ドネルケバブに関する小咄。“Kebab vs Döner“@クラクフ(2009年10月)

また突発的なのだけれど、また色々書かねばあかんという気持ちだけは沸々と湧いては、つかの間の幻影という感じでは消えてゆき、このLügenlernenを初めてからはや5年や6年にはなるのだけれど、それの繰り返しなのだが、やはり書くということを生業にしようとしている以上、この作業を一日として怠ってはいけないという気持ちだけは持ち続けている。てなわけで隗より始めよ、という感じでまずは過去に書いたことの整理からはじめねばならぬと思い、もっとテーマをしぼらねばならぬ、ということで、比較的受けが良かった「ドネルネタ」をもう一度読み返してみたのだが、意外と(自分で書いておきながら)面白いので、小生のベルリナードネルケバブに対する信仰告白ともいえるこの記事から再度アップ。

この記事は2009年9月にプラハへ一月チェコ語を習いにいったおりにスロヴァキアを10日程放浪し、当地東スロバキアはコシチェで知り合ったスロヴァキア人とその妹に散々世話になった帰り道寄ったクラクフでの小咄である。あまりにも自分でもおかしい体験をしたので、その当日に書き上げた文章でもある。

ちなみにシュレジエン地方放浪についての記事が末尾に予告されておりますが、おそらく永久永劫アップされることはないでしょう。写真はとうの昔にアップしているので、見たければここをクリック。それより前のスロヴァキアでの一週間の写真はここより
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ほぼ一ヶ月を過ごしたプラハから一路東スロヴァキアはコシチェに向かった小生は、スロヴァキアから一路タトラ山脈を越えて、今年なぜかすでに3回 目になるクラクフにいる。泊まっているホテルのレセプションののお姉ちゃんに、そんなにクラクフが好きなのと聞かれても、全く、そうなんだわ、ともいえな い。にもかかわらず今年3度目。4月、7月そして今回。クラクフは中央ヨーロッパの交通の要所にある。ベルリンとウクライナ、もしくはスロヴァキアの間をそれぞれ移動するとやはりこの街を通ることになる。だからなのだろう。

昨日一日シロンスク地方をさすらってきた。クラクフを昼前にでて、クラクフへと戻って来たのは真夜中近く。帰り夕方も8時前に乗ろうとした列車はなぜか遅れに遅れ、予定の時刻を20分過ぎても現れる気配もなし。構内放送に耳を傾けても、チェコとスロヴァキアで一ヶ月を過ごして後に聞く、あいかわらず早口でイントネーションの高低がほとんどないポーランド語は半分もわからない。数字と乗ろうとする列車が遅れていることぐらいがかろうじて分かる程度。その上、言葉尻のスウンとかチョンとかイェゴが耳にまとわりつくポーランド語が、チェコ語とスロヴァキア語に慣れた耳には、なぜか中国語のように聞こえる。 スロヴァキア人の友人が、ポーランドはヨーロッパの中国/ヴェトナムといったのを思い出して、おもわず北風のぴゅーぴゅーふくプラットホームの上で一人笑い。

予定の時間を30分ほど過ぎて、なんの予告もなく、なぜか定刻通りにやってきたクラクフ行きの他の急行列車がひとつ離れた別のプラットホームになだれこんでくる。それをみて、小生もとい小生同様クラクフ行きの地域間快速(IR)をまっていた人たちが、一様にその列車が入って来たホームに走るも、スパルタな女車掌に、全員違う切符をもっているというので、乗車拒否。

というわけで、吹きさらしのカトヴィッツェ中央駅のプラットフォームの上で、10月の中旬にして突如やって来た真冬並みの寒波に震えながら、がらがらの急行列車を人気の全くないホームの上で、乗車拒否された一同列車を見送るのだが、日も暮れに暮れた暗いプラットフォームでさらに小一時間を過ごしながら、なんとまあ、毎度いつもこんな目に遭いながら、なぜいつも同じようなことをしたがるんだろうと思うことしきり。

予定よりも一時間20分程後、なんの予告もなく、やっと現れた列車をみても、ホームにいた一同、お互いにこれが俺らの列車だよな、と疲れと寒さからか全く確信なくお互いを見るのみ。暖房が暑いぐらいきいている車内では、吹きさらしのプラットホームの上で待ちくたびれた人々、各々の座席で速攻ダウン。気がつけば、目の前の斜め前の座席からストッキングをはいただけの女の人の足があらわに通路につきでていて、となりに座っていたポーランド兄貴とともに目を丸くさせる。 よく見ると、こんな天気にもかかわらずかなり短いスカートをはいた銀行勤めぽいお姉さんが、完全にダウンしていた。しかし、小生にそれも眺める気力もなく、小生もいつしか眠りにおちる。そして、気がつくと、今年何度乗り降りしたか分からないクラクフ中央駅のホームに列車が到着するところだった。

というわけで、毎回のことであったが、その日はまだ続きがあった。その後、宿へむかうべく旧市街を通り過ぎる最中のことである。

そんな一日をすごしたこともあって、宿への帰り道小生は腹がへっては仕方が無い。カトヴィツェのホームで待っている間に、なにか軽く食べてもよかったのであるが、なにせここはポーランドゆえ、いつ目的の列車がホームになだれ込んでくるかわからなかったゆえ、一時間半も北風の吹きすさむカトヴィッツェ中央駅のプラットホーム三番線上で、無為に過ごすはめになったのである。

