中津、大阪市北区、2016年1月7日午後

中津、大阪市北区、2016年1月7日午後

梅田の一つ手前。 京都から電車に乗って淀川を渡って最初の駅。 京都から阪急電車に乗り十三を過ぎて淀川を渡る鉄橋を渡る。目を閉じて、電車からの窓ごしに川を実際に目の当たりにしなくとも、ヘッドホーンからどれだけ高揚するような大音量の音楽に聞こえてこようと、背後に聞こえてくる阪急京都線の特急電車が鉄橋を渡るガタンゴトンの音が、これから大阪のカオスに踊り込もうとする小生をある種の興奮状態へと導く。

チャリ通たちの蜂起

チャリ通たちの蜂起

月に一度に「発生」する自転車の大軍 クリティカル・マスという言葉を初めて耳にしたのは昨年ぐらいのことだった。カリフォルニア出身の女友達が、ベルリンでもここ数年クリティカル・マスという名の自転車デモが「起こる」とようになってきて、数千人サイクリストがベルリンの街中を行く様は壮観だった、と興奮気味に語っていたのが、初めてだったと記憶している。

あるヒップスターの帰還。

あるヒップスターの帰還。

過去との遭遇 先週、自分が当ブログで3年程前に物した「ヒップスター」について書いたログを読んだという方と偶然知り合うという僥倖にあずかった。ブログに何かを書くということとは、インターネットという荒れ狂う大海にガラス瓶通信を擲つようなものだと考えているから、それはそれで名誉なことだ。

ダニエル・ドゥフェールによるミシェル・フーコー。

ダニエル・ドゥフェールによるミシェル・フーコー。

ミシェル・フーコーという思想家が鬼籍にはいって、今年で31年になる。 最近、フーコーの生前の公私におけるパートナーであったダニエル・ドゥフェールが、ドイツはdie Tageszeitung誌のインタビューに応えた。ドゥフェールのインタビュー形式の自伝が、ベルリンはメルヴェMerve Verlagからドイツ語で翻訳出版されたのに際しての行なわれたものであった。 ダニエル・ドフェールは1937年生まれの今年78歳。1926年生まれのフーコーの11歳年下である。ドゥフェール自身も社会学者であり哲学者であるが、なによりも、フーコーの死後、エイズ及びその患者の為に立ち上げたAIDESという組織の発起人としても知られている。 ドゥフェール自身によって語られる自身の政治的経歴、そしてフーコーとの公私における関係についての下りは、それだけでも興味深い。特に、フーコーがどれだけ国家権力と日頃から敵対的にあったか、という闘う思想家の一面をかいま見るに充分なエピソードも語られている。

Anja Lechner & François Couturier-Moderato Cantabile

Anja Lechner & François Couturier-Moderato Cantabile

最近は全く自分の聞く音楽について全く書いてこなかったけれど、久々に素晴しいセッションを耳にする機会に恵まれたので、それについて今日は少し書き留めておきたい。 ECMというミュンヘンをベースにしたレーベルを小生は高校生以来ずっと追い続けている。1969年にマンフレッド・アイヒャーによって創設されたレーベルは当初からジャズを皮切りに、民族音楽から現代音楽まで、ジャンルを超えた音楽を紹介し続けている。特に1984年にスタートしたNew Seriesは創立当時から現代音楽をフィーチャーし続けている。このころまだ世界的には未明であったアルヴォ・ペルトやギヤ・カンチェリといった作曲家をいち早く紹介したのもこのレーベルだ。特に中欧や東欧、あるいは中東・コーカサスといったなかなか他のレーベルでは耳にできない作曲家の作品を重点的に世に問い続けているのもこのレーベルの特質だ。

