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崩壊したブログをほったらかしにしておきながら、突然だけれども、今ブダペストにいる。当地寒波到来中。雪も降り止まなかったけれど、今日ようやく雪もやみ、太陽が時折くぐもりがちな空から姿を見せた。それでも、現在マイナス8度。午後10時過ぎ。
ベルリンの12月が極度の寒波、氷点下10度前後の日々で幕をあけ、今冬も昨年同様またしてもベルリン氷河期の中ですごすかと思えば、気もめいらぬ事もなし。8年目突入のベルリンの冬は年を経るごとに厳しさが増すような気がしないでもないが、昨年ようなアイスバーンに足をとられて膝を強打する日々だけは是非とも今年は勘弁していただきたいとともに、定期的な雪かきをベルリン市当局の方にくれぐれも宜しく頼もう仕上げるしだいでございます。今年はとりあえず雪が降る度に雪かきがおかなわれているようで、ひとまず安心。
さて。雪かきで思い出したのだけれど、今年の二月ごろ雪かきの音を収録した音をこのブログにアップしたことがある。
昨冬の大寒波は2月の半ばをようやくすぎて緩んで、道の氷がドット溶け出したのを未だに覚えている。雪解け水というわけだ。その雪解け水とは関係ないだろうけれど、それにしても、今年はまたしてもドイツを含めた中欧の各地で洪水が絶えなかった年で、8月上旬には大雨もあったこともあり、各地で河川が氾濫。今年の9月末ごろプラハにまたしても一ヶ月ほど滞在した際に、やはりヴルタヴァ川(モルダウ)の水位が高かったことも記憶に新しいほうだ。シュプレー川の水位もなんとなし普段よりも高かった、と記憶している。
私事ながら、ベルリンはノイケルンに居をうつしてからまもなく2ヶ月になる。この界隈はクロイツベルク同様、目だけだけでなく耳でも存分にたのしませてくれることがある。
新居はノイケルンの目抜き通りの一つであるカールマルクス通りにある。ベルリン郊外と市内を結ぶ幹線道路沿いの4階(日本でいうと5階)にあることもあって、そう懸念していたほど、通りの騒音は気にならない。二重窓を閉じれば、外の喧噪はとたんに静寂と変わる。それでも、時折通りがかる救急車や消防車のサイレンの音が時々耳をつんざくように耳にとびこんでくるのが、新しい経験かもしれない。というのも、これまでの人生でこれほどまでの幹線道路沿いに住んだ記憶はそうはないからだ。窓をあければ、家の下の通りからはありとあらゆる音が窓を通して耳に飛び込んでくる。窓をあけはなって、道行く人車の連なりをみてるだけでなく、その音を聞くのもまた一興なのだ。
かつてのプレンツラウアーベルクの住居も窓を開ければ、かなり様々な音が飛び込んできた、と記憶している。
飛行機の音。近郊電車の音。貨物列車の音。アル中野郎の叫び声。飼い犬にいやいや散歩につれていかれるパンクの呼び声。たいてい夜遅くに聞こえてくるが、御犬様を呼んでいる以外には、呂律がまわっていないのでなにをいってるかわからず、厳密にはアル中野郎の叫び声と判別不可能。親にだだをこねる餓鬼ども叫び声、とそれをヒステリックにしかる若き母親の声。典型的プレンツラウアーベルクの光景。今の住居の窓から聞こえてこない音ばかりだ。
当たり前だがそれらの音はかつての家の住環境の一部をなしていたわけで、いってみれば、そこで過ごした6年半という日々の
記憶とも密接に結びついている。
夏の夕方よくベランダに座って夕暮れをながめながらじっと西の方角をながめながら、時折目の前を近郊電車が通り過ぎたり、飛行機が北の空をティーゲル空港へと着陸していくのを目の当たりにしてきたけれど、実際それがどういう風に視覚的記憶として脳裏にとどまれていくのか、よくわからない。写真もとっていたし、しかし、どれも実際に毎日目にしていたものとの齟齬は大きい。以外とそんな時に耳に飛び込んできた、ある意味騒音ともいえるかもしれないけれど、そちらのほうが未だに記憶の中では鮮明かもしれない。
以下今年3月の書き込み。
