また別のBへの20年を越えての帰還へ(再録)

(2009年10月アップの記事)

昨年4月ブカレストで撮り散らした写真のとある一枚を眺めながら、こういう通りは日本にもあるな、という思いが去来してきた。昔の京都、特に。80年代ごろの。

当時80年代の半ばごろ、まだ当時横浜の郊外のとある団地(とはよばれずにマンションとよばれていたが)街の一棟にすんでいた小生は、母親の帰省につれられ、京都へよくきていた。いつも新幹線で京都駅の八条口につくと、そこで祖父に迎えられ、母親の実家のある京都の北区へと車で向かっていた。その時に、京都の狭い道をとりぬけながらよく見た光景が、そのブカレストの写真をみていると、突如としてフラッシュバックしてきた。

京都のみならず、普通の昔の日本の家屋が残る街のように、他のヨーロッパの大都市と比べても軒の低い建物ばかりが並ぶブカレストの中心部の町並み。ここはヨーロッパなのだけれど、間違いなくここはヨーロッパでありながら、アジアへの中途にあるということを深く思わせるような路地が錯綜している。この写真にあるような未整備でところどころに穴のある道路やくたびれてすすけた灰色の町並みも、京都でもつい最近まで、街中いたるどころに見られた。特に、千本通り周辺など。そして、京都同様、ブカレストの軒の低い町並みを打ち付けるような日差し。この写真を撮った日も、4月中旬にしてすでに30度近い陽気だった。そのせいなのだろう。写真をみていると、同じように、東京の墨田区や荒川区や、特に今年の年初に大阪の天王寺の南あたりでみた風景が同様に頭の中をよぎってくる。大阪の街の中心部には、今でも時代に取り残された感じのする場所がそこここにある。それをみて、大阪は日本の、そしてアジアの大都市のひとつなのだ、と思うことが時々あるのだが、それをことさらに感じるのが、上の写真にあるような路上の風景だ。

ブカレストをはじめて訪れたのは、2007年の10月だからもうすでに2年も前になるのだけれど、その時、トラシルバニアの古きヨーロッパを思わせる町並みから、その旅のしめくくりとしてブカレスト到着するや、建物と車のカオスに放り込まれた小生は、トラシルヴァニアの美しき町並みと自然を懐かしむどころか、すっかり、この街に夢中になってしまった。

当時、べルリン在住4年目にして、ひさびさのバックパッカー復帰を果たした小生は、2週間あまりになるルーマニア放浪を通じて、自分の中東欧やバルカンとよばれる場所への愛着を再確認したのであるが(その旅の写真はここから御覧あれ)、どことなくまだ中欧的な雰囲気の濃厚なトラシルヴァニアからブカレストにやってきた小生は、ブカレストの街をみてすっかりそれにとどめをさされてしまった。他のヨーロッパの大都市にはない街並み。入り組んだ路地。そして、一つのとてつもなく広く長い大通り。チャウセスクの遺産。誰もが忌む、あの巨大な宮殿。

やはり、小生は秩序よりもカオスが大好きなのだ。速攻小生はブカレストの入り組んだ路地に身をおどらせ、迷路のような街路をさすらうことになったのである。

とはいえ、東欧の小巴里、とかつて呼ばれたらしいブカレスト。何をさして、小巴里、といわんとするのか、巴里自体にいったことのない小生には殆ど実感のない比喩であるが。ポジティヴにとらえるならば、世紀転換期から20世紀前半にかけて、このバルカンとよばれる半島の真ん中にあるブカレストでも、他のヨーロッパの街同様、世紀転換期の文化が栄華を誇ったことを思い起こさせるような建築の数々が、ブカレストを東欧、もしくはバルカンの小巴里と呼ばさせるのかもしれない。確かに、この街には、過去の塵をはらい、かつての輝きをとりもどしつつある華やかな装飾を誇る建物が無数にあることだけは間違いない。

また、一方、ネガティヴにとらえるならば、それは、70年代から80年代にかけて国民を窮地に追い込んだチャウセスクのブカレスト改造計画以外にない。巴里のシャンゼリゼをまねたという彼の妄想ぶり。この場合はむしろブカレストを東欧の巴里と呼ぶのはやはりふさわしくない。そんなものは実現不可能だっただけでなく、そもそも「東欧の小巴里」とよばれた名残がいまだあった当時のブカレストの破壊以外のなにものでもなかったわけだから。

チャウセスクがシャンゼリゼを寸分違わず再現しようとしたブカレストの中心を暴力的貫くにつらぬくBulevardul Unirii(統一大通り)。しかし、それがポチョムキン都市のように滑稽であることは、この地図をみればわかるし、自国の国力を無視した都市改造とそれによるチャウセスク一家の浪費は、その後いかに彼らを滅亡へと追い込んでいったか、なによりもルーマニアという国と国民を疲弊させたか、そしてそのことがなにを招いたか、それは誰もが知っている。今のブカレストに表立ってあるのは、全く実現不可能かつ彼らを滅亡へと追い込んだその誇大妄想の残骸の一部である。