最後のパサージュ。スペイン、ポルボウ、2012年10月23日。

最後のパサージュ。スペイン、ポルボウ、2012年10月23日。

忙しいことにかこつけて、なんでも言い訳が許されるように思うと、そのうち自分の日々の作業自体が滞りはじめるようになる。 今年は、第二次大戦集結70年の年でもあったが、大戦勃発からも今年で4分の3世紀が過ぎ去ったことについてはなかなか人々やメディアの言葉の端にのることはなかなかない。 そうする中、先月末の9月26日、20世紀前半を代表する思想家であるヴァルター・ベンヤミン没後75年という節目を迎えた。 今日の御題はこの節目の日の為に用意していたのであったが、うっかり、亡失、そのうち二週間も過ぎてしまった。遅きに越したことはないが、今日小生が語る内容は、ある程度、昨今の難民の問題とリンクする、アクチュアルなテーマと考えているので、今日改めてこのLügenlernenに更新することにした。

パルドゥビチェの火葬場。2014年10月15日

パルドゥビチェの火葬場。2014年10月15日

先週半ば、カメラバックの奥底からカラーのブローニーフィルム2ロール、一年ぶりぐらいに発掘された。特に何を撮ったのか思いを巡らせることもせず、そのまま、他のフィルムと一緒にそのブローニーフィルムを現像に出したのが、一昨日ぐらいに戻って来た。 ひょんなことからその存在をすっかり忘れていたそのネガティヴには、ちょうど去年の今頃、プラハを去る前ごろに撮った絵が写し込まれていた。 昨年の今頃はまだプラハに住んでいたのだ。 この春から夏にかけて博士論文の執筆とリサーチで図書館に住むような生活が続いていたその多忙さから、昨年の今頃の話など、遥か彼方の昔である。

記憶という往生際の悪さについて・・・Teplice v Čechách, Czech Republic, December 2011

記憶という往生際の悪さについて・・・Teplice v Čechách, Czech Republic, December 2011

人間の記憶などたかが知れている。知れているがゆえに、それを往生際悪くその消え去りかたをあらゆる算段を用いて引き止めようとする。時間の経過とともにあせていく、自分の脳裏から消え失せていくその様こそが、記憶そのものの絶対条件なのだから。僕らは、そうしたいかにしても揺るぎ難い前提に抗しながら、なんとか上から下から左から右から、なんとか引き止めようとする。

ビールを飲みに駅にいこう。プラハ・デイヴィツェ駅、2015年5月14日。

ビールを飲みに駅にいこう。プラハ・デイヴィツェ駅、2015年5月14日。

チェコの駅ナカ飲み屋は小生のチェコにおける最大のツボの一つである。 駅とは、内田百閒がかつてのたまったように、「なんにも用事はないけれど、列車に乗つてどつかへいつてこよおとおふ」というように、用事があるにしろないにしろ、列車に乗ってどこかへ旅立つ場所でもあり、かつて小生が幼きころそうであったように、列車を見にいくような場所であり、カメラとヘビーな三脚を抱え方々を飛び回る鉄男にとっては聖地も同然の場所である。 ところが、この国には、駅に「飲み」にいく、という、極東の我が祖国にはまず存在しない言い回しが存在する。そのような言い回しが存在するぐらい、この国の駅という駅には、飲み屋が、鉄道の駅のあるところ必ずといってほど存在する。

スターリンかマイケルか − 歴史の大皮肉について。

スターリンかマイケルか − 歴史の大皮肉について。

最近話題の白井聡氏の「永続敗戦論」が今回の帰国後、まず手が伸びた本だった。昨年の春出版されて以降、今に至る迄版を重ね続けている話題の書。今年の秋いまさらながら小生もこの本を手にした。 白井氏は本書の末尾に、彼がベルリンを訪れた際にブランデンブルク門横で目の当たりにした奇妙な記念碑について書いている。それは「対独戦戦勝記念碑」という。それが、なぜブランデンブルク門と戦勝記念碑(ジーゲスソイレ)の間、しかも旧西ベルリン側に建造されたのかは、未だに謎だが、その記念碑のその存在自体が大いなる皮肉ではある。つまり、俺たち(ソ連をはじめとした連合国)がきさまら非道なファシストに勝利したことを、永遠に忘れることなかれ、と。