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昨日、帰宅中丁度、道路清掃が小生の住んでいる界隈で行われている最中だった。冬の終わりの行事の一つ。道路の凍結防止剤をスコップで回収している音とその後を道路清掃の車が水を巻いている音を角の向こうから聴きながら、春が近いんだな、とようやく実感。それでも、夕方7時半ごろでもすでに氷点下はきっているさむさではあったけれど。
今年は雪が降りに降った。そして、寒かった。日中氷点下10度前後の日もなんどかあったほど。雪はとけず、年末からついこの間の2月の末までのベルリンはあたかも「氷河の中に閉じ込められた」と様々なマスコミが報じる程、ベルリンの道々は氷に覆われる日々が続いた。この一週間程の気温の上昇で、ようやく雪解け。
8. March 2008, Isländischestraße, Berlin-Prenzlauerberg, 19:31 by Luegenlernen
今度はその溶けた雪の下から、大晦日から新年にかけて通りにポイ捨てされたゴミが大量にでてくるというまあベルリンらしいおまけ。雪解け後のベルリンの街角は、競馬場の最終レース後の駅へ向かう螻蛄街道並みにゴミだらけであった。
そして、小生の家のバルコニーからもなんて冷凍のフライドポテトの袋が発掘されるという珍事。多分、新年あけに小生宅に滞在した友人がベランダに放置したままだったのだろう。これだけさむかったので、冷凍庫などに入れる必要なんてなし、外にだしておけば事足りるから。
今年は通りの清掃、そして雪かきが史上かつてなく滞った年として記憶されることになる。道の雪かきは街中殆ど行われた様子がなく、これもベルリンが貧乏なせい、いらんことに税金使い過ぎという批判がごうごうと沸き上がるのを目の当たりに、そらみたことか、と毎日怒り心頭であった小生は、この二ヶ月道のアイスバーンのおかげてコケにこけまくった。特に、いまだ最寄りの駅へのバリアフリーでない道や、特にその途上の凍り付いた階段でなんど死ぬような思いをさせられたか。そして、通りを行く人たちがコケにこけまくるのを幾度となく街の至る所で目の当たりにしたことか。しまいには犬がこけるのもみた。もちろん、後にはパンクを引き連れていたが。
ここまで雪かきがおこなわれないと、若い人ならばいいが、子供連れやお年寄り、体の不自由な人にとっては、不便どころではなかったはずだ。
それはともかく、それまでの雪はどこへやら、まだまだ冬の寒さは厳しいものの、日差しは明らかに春になりつつある。
スコップが凍結剤をすくう音をききながら、バルコニーにひさびさにたって、線路の向こう側と小生が住むPrenzlauerberg側をみる。飛行機が屋根の向こう側をエンジンの音を鳴り響かせながら上昇していく。ここからティーゲル空港まで30分ほどだ。空港から着陸しようとする飛行機から小生の住む界隈を望むこともできる。音はそれほどきにならない、毎日暮らしている限りでは。それでも、そばを通る線路の音は相当にやかましい。とはいえ、家にいて窓を閉めている限りは気にもならない。
マイクはやはり普段僕らが気にもかけないような音をひろう。多分、僕らもそれをきいているのだろうけれど、毎日当たり前すぎて、気にもかけないような音なのだろうが。多分、気にかけるベき音とそうでない音とのその間にはなんらかのフィルターのようなものがあるのだろう。そして、耳に入ってくる音を無意識のうちに取捨する。だから、時々そのフィルターなるものをとってみるといろいろなことが聞こえてくる、ということなのだろうか。
ではまた自戒。
(2009年10月アップの記事)
昨年4月ブカレストで撮り散らした写真のとある一枚を眺めながら、こういう通りは日本にもあるな、という思いが去来してきた。昔の京都、特に。80年代ごろの。
当時80年代の半ばごろ、まだ当時横浜の郊外のとある団地(とはよばれずにマンションとよばれていたが)街の一棟にすんでいた小生は、母親の帰省につれられ、京都へよくきていた。いつも新幹線で京都駅の八条口につくと、そこで祖父に迎えられ、母親の実家のある京都の北区へと車で向かっていた。その時に、京都の狭い道をとりぬけながらよく見た光景が、そのブカレストの写真をみていると、突如としてフラッシュバックしてきた。
