実家が京都にあるせいで、それこそ物心ついたころから京都には定期的にいるわけだし、東京で大学進学してからもベルリンへくるまでの間、ずっと京都に定期的に、それこそ2ヶ月に一回ぐらいは帰っていたせいで、なぜか京都から出て行ってしまってからも、他の街にすんでいる意識はそれほどなかった。そんなわけで、ベルリンにすでにまもなく6年半住んでいる事実と、また一つの街に連続して住んでいる期間としてはもうすでに最長に達してしまったという事実に、多か れすくなかれ今自分でも唖然としているし、それがいつまでのびていくのだろうと思ってしまう。

簡単にこれまで小生が住んでいた土地になにがしらの住民登録をしていた街と期間をおさらい。

>1歳未満(8ヶ月?);東京都練馬区江古田

1歳未満ー2歳前後(一年弱?);東京都保谷市

3歳前後ー4歳途中(2年程?);神戸市東灘区

4歳途中ー幼稚園入園まで(8ヶ月):東京都保谷市

幼稚園入園ー小学校3年途中(4年強);横浜市戸塚区

小学校3年途中ー小学校卒業ー中学二年途中(5年3ヶ月):兵庫県西宮市

中学校二年途中ー高校卒業ー浪人期間を経て大学入学まで(5年8ヶ月);京都市北区

大学入学ー大学二年夏(1年半):東京都北区赤羽

大学二年秋ー大学卒業(2年半):東京都府中市

大学卒業から二ヶ月:京都市北区

その後:ずっとベルリン、6年5ヶ月。ベルリンにて最初在住一年で5回引っ越し。小生のノマド宣言(2004年春)。ちなみに実家はその間、京都市内で引っ越し。

実は今チェコ共和国の首都はプラハにいるのだが、ここにきて後一週間でもうすぐ一ヶ月になる。ここ1週間でチェコ語に対するコンプレックスも消えて、かのボフミル・フラバル先生を敬愛する小生は、人間観察のフィールドワークと称しつつ、プラハの美女もといイケメンたちとお近づきになろうと、いまだめちゃくちゃな文法の、時々露西亜語の単語がまざるチェコ語を駆使して、一人毎晩異なる飲み屋に出没して、プラハの隣人たちと毎晩ビールを飲みまくる日々なのである。

しかし、ビールがうまい。ベルリンでもそんなビールを飲んだこともないというのに、プラハにきてこれほど毎日のめるというのは、やはりビールがうま い、という以外に考えられない。小生の体内のアルコール分解酵素がプラハにきたとたん突然変異をおこしたわけでもないというのに。宇宙に出たとたんニュー タイプとして覚醒するのとはわけが違うのである(なんのマンガだ)。ここ数週間、毎晩ビールジョッキ2杯はのんでいると言う事実にも小生は実は驚愕してい るが、それでもベルリン帰還後もそれぐらい飲めるとは思えないので,どうかベルリン在住の皆様方においてはこれまで通りのご容赦を乞う。

しかし、いまさらながらだけれど、一つの言語が段々と分かるようになってくるというのは、不思議な感覚だ。一年半ほどベルリンでチェコ語をならって、時々耳をならそうと、まだ半分もいってることがわからないラジオの放送をインターネットで介して聞いていたりもしていたのだけれど、実際チェコにきて周りがすべてがチェコ語 が喋っているのをきいて(プラハに限っていうとそんなこともなく、やったらめったら英語やドイツ語が聞こえてくるが)、やっとこれから自分の話すべき言葉 のテンポになれていかなくては、という実感がうまれてくる。まだ片手間しかならっていない言語ならばなおさらだ。スラブ系の言語は非常に音楽的で小生に とっては非常に耳に心地のよい言葉なのだが、攻撃的で威嚇するようにしか聞こえないドイツ語になれた耳にはそれだけでもリラックスできる。ドイツ語がすきではじめたわけではない小生にとって、それだけでもモチヴェーションの一つになりうる。チェコ語は知れば知る程、他のスラブ系の言語、例えば露西亜語とはかなり違う言語なんだなと感じるし、プラハにもよく聞こえる露西亜語がきこえてくるとかなり瞬間的にそれが飛び込んでくるようになった。かつてチェコ語と正直なところあまり聞き分けられなかったポーランド語とも、確実に聞き分けられるようになった。ぶっちゃけ小生の言語感覚はいい意味でとぎすまされているように思える。

この周りが全く自分のわからない言語を喋っている場所に突如として放り込まれるときの感覚はとても言語にいいつくせるものではない。聞いている言葉 がわからないのだからなおさらだ。旅先で、国境を越えて違う国へと入った瞬間、そこで全く違う言葉がきこえてくるよきのあの感覚。小生はあれの瞬間がとて も心地よい。その分からない未知の言語の海の表面を漂うような感覚。体の力を抜いて水面に浮かんでいるような浮遊感。

あれを体験したのは多分、初めて自分にとっての「外国語」体験をしたときにさかのぼるような気がする。自分にとっての「外国語」体験とは多分8歳の 時に、父親の仕事の都合で関西に移り住んで来たときだろう。はじめて洪水のように自分のまわりを「関西弁」が取り囲んだ時だろうと思う。「関西弁」を「外国語」扱いするのは少々大げさなような気もするし、少々「外国語」と書くのは面妖なのだけれど、標準的な日本語からすれば「関西弁」は間違いなく、ドイツ語のFremdspracheや英語のforeign language(どちらも外国語という意味だが、念のため)にあたるとは思う。実際、色々な言語をならったからいえるのだけれど、「関西弁」や「日本 語」の違いというのは、実際ヨーロッパの言語地図などをみてみれば、実にざらなケースで互いに違う言語扱いされてもおかしくないのではとおもったりもす る。なにも「関西弁」でけでなく、日本語の方言に分類されている言葉には小生にとって、外国語と同じぐらい難解なものも多い。津軽弁や九州の方言など。標準語とはその意思疎通、ひいては教育のためにあるのであって、それほど古い概念ではない。むしろ19世紀後半以来ネーション国家としての概念が日本に浸透してからのことであって、日本各地津々浦々にある方言といわれることばにくらべたら新しくかつ人工的なものであるのはいうまでもない。