京都・東山今熊野、2012年11月、並びにベルリン、2013年2月。

京都・東山今熊野、2012年11月、並びにベルリン、2013年2月。

この地にはらまれしもの、 この地に生をうけるもの、 この地で地の祝福をうけ、 この地の灰となりし塵となれる、 汝と我のこと。 この地にありしものが、 そこに在る過程へと、 やがては地に朽ち果て、 再び塵と化し灰となり、 滅び行く姿を捉える、 容赦ない観察者。 その姿を捉えるはその一瞬一瞬である齣にすぎない。

Bio-Oko, プラハ・ホレショビチェ、2014年2月23日

Bio-Oko, プラハ・ホレショビチェ、2014年2月23日

ベルリン映画祭などで滞在が思いのほか長引いて3週間の長きにおよび, プラハ帰還はついこの日曜日の正午ごろにずれ込んででしまった。 家に帰れば、マヌケチェック同居人が3週間の間まるで家の掃除をした形跡もなく、 小生の部屋のベットではあの雌犬が昼寝をしていたらしく、ベットは犬の毛まみれという大惨事。 帰宅の午後中を家の掃除に費やすはめに。

ユーリ・アンドゥルホヴィチによる昨今のウクライナ情勢についての公開書簡。

ユーリ・アンドゥルホヴィチによる昨今のウクライナ情勢についての公開書簡。

皆様もご存知かと思うが、年末からキエフの独立広場を占拠したヤヌコビッチ政権へのプロテスト行動が今現在も続いている。 キエフでの状況はここ数日である意味臨界点に達したともいえる。抗議行動への弾圧は現地でも相当にエスカレートしている模様で、政権は抗議行動をあの手この手を使って取り締まろうとしている。 ここ数日メディアを飛び交う写真や映像はとても現実のものとは思えないほどだ。 http://www.boston.com/bigpicture/2014/01/riots_in_ukraine.html http://www.rferl.org/media/photogallery/25240076.html 昨日、ウクライナ人作家のユーリ・アンドゥルホヴィチによるウクライナ情勢についての公開書簡が、彼の著作を発表しているドイツのズールカンプ社を通じて、発表された。時同じくして、同様に彼の著作を出版しているポーランドのチャルネ社からも同じ内容の書簡が公開された。皆様もご存知かと思うが、年末からキエフの独立広場を占拠したヤヌコビッチ政権へのプロテスト行動が今現在も続いている。

大阪市此花区西九条近辺、2013年1月。

大阪市此花区西九条近辺、2013年1月。

やれやれ。秋も深まって参り夜長となるこの頃。 プラハも、恐らくベルリンも、秋の色濃く、街路樹は段々とその葉の色をかえて、それはやがて自らを落ち葉に埋もれさせていく、そんな季節になってきた。 街の空気も段々肌を冷たくさするようなこんなとき思い出すのは、かつて日本にいた頃、どこかの河川敷あたりで見た光景。 小生も東京に4年間おりしおり、一年半を東京の北は赤羽、二年半を武蔵野は府中で過ごした。 その赤羽にいたころ、年中を通して、よく夕暮れ頃、散歩がてら赴いたのがすぐそばを流れる荒川だった。秋も深まる季節、日がとっぷりくれた時間、河川敷を歩いて目の当たりにするのは、鉄橋に、それを通り過ぎる京浜東北線。その横をまたぐ自動車橋の上を家路へと急ぐる自転車の影。そこへ橋の鉄筋が夕闇へと解けてゆく。

風雲!パンク城。ベルリン最終攻防戦?

風雲!パンク城。ベルリン最終攻防戦?

先月のエンガーというドイツ随一のド田舎に関する記事の中で、パンクとそいつらを引き連れる御犬様について言及したので、思い出したが、そういった連中は最近のベルリンでも段々とお目にかかることが少なくなってきた。それも昨今のベルリンの文化的政治的傾向と無縁ではない。 一般的なイメージとして彼らにつきまとうもの。革ジャン。それについているイボイボやトゲトゲ。モヒカン頭。あるいはヤギ頭もしくはヤギのようなひげ。Sternburg、通称Sterniというライプチヒ産の究極のションベンビールを愛飲(もしくは痛飲)。北斗の拳に出てくる雑魚キャラのような風貌、といえば、ご理解いただけるかもしれない。 とはいえ。路上で生活することを強制されている連中もいるので、嘲笑や笑いの種にすることは断じてしたくはない。 ベルリンにはそうした連中が、普通に暮らせる場所がこれまでのことかかない、ということで、ヨーロッパ中もとい世界中から若いパンクやアナーキストたちがベルリンへと自然と集結するようになったのも、今に始まった話ではない。