京都のみならず、普通の昔の日本の家屋が残る街のように、他のヨーロッパの大都市と比べても軒の低い建物ばかりが並ぶブカレストの中心部の町並み。ここはヨーロッパなのだけれど、間違いなくここはヨーロッパでありながら、アジアへの中途にあるということを深く思わせるような路地が錯綜している。この写真にあるような未整備でところどころに穴のある道路やくたびれてすすけた灰色の町並みも、京都でもつい最近まで、街中いたるどころに見られた。特に、千本通り周辺など。そして、京都同様、ブカレストの軒の低い町並みを打ち付けるような日差し。この写真を撮った日も、4月中旬にしてすでに30度近い陽気だった。そのせいなのだろう。写真をみていると、同じように、東京の墨田区や荒川区や、特に今年の年初に大阪の天王寺の南あたりでみた風景が同様に頭の中をよぎってくる。大阪の街の中心部には、今でも時代に取り残された感じのする場所がそこここにある。それをみて、大阪は日本の、そしてアジアの大都市のひとつなのだ、と思うことが時々あるのだが、それをことさらに感じるのが、上の写真にあるような路上の風景だ。
ブカレストをはじめて訪れたのは、2007年の10月だからもうすでに2年も前になるのだけれど、その時、トラシルバニアの古きヨーロッパを思わせる町並みから、その旅のしめくくりとしてブカレスト到着するや、建物と車のカオスに放り込まれた小生は、トラシルヴァニアの美しき町並みと自然を懐かしむどころか、すっかり、この街に夢中になってしまった。
当時、べルリン在住4年目にして、ひさびさのバックパッカー復帰を果たした小生は、2週間あまりになるルーマニア放浪を通じて、自分の中東欧やバルカンとよばれる場所への愛着を再確認したのであるが(その旅の写真はここから御覧あれ)、どことなくまだ中欧的な雰囲気の濃厚なトラシルヴァニアからブカレストにやってきた小生は、ブカレストの街をみてすっかりそれにとどめをさされてしまった。他のヨーロッパの大都市にはない街並み。入り組んだ路地。そして、一つのとてつもなく広く長い大通り。チャウセスクの遺産。誰もが忌む、あの巨大な宮殿。
やはり、小生は秩序よりもカオスが大好きなのだ。速攻小生はブカレストの入り組んだ路地に身をおどらせ、迷路のような街路をさすらうことになったのである。
とはいえ、東欧の小巴里、とかつて呼ばれたらしいブカレスト。何をさして、小巴里、といわんとするのか、巴里自体にいったことのない小生には殆ど実感のない比喩であるが。ポジティヴにとらえるならば、世紀転換期から20世紀前半にかけて、このバルカンとよばれる半島の真ん中にあるブカレストでも、他のヨーロッパの街同様、世紀転換期の文化が栄華を誇ったことを思い起こさせるような建築の数々が、ブカレストを東欧、もしくはバルカンの小巴里と呼ばさせるのかもしれない。確かに、この街には、過去の塵をはらい、かつての輝きをとりもどしつつある華やかな装飾を誇る建物が無数にあることだけは間違いない。
また、一方、ネガティヴにとらえるならば、それは、70年代から80年代にかけて国民を窮地に追い込んだチャウセスクのブカレスト改造計画以外にない。巴里のシャンゼリゼをまねたという彼の妄想ぶり。この場合はむしろブカレストを東欧の巴里と呼ぶのはやはりふさわしくない。そんなものは実現不可能だっただけでなく、そもそも「東欧の小巴里」とよばれた名残がいまだあった当時のブカレストの破壊以外のなにものでもなかったわけだから。
チャウセスクがシャンゼリゼを寸分違わず再現しようとしたブカレストの中心を暴力的貫くにつらぬくBulevardul Unirii(統一大通り)。しかし、それがポチョムキン都市のように滑稽であることは、この地図をみればわかるし、自国の国力を無視した都市改造とそれによるチャウセスク一家の浪費は、その後いかに彼らを滅亡へと追い込んでいったか、なによりもルーマニアという国と国民を疲弊させたか、そしてそのことがなにを招いたか、それは誰もが知っている。今のブカレストに表立ってあるのは、全く実現不可能かつ彼らを滅亡へと追い込んだその誇大妄想の残骸の一部である。