父親がばちばちの関東人で母親はばちばちの京都人な上、実は冷静に自分で分析してみると、もしくは、言語学専攻の日本語方言狂いの友人や様々な友人の話を総合してみると、自分は自分はとんでもない関西弁をしゃべっているのかもしれないと思う。実は小学校は阪神地区で卒業している。しかも、小学校に通ってい たのは、阪神地区はもとい関西でも屈指の派手な関西弁をしゃべる西宮は甲子園球場の界隈、だから自分の関西弁は少々阪神方言まじりで、祖父母と母親の影響 で京都弁もすこしまじってるんだろうと思うのだけれど、8歳までも東京近郊や横浜ですごしていたおかげで、どこに自分のマザー・タングなるものがあるのだ ろうとおもう。いまさらながらに、8歳までの自分がどんな言葉をしゃべっていたのか、8歳までの記憶なんて最近だんだんとおぼろげになっており、実際のところよくわからない。京都で思春期を過ごした6年弱がとりあえず今の所自分の中では一番自分の言語形成、すくなくとも今の自分の喋っている日本語という言 語に大きな影響を与えているのだろうが。

9歳になる間際の小生がにあの感覚に放り込まれたあの日、忘れもしない1988年5月30日。転校したての小生が、阪神地区は西宮のとある小学校、 それまで横浜の新興住宅地の全校生徒250人にも満たない、各学年二組、しかも各クラス30人にもみたい学級から成っていた、実に今からしてみれば家庭的な小学校から全校生徒1200人のメガ小学校、しかも阪神地区では中規模といわれて母親が驚愕したというその小学校のは3年4組に放り込まれたあの日、小 生の左脳は間違いなくオーヴァーヒートを起こしていたに違いない。いまでもはっきり覚えているけれど、あの日あの3年4組の教室の中で聞いた言葉は日本語 でありながら、全く日本語であるように聞こえなかったはずなのだ。少なくとも小生の左脳はそう判断したはずだ。いまでも一番覚えているのは、小生が自己紹 介のため口を開いた瞬間、教室にいた全員が大笑い大爆笑。そのうちの誰が、うわー、ほんまもんのとーきょーじんやあー、でさらに爆笑の渦。違う惑星から やってきたばかりのエイリアンに対するがごときの扱い。その後、教室の中で体験したことは、今でもよく覚えている。新しいクラスメートに大爆笑されて、 「とーきょーじん」なるエイリアンとなってしまった小生は新しいクラスメートに色々と話しかけれても、小生はそれほどうまく答えられなかったり口をうまく 開けなかったことも。現実的に自分が置かれている言葉の海の中で、小生はただ右から左にあびせられる質問の間をただただよっているだけだった。

あれも、小生が今に至るまで何度となく経験することになるあの浮遊感なのだろう、と思う。その後、いい感じでクラスにとけ込むことのできた小生は、 一週間後にはすでにクラスメイトとほぼ同じ言葉を、つまり、「関西弁」をしゃべっていた、ということだけはよく覚えている。どうしてかは全く覚えていな い。けれど、それがまだ8歳だった小生にまだ可能だったことの一つだろう。

にもかかわらず。その後、進学した京都のR星中学・高校では似非関西人扱いされる日々だったのである。マクドナルドをマクド、ではなく、マックと いってしまったばかりに。そんなわけであだ名もマックにされてしまった。関西ではマクドナルドはマクドでマックはマッキントッシュ以外ありえへん、と日頃から東京だろうがベルリンだろうが口を酸っぱくして主張している小生ではあるが、実はそんな過去もあるのである。

昔からそうだったけれど、やっぱり小生にとってあの浮遊する感覚がつぼなのである。言語であろうと、音楽体験だろうと、あらゆる人間の五感にかかわる体験のなかでも特に。ベルリンは人種のるつぼだからそれほど気にも留めないが、やっぱりプラハだとアジア人は浮く。時々、ベルリンのように、70年代にヴェト ナムからきた移民の二世が、ベルリンで生まれ育ったベトナム人と同様に、流暢にその土地の言葉であるチェコ語を操っているのを聞くけれど、やっぱりそれもチェコに限るならばプラハだけだろう。僕がつたなくもチェコ語 をしゃべれば、向こうはあれ、っという顔をするし、こちらはそれでますます自分が相手になって正体不明になれるというので、ますますなにがしらぶらぶら浮 いている感覚が加速する。小生にとってはやめられないたまらない瞬間なのだ。というわけで小生は今日もまたなにがしらの浮遊感をもとめてぶらぶらしてやまないのである。(なんという日本語)。

そんなわけで、大学院を卒業したらますますベルリンを出る可能性が高くなって参りました。

今日はこれにて。そういえばグルジアいってからもう一年たったんだねえ、ちょうど一年前の今日はイスタンブールから戻って来た日だったんですが。歳月の過ぎ去り仕方矢のごとし、と後悔先にたたず。というわけで今日もひさびさの自戒。ではでは。