しかし、ブカレストはポチョムキン都市とは決定的に異なるのは、それはいうまでもなくそれが生身の都市であり、そこに住まう人がいるということだ。その意味で、現在のブカレストは、東欧の巴里と呼ばれた過去にでもなく、チャウセスクの誇大妄想の廃墟の中にもない。ただそこにある。もちろん、僕らはブカレストという街が経てきた過去という現実の一部をそこで目の当たりにすることになるが、街は現在から未来へと生き続ける、そして、一つの過去にとどまることはないのだ。そんなことをブカレストの中心部にある、べルリンのアレクサンダー広場のように、人と車の渦の只中にある統一広場Piaţa Uniriiに立ちながら思った。通称アレックスことアレクサンダー広場も随分かわった。ブカレストの統一広場でいつかはそう感じるときがくるだろう。

べルリン同様、ブカレストに小生が引きつけられる理由、それについて昨年二回目にブカレストを訪れた時の2008年4月7日の日記に小生はこう綴っている。

多分、思い起こせば、僕の最初の歴史という物語との最初の接点として考えられる出来事は、昭和の終焉、ソヴィエト連邦の終焉、べルリンの壁の崩壊、東欧革命、湾岸戦争などだろう。それはすべて89年から90年にかけておこっている。あとは今僕がいるルーマニアでの89年に起った一連の出来事。僕が歴史というものを思い起こすたびに避けれない、この歴史というものにかかわらんがために強いて来た、これまで地球中の津々浦々で流されて来た血の量。歴史というものが想起させるのは、そのような血なまぐさ以外にありえない。

おそらくはじめて人が死ぬという、まさに歴史が、チャウセスクという独裁者を、血の洗礼でもってほふった映像を見た時、はじめて、僕はこの歴史という血なまぐさい物語の中へ、今から思えば、放り込まれたのだ。むしろ、自分がその只中にあることをさとった見せつけられた瞬間なのかもしれない。いいだろう、そうした認識は恐らく、今の自分による事後的なものだろう。
そのルーマニアで89年におきたこと。独裁者の死のシーン。そこに間接的であれ、それを同時代的に9歳の子供としてたちあったこと。それが、僕も「歴史」という「物語」に向かわせる契機の一つであった、といってしまってもよいのだろうか。独裁者の死の瞬間。無造作にころがされた肉体、それは「歴史」という物語が要求した犠牲であり、僕にとっては、それをテレビのブラウン管を通じて眺めてしまったこと、こうして、そこから逃げ出す機会は永久に失われてしまった。

そのことをいまこのブカレストの地で18年の時を越えて、今日、あの国民の館の前に立った時、なにかとともにふつふつと自分の中にわいてくるのをはからずも感じてしまった。その何かとは?なぜ、僕が、ほかの街にではなく、この街にだけ感じざるをえない、そのことにつきるのだ。多分、それはべルリンという、僕にとってかけがえのない街に対しての感情と類似しているのだろう。あとは、べルリンの壁が崩れた後、2ヶ月もたたないうちに、あの独裁者は自らの民によって処断されたのだということ・・・。

人間には他の動物にはない次のような能力がそなわっている。見ざる、聞かざる、言わざる、という。僕らはある現実をみることができないときは見ないですますこともできる、聞きたくないことがあるときは聞かざることもできる。言わなくてすむときは言わないでおくこともできる。それですませられる現実があるならば、それも可なのだ。なんにせよ、「歴史」という「物語」にかかわらなくてすませられるならこれほど楽なことはない。

僕らはその彼岸にいる。つまり、現実を「物語」化することを拒否するような場所であり時代に。そこでは、誰も、世界の現実をしらないし、そのまま知らないですませることもできる。それも可だ。とはいえ、そんな世界にいつつ、「歴史」や「物語」について語ることもいまや、過去の夢物語の一つを語るようななのだろう。僕らはその「物語」のどこにも登場しない、なぜ「物語」が終わってから、はじめて「物語」の舞台へとやってくるのか、そんなクロノジカルな病と後悔が僕らを「物語」へとコミットさせようとする。それを思うと、恣意的にそれに関わろうとするなどするのは、むしろ、いわば狂気の沙汰でもある。この「物語」は常に犠牲を要求するのだ。

今年、ルーマニアで革命がおこってまもなく20年になる。1989年の年末、テレビで見て、いまだ忘れられないチャウシェスク夫妻の銃殺映像。20年たっても鮮明に覚えている。そして、われわれはそうした時の過ぎ去り仕方の容赦なさの中にいるのだ。

べルリンでは、あと一週間弱であの壁にハンマーを打ち付けられた日から20年がたつことになる。小生はこの東西の交通の自由化に際して、あの日1989年11月9日、一番最初に開かれた東側の検問所のあったベーゼ橋Bösebrückeのそばに住んでいる。ほぼ毎日その橋下の近郊列車の駅へいくために通るこの橋も20年前のちょうど今頃はまだ誰もが渡れたわけではなかったということは、これまでの小生の日常生活の中でも、正直なところあまり顧みられることはなかった。しばしの間、今一度、その事実をかみしめることにしよう。

そして、12月21日には、ルーマニアはブカレストでも、あの日から20年がたつことになる。

ではでは、その時まで。また自戒。