しかし、ブカレストはポチョムキン都市とは決定的に異なるのは、それはいうまでもなくそれが生身の都市であり、そこに住まう人がいるということだ。その意味で、現在のブカレストは、東欧の巴里と呼ばれた過去にでもなく、チャウセスクの誇大妄想の廃墟の中にもない。ただそこにある。もちろん、僕らはブカレストという街が経てきた過去という現実の一部をそこで目の当たりにすることになるが、街は現在から未来へと生き続ける、そして、一つの過去にとどまることはないのだ。そんなことをブカレストの中心部にある、べルリンのアレクサンダー広場のように、人と車の渦の只中にある統一広場Piaţa Uniriiに立ちながら思った。通称アレックスことアレクサンダー広場も随分かわった。ブカレストの統一広場でいつかはそう感じるときがくるだろう。
べルリン同様、ブカレストに小生が引きつけられる理由、それについて昨年二回目にブカレストを訪れた時の2008年4月7日の日記に小生はこう綴っている。
多分、思い起こせば、僕の最初の歴史という物語との最初の接点として考えられる出来事は、昭和の終焉、ソヴィエト連邦の終焉、べルリンの壁の崩壊、東欧革命、湾岸戦争などだろう。それはすべて89年から90年にかけておこっている。あとは今僕がいるルーマニアでの89年に起った一連の出来事。僕が歴史というものを思い起こすたびに避けれない、この歴史というものにかかわらんがために強いて来た、これまで地球中の津々浦々で流されて来た血の量。歴史というものが想起させるのは、そのような血なまぐさ以外にありえない。
おそらくはじめて人が死ぬという、まさに歴史が、チャウセスクという独裁者を、血の洗礼でもってほふった映像を見た時、はじめて、僕はこの歴史という血なまぐさい物語の中へ、今から思えば、放り込まれたのだ。むしろ、自分がその只中にあることをさとった見せつけられた瞬間なのかもしれない。いいだろう、そうした認識は恐らく、今の自分による事後的なものだろう。
そのルーマニアで89年におきたこと。独裁者の死のシーン。そこに間接的であれ、それを同時代的に9歳の子供としてたちあったこと。それが、僕も「歴史」という「物語」に向かわせる契機の一つであった、といってしまってもよいのだろうか。独裁者の死の瞬間。無造作にころがされた肉体、それは「歴史」という物語が要求した犠牲であり、僕にとっては、それをテレビのブラウン管を通じて眺めてしまったこと、こうして、そこから逃げ出す機会は永久に失われてしまった。
そのことをいまこのブカレストの地で18年の時を越えて、今日、あの国民の館の前に立った時、なにかとともにふつふつと自分の中にわいてくるのをはからずも感じてしまった。その何かとは?なぜ、僕が、ほかの街にではなく、この街にだけ感じざるをえない、そのことにつきるのだ。多分、それはべルリンという、僕にとってかけがえのない街に対しての感情と類似しているのだろう。あとは、べルリンの壁が崩れた後、2ヶ月もたたないうちに、あの独裁者は自らの民によって処断されたのだということ・・・。
人間には他の動物にはない次のような能力がそなわっている。見ざる、聞かざる、言わざる、という。僕らはある現実をみることができないときは見ないですますこともできる、聞きたくないことがあるときは聞かざることもできる。言わなくてすむときは言わないでおくこともできる。それですませられる現実があるならば、それも可なのだ。なんにせよ、「歴史」という「物語」にかかわらなくてすませられるならこれほど楽なことはない。
僕らはその彼岸にいる。つまり、現実を「物語」化することを拒否するような場所であり時代に。そこでは、誰も、世界の現実をしらないし、そのまま知らないですませることもできる。それも可だ。とはいえ、そんな世界にいつつ、「歴史」や「物語」について語ることもいまや、過去の夢物語の一つを語るようななのだろう。僕らはその「物語」のどこにも登場しない、なぜ「物語」が終わってから、はじめて「物語」の舞台へとやってくるのか、そんなクロノジカルな病と後悔が僕らを「物語」へとコミットさせようとする。それを思うと、恣意的にそれに関わろうとするなどするのは、むしろ、いわば狂気の沙汰でもある。この「物語」は常に犠牲を要求するのだ。
今年、ルーマニアで革命がおこってまもなく20年になる。1989年の年末、テレビで見て、いまだ忘れられないチャウシェスク夫妻の銃殺映像。20年たっても鮮明に覚えている。そして、われわれはそうした時の過ぎ去り仕方の容赦なさの中にいるのだ。