シェニャフカ、一時間弱。並びにSieniawka。(下)

シェニャフカ、一時間弱。並びにSieniawka。(下)

先日した中央ヨーロッパの国境地帯の話の続きをいたそう。 ポーランドの南西の最果てにあるシェニャフカという小さな村。ここは小生が訪れたポーランドもとい中央ヨーロッパの場所の中でいまだかつてなく強烈な印象を残してくれた場所である。 前回も紹介したが、このポーランドの最果て、独逸とチェコ共和国の国境三角地帯に存在する、この香しき地を訪れたのは同名のSieniawkaなるドキュメンタリー映画を見たがゆえであった。

シェニャフカ、一時間弱。並びにSieniawka。(上)

シェニャフカ、一時間弱。並びにSieniawka。(上)

ヴァーンスドルフを訪れてから2日後のことだ。天気もよくようやく夏のはじまりか、と思えるような週末の日曜日の午後のことだ。 映画館へいくような、天気にあらず、と小生たちはナイセ川沿いへと散歩に出かけることになったのだが、ふと思いついたように足を運ぶことになったが、チッタウのナイセ川を挟んだ向かい川にあるポーランド側にある集落だ。 チッタウからナイセ川を挟んだポーランド側にも小さな集落があって、かつてはチッタウの街の一部であったのだが、現在はポーランドの四角形上の国土の左下隅に位置する自治体であるボガティニアBogatyniaの一部となっている。 その村の名前をシェニャフカSieniawkaという。

ヴァーンスドルフ、二時間。

ヴァーンスドルフ、二時間。

電脳派チェコ文学者などという不遜な自称を奉じておきながら、あるまじきことに2011年の12月以降、一年半以上もチェコ共和国の地を踏まない日々が続いていたが、久々に彼の共和国の一部であるボヘミアの地へと再上陸を果たしてきたのは5月の初頭のことであった。 といっても、独逸から国境を跨いですぐの場所にある小さな街に、たった二時間程の間であったが。 独逸はザクセン自由州Freistaat SachsenはツィッタウZittauからザクセンとボヘミアをまたぐローカル線に揺られて15分程にあるヴァーンスドルフVarnsdorf。かつてはWarnsdorfと綴っていたのは、オーストリア・ハンガリー帝国の時代からチェコスロヴァキア第一共和国の時代を経て第二次世界大戦の終焉まで独逸人人口が街の多数派を占めていたが所以だ。

この呪われたる「自由」の国に。

この呪われたる「自由」の国に。

誰もが考えたくない結末だろうが、今やあらゆる可能性を思いめぐらせる必要がある状況に至ったのかもしれない。しかし、そのような危惧は実は別の意味で的外れということに気がついた。 「戦争は絶対にさけなければならない、あるいはおこしてはならない」ということを絶対的前提。なのに、「戦争がおこったときの備え」についてイの次に口するやつが背後にいるのは必ず、「戦争」という資本主義にとっての最高にスリリングなゲームが、そしてもっとも手っ取り早く甘い汁を据える方法であるがゆえだ。

さよなら、ヒップスター。

さよなら、ヒップスター。

ベルリンはオルタナティヴスト、究極のインディヴィジュアリスト、もといパンク、アナーキスト、シュヴァーベ(ベルリンでは田舎者という意味で使われる)たちの都といわれて久しいが、まあどれもあたってるんだろうと思う。有造無造の連中がいるこの街は誰がどうなんといおうと貧乏は貧乏でそれは不幸であるけれど、小生の中では、いまだ世界一セクシーな街であり続けている。 そんな世界一セクシーな街に引かれてやってくる連中も様々だが、ここ数年この街の様々なシーンを、特に小生の住む西ベルリンはノイケルンやクロイツベルクにて、にぎわせている連中がいる。 そいつらはかつてヒップスターHipsterといわれていた。