ところで、腹をすかせた小生の目にやたらめたらとびこんでくるのは、ポーランドでもまたポピュラーになりつつある「ケバブKebab」の文字である。小生にとって世界最高のケバブとはいうまでもなく、ベルリンのケバブである。それゆえ、それもクロイツベルク、ノイケルン、ヴェディンクの特定のドネル屋以外では絶対に食さないというのが小生が一生をかけて守らねばならぬ原則の一つなのであるが、一歩ゆずって、あるはずなのであるが。しかし。

そんな小生はベルリンの外で、常に正統なベルリンのドネル・ケバブではなく「ケバブ」なるパチものをつかまされてきた経験から、そんな「ケバブ」なるものをみても冷ややかに「ふん」とやりすごすだけなのである。が、しかし、人間腹が減るとそんな原則などクソクラエとばかりに、よう兄貴、「ケバブ」一丁、と注文するのは、空腹ゆえ。期待とは裏腹の全くもっと異なる「ケバブ」なるパチ物をつかまされながらも、食わねば腹がなる、食わねば明日がつらいのであると思いながら、とある意味空腹時以外の時の冷ややかな自分にもどるのである。その「ケバブ」なる食い物に食らいつきながら、ああ、くそまじい、ベルリンのドネルが恋しいぞおとばかりに思い出すのは、もちろん、ベルリンのドネル屋兄貴との典型的なやりとり、「ゔぇるひぇぞーせー、さらだあこんぷれえと?」、大阪ミナミ方言まじりに訳すると、「ソースどないしまんねん、野菜全部いれるか、よっしゃ、ほんで段取りつけとくさかいにな」と大阪のお好み焼き屋のおばはんのしばきもかくやの触れ合いなのだ。

てなわけで、クラクフ旧市街を腹ぺこでゆく小生の目にとびこんでくるのは、今現在クラクフにて急増中の「ケバブ」の文字ばかり。まだピエロギ(ポーランド風水餃子)でもくわしてくれる店はないのか、と目をこらすが、時間も時間、すでに23時を回っている。最初は、「ケバブ」だめじゃ、ベルリンのドネルを裏切ってはならぬ、と自制心をはたらかせるが、この日は通る道筋に、やたらめたら「ケバブ」の文字が飛びこんでくる。二軒三軒をすぎたまではむきに自制心をはたらかせていたが、「ケバブ」以外に空いている店がなかなかみつからず、次々に視界に飛び込んでくる「ケバブ」を四五軒はやり過ごしたあたりになると、今日は「ケバブ」にするしかないか、とこれまでの大言壮語もどこへやら、ついに、旧市街の端にある「ケバブ」のネオンのおどる店へと足をむけてしまった。

店の兄貴をみると、間違いなくトルコ人。小生によって勝手にトルコ人と断定された兄貴に、サラム、と声をかけると、兄貴も、おおお、とうなり声をあげ、さあらむう、と返事。小生はだてにベルリンはクロイツベルク、ノイケルン、ヴェディンクで日々兄貴相手にもまれているわけではないのである。よお、兄貴、ドネルだ、 「ケバブ」じゃない、ドネルを頼む、というと、おうけーい、じゃぱにーずふれんど、と言う前から日本人認定される。最近、ヴェトナム人とかウズベク人とかカザフ人認定されることが多いので、おお、これぞおお、ほんまもんのトルコ兄貴、しかも@クラクフじゃ、と感動してしまう。そして、兄貴のたまうに、英語で、どのソースじゃ、サラダは全部かあである。こちらは、英語のこの会話に面食らいながらも、もちろん、すぱいしー/まよ、みっくすでたのんます、と答える。おおう、 あめえさん、ドイツ人みてえだな、と返す。あたぼうよ、おいどんはドネルの本場ベルリンから来たのよ、と答える。すると、兄貴は喜々として、すぷりすどぅどいちゅ?(ドイツ語しゃべるんかい?)である。こちらは、おお、それじゃあ、話ははええな、兄貴、くろいたーしゃーふ、さらだあれす、みっとつゔぃーべ るん、びって(パセリマヨネーズソース、スパイシーソース、もちろんタマネギ入で段取りつけたってくれい)、である。喜々とした兄貴はさっそうと「ケバブ」ではない「ドネル」をあいよ、いっちょあがり、と喜々としてよこす。10ずおってぃ(ZL;ポーランドの通貨)、びって、である。こちらは、てしぇけれ(あんがとよ)と返して、ぼんあぺてぃと、やー?(めしあがれえ、どおうぞ)である。

これこそ、小生がこの一月の間懐かしんだベルリンの一部なのだ。こうして手にした「ケバブ」は即効小生にとって「ドネル」と認定されたのであった。 味はやっぱりベルリンのドネルにはおよばへんな、とベルリンのドネルを懐かしむのだけれど、こうして「ドネル」文化がベルリン以外に広がるのはいいことなのである、と思う小生でありました。同時に、そろそろベルリンにかえるときなのかな、と底冷えのするクラクフの夜を宿へといそいだのでありました。

以上が昨日の帰り道の小ばなしなのであるが、ところで、そうまでしていったシロンスク地方に何があるかといわれると、正直なところ、やはりくたびれ た炭坑とすすけたコンビナート、それからぼた山ぐらいしか思いつかない。これは、昨日丸一日を現地で過ごした今でも、尋ねられればそう答えるであろう。そ れが事実であることにはかわりわない。とはいえ、そういったステレオタイプを一掃するには、やはり現地に行くしか無い。そんなわけで、昨日午前、クラクフ から約80キロ離れたカトヴィッツェへ向かう列車の人となったのである。

今日はこれでおひらきといたしますが、また予告編で終わらないよう、小生また一層の精進に勤める所存であります。一日おいて明日もカトヴィッツェ周辺をさすらう予定であります。その話はまたその二以降にゆずることにいたしましょう。そんなわけで今日はまた自戒。