べルリンでは、あと一週間弱であの壁にハンマーを打ち付けられた日から20年がたつことになる。小生はこの東西の交通の自由化に際して、あの日1989年11月9日、一番最初に開かれた東側の検問所のあったベーゼ橋Bösebrückeのそばに住んでいる。ほぼ毎日その橋下の近郊列車の駅へいくために通るこの橋も20年前のちょうど今頃はまだ誰もが渡れたわけではなかったということは、これまでの小生の日常生活の中でも、正直なところあまり顧みられることはなかった。しばしの間、今一度、その事実をかみしめることにしよう。
そして、12月21日には、ルーマニアはブカレストでも、あの日から20年がたつことになる。
ではでは、その時まで。また自戒。
(再録)Urban Exploring in Kjóto (2010年元旦)
明日ベルリンからイスタンブール経由へ日本へ帰国する。もう一年がたつというもの。思えば昨年の今頃はフンボルト大学での大学プロテストおよびAudimax占拠に参加し、心身ともに疲弊していた中での帰国だった。
昨年2009年は波瀾万丈ともいえる一年だった。今年は一年があっという間にすぎた、それほど成果をあげたと年ともいえなくもないけれど、次にステップに進む布石はしっかりと打てた年であったといえよう。
来年はきっと飛躍の年にしたいと思っている。
以上2010年元旦の記事再録。
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新年あけましておめでとうございます。
京都に帰って来てまず翌々日の12月27日昼ごろ東福寺にむかった。どうしても重森三玲の造園した苔と飛び石の組み合わせによる実にシンメトリカルに構成された方丈西庭をもう一度みておきたかったというのもある。20年も前に東福寺には来た事があったはずなのに、どうにも記憶になかったが、苔と飛び石のコントラストはおもったよりも地味に映った。それでも、12月末の京都のモノクロームな雰囲気には実に良く会っているような気もした。普段ならば枯れたように移る苔の色が背後の葉の落ちた木々と幾何学上にならべられた飛び石の乾いた色と比べても生気あふれて映える。
恒例マップに小生の足跡を追う。
Urban Exploring @ Kjóto auf einer größeren Karte anzeigen
日中10度前後の京都はその前の週ポツダム大学で寝泊まりした週末にマイナス15度を割り込んだ寒波が押し寄せたベルリン/ブランデンブルクの寒さが肌に残っている身からすれば、春も同然の陽気であった。
京都駅八条口から東福寺まで徒歩で向かう。その間までの界隈はいわゆる京都でも指折りの曰く付きの地帯。京都にも社会的な差別というものが厳然と存在する。歴史的にでもあり、理不尽なものであるのはいうまでもないが。
途中、昭和の始めにたてられたと思しき橋を通過する。最近の京都にはそういう古式な橋も実にすくなくなった。それでも、90年代半ばごろまでそんな風景はそこここにあった。最近特にかわってきたのだろうか。
前にもブカレストの下町を歩いているうちに京都の下町、特に西陣あたりの町並みがフラッシュバックしてきたということを
書いた事があったが、去年の4月クリミアはシンフェローポリの下町を歩いていたらやはりそのような風景に突如としてでくわした。多分、最近の小生は、頭のどこかしこ、記憶の片隅にうもれている原風景なるものを無意識のうちに追い求めているのとでもいうのだろうか。それが京都にあるのか、どこにあるのか、いま一つ判然としないのだが。少なくともカメラを握るその手を理由づけている。
東福寺を離れた後は、今熊野、そして鳥部野を経て、五条坂、祇園の裏を抜けて四条方面へと抜けた。帰宅してその日午後歩いた距離を調べてみれば、12㌔以上にもわたっていた。
小生が育った京都にはまだまだ知らないところがある。時間がある限りまた歩いていくだろう。
2010年元旦、京・北白川
ではまた自戒。今年も是非Lügenlernenをよろしく。
小生の小言
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